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第7話
「おあいそ、お願い」
「……ぇ、あっ、はい!」
男性客からかけられた声に、数秒遅れて俺は慌てて笑みを作った。既にコイントレーに置かれていたお札の代わりに、カウンター横にある戸棚の引き出しからお釣りを用意する。ついでに、引き出しの中の脇にストックしてある飴玉を一つ手に取った。
「こちら、お確かめください。あと、お嬢さんにはこれ、どうぞ」
男性に釣銭を渡してから、その横でこっちをじっと見上げていた小学生くらいの女の子に向かってしゃがみこむ。俺の差し出した手の上の、黄色の包み紙に包まれた飴玉を見て、女の子の表情がぱっと明るくなった。もらっていい?というように父親の男性に目線を向ける。
「良かったな」
「うん!おにいちゃん、ありがと!」
どういたしまして、と女の子ににっこりと笑い返してから、立ち上がってガラリと入り口の引き戸を開けた。ひんやりとした夜の空気が頬を撫でる。
「ありがとうございました!また娘さんといらしてください」
「そうするよ。ああそうだ、うち近くで直売所やってるから、今度来てよ。おまけするよ」
「ほんとですか!行きます行きます!」
ばいばい、と手を振る女の子と手をつないだ男性が、真のほうにも軽く会釈をしてから店を出ていく。その背後に、相変わらず抑揚のない真の『ありがとうございました』の声が掛かるのを聞きながら、俺は深々と頭を下げた。
ここ最近、ほんの少しだが百々寿司の客足は増えていた。今のお客さんのように、今まで来たことがなくて初めて来てくれた人も多い。もしかしたら、俺のネット戦略の成果なのかもしれない。本当であれば、カウンター内にいる真に向かってドヤ顔をキメてやりたいところだ。
けれど、今、俺には少々複雑な事情がある。
「千隼」
「……おー、さらしか?取ってくるから待ってろ」
引き戸を閉めると同時に背後からかけられた声に、振り返らずに答える。そのままカウンター内には目線をやらずに、店奥へ向かう廊下を足早に進んで、さっと風呂場に滑り込んだ。
パチリ、と浴室の電気をつけると、突っ張り棒に掛けられたさらしの白が眩しい。手近にあった一枚を手に取って、半分に畳む。と、同時に。
「……はあー…………」
深い溜息が勝手に口から漏れて、浴室内にこだました。
1週間前、真の手によって俺は射精した。
男に自慰の手伝いをしてもらったことなど、もちろんない。酔った勢いで抜き合いするか!と話になっても、結局酔いが回っているからか全く勃たなくて笑って終わり、ということは何回かある。だからこそ、しっかり勃って、男の手でイッた、という事実が、めちゃくちゃに重たい。
しかも、溜まっていたこともあるが、結構、いや、かなり、気持ちよかった。そのせいか、若干、ほんの少し、とんでもないことも口にしたような気がする。
それだけで十分頭を抱える余地があるのに、それを上回る混乱を与えてくるのが、一ミリも態度が変わらないあいつの反応だ。
あの日、しばらく居間で真が部屋から出てくるのを待っていたが、結局真が出てくることはなかった。本当はあの時に、異常な出来事をうまく水に流せるよう、「いやー、お世話になりました!」とか「お前のもやってやるか!?」とか無理矢理茶化してなんとかフォローしたかったのに。
翌朝、いつも通り真に「おはよう」と言われ、つい俺も「おはよう」と返してしまった。あまりに平然としている真を前に、あの件を蒸し返すのを躊躇ってしまった。
それで、完全にタイミングを逃した。
「田舎じゃ抜きあいが普通、とか……?」
ぶつぶつとぼやきながら、さらしを一枚ずつ取っては畳み、取っては畳みを繰り返す。こんもりと白い山が出来上がっても、結局何の解決策も浮かんではこない。
「はー……気にしてるの、俺だけか……?あいつ、何考えてんだよ……」
抑えきれない言葉を小声で呟きながら廊下を戻る。裏からカウンター内を覗き込むと、真が数分前と全く変わらない立ち位置で黙々と作業をする後ろ姿が見えた。
「持ってきたぞ」
「……ありがとう。三枚くれ」
「おー」
こちらを振り返った真に手元から三枚引き抜いて渡して、残りは戸棚の下段に詰めていく。その間、斜め上からじっ、と視線が注がれているのを感じていた。
最近、真によく見られている。先ほどの客とのやり取りの間も、後ろからひしひしと真の視線を感じていた。いつから見られていたのか、どんな意味があるのか、例の自慰手伝いが関係あるのか、何もわからない。
けれど、問いただすのも今はなんとなく気まずい。とりあえず、その場しのぎの気づかない振りでなんとか乗り切っている。ここに転がり込んできてから、今が一番気を張っている気がして、うっかりまた溜息が漏れそうになる。
「明日の仕入れ、来るか」
「…………え?」
何の脈絡もなく突然降ってきた真の言葉に、反応が遅れた。俺に言ってるんだよな?と、当たり前のことなのに思わず周囲を確かめてしまう。
「来るか」
「え……い、行っていい、なら……」
「いい」
一つ頷くと、真はこちらに背を向けて作業に戻った。さらしを握ったままその背を見つめる俺の脳内には、何百回目の『こいつ、何考えてんだ』が浮かんでいる。
「朝四時出発だ」
「……え」
ガラガラ、と客の訪れを告げる引き戸の音に、俺の悲痛な声はかき消された。
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