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第8話
窓の外を流れていく代わり映えのない田舎の風景。聞いたことのないラジオパーソナリティの笑い声が流れる狭い車内。助手席でぐったりと背もたれに凭れた俺は、半目で呻きながら声を上げた。
「真……これ、毎日やってんのか……?」
「……定休日以外は」
ハンドルをさばきながら、隣の運転席に座った男が平然と答える。黒のパーカーとジーンズに身を包んで、淡々と車を走らせ続けている真は、もはや馴染みの無表情。今日ばかりは、真のその表情の変わらなさが、いつもとは違う意味で信じられなかった。
「朝四時に起きて、二時間半車走らせて仕入れ行って、また二時間半かけて店に戻って、午後から仕込みして、夕方には店開けて……こんな生活ずっとしてんのかよ……信じらんねー……」
ぼやくように呟いた言葉は、偽りない本心だった。現に、俺は今にも倒れそうなくらい眠くてたまらない。
朝起きると既に仕事をしている真の姿は毎日目にしていた。けれど、こんな大移動を含んだ仕事をこなした後とは、全く気付いていなかった。これなら、真が夜あれだけ早く寝るのにも納得する。俺、最近ちょっと健康的な毎日を送ってるな、なんて思っていたのが少し情けなくなった。
「豊洲、初めて行ったわ。今日入ったとこって、普通じゃ入れないんだろ?」
ぐーっと伸びをしながら、眠気覚ましも兼ねて真に話しかける。じっと前方を見据えたまま運転を続ける真が、静かに頷いた。
「まーそうだよな。あんな迷路みたいなとこ、一般人が来たら邪魔すぎるわ。俺も真に着いてくだけで大変だったし」
広い豊洲市場の一角の、水産仲卸売場棟という場所が、真に連れられて足を踏み入れた場所だった。新鮮な魚が所狭しと並べられ、あちこちで声が飛び交う、テレビで見たことがあるだけの場所。あまりに異空間すぎて、俺は完全にお上りさん状態で真の後ろを着いていくことしかできなかった。
真に借りたパーカーの袖を捲りながら、ドリンクホルダーに入った缶コーヒーに手を伸ばす。一口飲みながら思い返すように言葉を続けた。
「でもさー、ちょっと意外だったわ。真がああやって買い付けとかしてんの。交渉とか、なんか苦手そうな気がしてたから」
まともに客と会話できず、むしろ結果的に威圧してしまっている真の姿しか知らない。だから、勝手知ったる様子でさくさく歩いていって、店主と手短に話しては買い付けを済ませていく真に、その後ろでひそかに驚いていた。
「交渉はしない」
「え?でも、買ってただろ」
思わず真横を見ると、ハンドルを操作しながらちらりと真が視線をこちらに投げた。
「いつも、言い値で買っている」
「え、それじゃ、良いようにふっかけられてるかもしれねーじゃん」
「いや。信頼できる、馴染みの店だ」
きっぱりと言い切った真に、どことなく強い意志を感じて、反論の口を閉じる。中学生の頃から店の手伝いをしていると言っていた真は、間違いなくそっちの業界の人間。見習いだとしても、俺が来るまで一人で店を回せるだけの寿司職人としてのノウハウやスキルを既に持っている。だからこうやって、はっきり言えるんだろう。
確信なんてものは一つもない、俺とは違って。
「……そっか」
淡々と運転を続ける真の横顔を尻目に、曖昧に相槌を打って窓の外へと思考を逃がす。久しぶりに嫌な思考回路に入った。
「……寝てもいいぞ」
眠くなったと勘違いしたのか、赤信号に静かにブレーキを踏みながら真が話しかけてくる。眠気ならつい数秒前に飛んだところだ。
「寝ねーよ。……あー、じゃあ、暇つぶしに、真クンに百の質問コーナー。はい、好きな果物は」
「…………、りんご」
気を紛らわすために勝手に始めた無茶振りだが、一瞬黙りこんでから、ぼそりと返答が来た。真は意外と、ノリは悪くないほうだ。
「嫌いな動物は」
「……猫」
「へー、珍しいな。なんで?」
「……懐いたと思ったのに、ふらっといなくなる」
「ははは、あー、野良猫のことか。お前ちょくちょく餌やってるもんな。ふーん、じゃー、一番好きな給食のメニューは」
「……アジフライ」
「うわ、渋すぎ」
思いつくまま、適当にポンポンと質問を投げつけると、三秒くらいの間をおいて、真がぼそぼそと答えを返してくる。意外な回答もあって、なかなか面白い。
眠気覚ましも兼ねて続けていくうちに、特に考えもせずに、俺はその質問を口にしていた。
「じゃー、初恋の子の名前は?」
「………………」
「おい、真、次、初恋の子の、な、まえ……」
ふいに黙り込んだ真を振り返ったのと同時に、喉から音が消える。
ハンドルを緩く握ったまま、真がこちらに顔を向けていた。目が合って、黒い瞳が、ゆらりとほんの少し揺れる。
最初に見た時、冷たい、深い海のようだと思った目。
その視線に、今は熱を感じた。
パッパー、と背後から鳴らされたクラクションに、パチン、と空気がはじける音がした。ビクッ、とお互いの身体が震えて、弾かれたように俺は視線を逸らした。
「……っ、おい、信号変わってんぞ」
「……ああ、悪い」
真がゆっくりと車を発進させる。その横でサイドガラスを勢いよく開けた。すーっと涼やかな早朝の風が頬を撫でていくのを感じながら、目を閉じる。
今の、なんだ。
必死で考えても、隣の男は何も言わず、ミラー越しに盗み見た顔色も一切変わっていない。わからない。たしかにいつも通りだけど、今はそのポーカーフェイスが、憎い。
少し薄れていた、あの夜への気まずさ。今になって急に思い出して、狭い車内に二人きりでいるのがやけに気になりだす。
あの時、真は、どんな目をしてたんだろう。
「……次、今まで行った旅行先は」
無理矢理次の質問を繰り出しながら、俺は勝手にラジオのボリュームを少し上げた。
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