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第4話

 人は空気をまとう。  そして、『空気を読む』ことは、俺の唯一の特技だ。  例えば、誰かが髪をばっさり切ってきた時。「髪切った?』と聞いた後に、「ああ」と答えた時の相手の言葉のニュアンスと、表情と、まとう微妙な空気の変化。  それで、それが気に入っているのか、気に入らないのか、はたまた切った裏側に何かしらの理由があるのか、なんてことを感じ取る。そうして、最適な答えを用意する。「それ似合ってるじゃん!」なのか、「思い切ったな~」なのか、「俺も髪切ろうか考えててさ~」と流すのか。  そういう、いつの間にか身に着けた『空気を読む』力で、俺はこれまでの人生を大体乗り切ってきた。読み切れずに盛大にしくじったのは、ヤクザにボコボコにされた今回くらいだ。  だから、この空気もよくわかる。  内心ため息を吐きながら、俺はカウンター席に座っている二人組の女性たちに目をやった。六十代くらいに見える二人は、おまかせで注文した握りを食べているところだ。  百々寿司には細かいメニュー表はない。卵焼きも入れた八貫のおまかせか、お客さんに予算を聞いてそれに合わせて提供する。  今日のおまかせは、秋が旬の天然もののタイとサクラエビが入っている。俺は寿司には全く詳しくないが、真曰くかなり当たりの日らしい。味も悪くないはずだ。  けれど、二人から感じるのは、ギシギシと軋んだ空気。つまり、『居心地がめちゃくちゃ悪い』という空気だ。  理由は単純明快。  カウンター内ににこりともしないデカい男が突っ立っているから、だ。 「いらっしゃいませ〜!」 「あら……ああ、こんにちは……」  重苦しい空気を吹き飛ばすように、無駄に元気よく店の奥から現れた俺に、カウンターに座った二人がぱっと顔を向ける。真と同じ藍色の作務衣を身に着けた俺に「誰この子」という視線が突き刺さる。 「あ、俺、いまここで住み込みバイトさせてもらってるんです!通ってる大学のボランティア活動で、地域活性化のために地方のお店の手伝いをするっていうのがあって」  知らない若い男に対するピリッとした警戒。めげずににこにこと笑って話し続ければ、それもゆるゆると解かれていく。 「あ、でも俺、寿司は握れないんで、掃除とか洗い物とか、そんなことしかできてないんですけどね、あはは〜」 「まあ……でも若いのにボランティアなんて、立派ねえ。私の孫も大学生だけど、遊んでばっかりで年末にも帰って来ないわよ」 「ええ!そうなんですか!?自然も豊かで食べ物も美味しい良いところなのに。俺、ボランティア先がここでほんっとよかったな〜って思ってるんですよ!真さんも親切だし」  まあちょっと顔は怖いですけど、と冗談めかして言えば、二人がくすっと笑って、場に張り詰めていた硬い空気が和らいでいく。笑顔で明るくて気さくな、素性がしっかりした好青年。こういう雰囲気を出せば、この年代の人は大体悪く思わない。 「でも、ちょうどいいタイミングね〜。誠造さん、骨折で一ヶ月入院なんですって?」 「ああ、そうそう!大変よねえ!」  堰を切ったように話し出した二人に、俺は笑顔で相槌を打つ。誠造さんというのは真の爺ちゃんのことで、この百々寿司の大将だ。仕込みの最中にうっかり転んで、足の骨を折って全治一カ月の入院中。おかげで、その部屋を今は俺が使わせてもらっている。 「まだ二十歳なのに、一ヶ月一人でお店を切り盛りするなんて……」  言いながら、女性の一人が真のほうへちらりと視線を送る。けれど、話題の中心にいるはずの男は、相変わらずの無表情でカウンター内に突っ立っているだけだ。  おいおい、と思っていると、二人も真のピクリとも変わらない顔に気づいたのか、途端に気まずそうな表情が戻ってきた。握りを食べ終えたタイミングで、お互いに顔を見合わせてから、いそいそと席を立ってしまう。 「握り、美味しかったわ。さすが誠造さんの一番弟子ね」 「ええ、ごちそうさま。大変だろうけど、頑張ってね。誠造さんにもよろしく伝えて」  会計中、気遣うような言葉を口にしながらも、真をうかがうように見るその視線には、明らかに不審感が滲んでいる。  相手を値踏みして、卑下する目。  目の当たりにして、お釣りを渡す手が一瞬、強張る。 「……ありがとうございました」 「……っ、あ、ありがとうございました~!またお待ちしてます!」  ようやく真が発した低くぼやくような声にはっとして、慌てて入り口から出ていく背中に声をかける。二人が振り向いて、僅かに微笑んでこちらに手を振った。   「……は~……」  だだっ広い道路の向こうに二人の背中が見えなくなるまで、辛抱強く見送ってから、俺は思わず重たい溜息を吐いた。また来てくれるかは、かなり怪しい。  もう辺りは薄暗く、ぽつぽつ灯る街頭の光の輪の外側は暗闇だ。山の中は日暮れが信じられないくらい早い。けれどその分、夜に眩しいくらい光るものがあることに、最近俺は気が付いた。ぐっ、と背中を反らせて、目を瞠る。 「……おー……」  夜空に散らばる、無数の星。大学近くに借りた学生アパートのベランダからよりも、ずっと沢山見える。チラチラと瞬くように光る粒は、よく見ればどれも大きさや光の加減も絶妙に違う。素直に、綺麗だと思う。  こんな風にド田舎で星を眺めている自分なんて、想像もしなかった。柄にもなく感慨に耽って、ふう、と息を吐く。病み上がりの身体が傷まない範囲でぐーっと伸びをしてから、星空に背を向けて店先の暖簾を外した。 「表、暖簾外したぞ~」  ガラガラと引き戸を閉めて入り口に外した暖簾を立てかけながら声をかける。カウンター内から返ってくる『ありがとう』という声がワンテンポ遅い違和感にも、だいぶ慣れてきた。  百々寿司の営業時間は、夕方五時半から夜十時まで。以前はランチ営業もしていたらしいが、一人と素人アルバイトでは手が回らないので、今は夜のみの営業だ。 「ここって星がよく見えるよなー。やっぱ空気がきれいとか、関係あんのかな」  慣れない左手で床掃除を始めながら、黙々と今日の賄いの海鮮丼を準備している真に声をかける。  はた、と手を止めてこちらを見た真が、ああ、今考えてるな、とわかって少し面白い。最近、声を掛けてから数秒真が固まるのは、シンキングタイムなのだと気付いた。 「星、好きか」 「え……?まあ、嫌いではない、けど」 「どこが好きなんだ」 「どこって……ええー……なんていうか……特別なかんじがする、から?」 「特別?」 「あー……、俺の住んでるとこじゃ、星なんて、そんなに見えねーんだよ。だから、見えたらなんか……特別なかんじ、すんの」 「ああ……俺も、星は好きだ」 「……そりゃーよかった」  顔色一つ変えずに言う真に、無意識にそっけなく返してしまう。仕方ないだろ、なんだこの会話は。付き合いたてのカップルじゃあるまいし。    俺が百々寿司で生活して一週間が経った。  朝十時くらいに起きると、真は既に起きていて仕込みを始めている。俺は朝メシ、真は昼メシを一緒に食べて、午後は開店時間まで真と買い出しに行ったり、何もなければ住居になっている二階でぼんやりテレビを見たり、そのへんをうろついてみたりする。店を閉めた後は、後片付けをして、真の作る賄いを食べて、寝る。  毎日終電まで飲んだくれていた大学生活とはかけ離れた、のんびりしているが規則正しくもある生活ルーティーンが、既に身体に馴染んできている。  当然のことだが、真と一緒にいる時間はかなり長い。付き合いの短い他人と生活することに最初は少し緊張したが、すぐにそれも感じなくなった。というか、正直、真といるのはなかなか居心地が良い。  もともと真はあまり喋らないし、何を言っても表情一つ変わらない。だから、いくら空気を読むのが得意でも、その内心はほとんど窺い知れない。早々に諦めて下手に気を使わず素のままでいるようになると、かなり気が楽になった。人の顔色や雰囲気を気にしないで生きることはこんなに楽なのかと、感動すら覚えるほどだ。  だから余計に、唯一、気になることがある。  真が何かと俺に質問をしてくることだ。  これまで長いこと爺ちゃんと二人暮らしだと言っていたから、同い年の俺の存在が物珍しくてあれこれ聞いてくるのかもしれない。ただそれにしても、その質問が、さっきの質問みたいな「それ聞いて何になるんだ」と言いたくなるものが多すぎる。好きな食べ物、色、動物といった小学生レベルの質問から、そばとうどんどちらが好きか、唐揚げにレモンはかけるか、というやけに突っ込んだ質問まで、あの無表情・無感情な声で聞いてくるのだ。  もちろんその真意なんてさっぱりわからない。ので、馬鹿正直に質問に答える俺ができあがる、というわけだ。これに慣れるのには、まだ、いや、かなり時間がかかりそうだった。 「それより、さ」  先ほどまでマダムたちが座っていた席にどっかりと腰かける。「星が好きだ」なんてロマンティックなコメントをついさっきしたとは思えない無味乾燥な男の顔を、じと、と斜め下から見上げた。 「お前のこと、怖がってたぞ。あの人たち」  ぴたり、と真が手を止める。こちらをじっと見て、しばらく後に、こくり、と板前用の和帽子を被った頭を上下させた。 「そう、みたいだ」 「そうみたいだ、って……」 「いつも、ああいう風に見られる」  静かに語る真の言葉からは、悲しいだとか怒りだとか、そういった感情は読み取れない。ただ、事実を口にしているだけ。そんな様子に、ぐっと言葉に詰まる。  真は絶望的に空気を読めない。それをこの数日の間で、俺は身をもって理解した。  真の表情は、本当にほとんど変わらない。そこは反応するだろ、と思うところでも、大体あの表情筋の死んだ顔のまま。しかも、無駄に整った顔をしているせいで、無表情が余計に威圧感に拍車をかける。イケメンが台無しとは、まさにこのことだ。 「あー……なんていうか、もっと笑ったりしてみたら?」  先ほどの女性たちの目を思い出す。あんな視線を浴びたら、俺だったらいたたまれなくてたまらない。なんでそんなに淡々としていられるのか、理解できない。  いつもなら、他人がどう思われていようが、気にしたりなんてしない。自分の印象が良ければそれでいいから。それなのに、柄にもなくアドバイスなんてことをしている。それくらい、真は見ていられなかった。 「笑う……」  ぽつりと呟いた後、僅かに真の口元の筋肉がぴくぴくと痙攣する。その後、何事もなかったかのような無の表情に戻って、じっとこちらを見てきた。 「……え」  まさか、それが笑顔のつもりか。いや、嘘だろ。  軽く頭を振って、テーブルクロスを手に取った。ノーコメント。今のは見なかったことにする。 「……働いて、大丈夫か」  記憶を抹消しながら左手でテーブルを拭いていると、今度は珍しく真から声をかけてきた。こちらを向いて一点を見ている真の視線を追っていくと、俺が着ている作務衣の裾から、白い包帯の巻かれた右手首が見えていた。 「働いてるって言うほどのこと、してないだろ」 「……お客さんと話している」 「いや、それ仕事か?」 「仕事だ」  心持ち力強く頷いた真に、思わず苦笑いが浮かぶ。店に来る客と世間話をしているだけだが、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」くらいしかまともに話せていない真の分を話していると思えば、確かに立派な仕事になっているかもしれなかった。  真は無表情で、話下手で、まあ変わった奴だ。でも、こうして捻挫した俺の手首を心配したりして、決して情がないわけじゃない。  けれどそれは、真の周りの人間には残念ながら伝わっていない。空気を読めない真は、周囲に馴染めず、ただの『変な奴』で終わる。だから、ああいう目で見られる。 「……そうかよ」  勿体ない奴。心の中で、やけに冷めた俺の声が呟いた。

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