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第9話

 一時間、根性で続けた百の質問で、真の情報がかなり手に入った。  好きな恐竜はプテラノドン。こたつとホットカーペットならこたつ派。エビフライは尻尾まで食べる。  至極どうでもいいような質問をチョイスし続けて、そうしてどうにか、あの一瞬漂った空気を誤魔化せた。ような気がしている。 「……っ、はあ~……」  ザーッと音を立てて流れていく川の流れを眺めていると、少しずつ気分が良くなってくる。それほど広くない川幅を、透き通った水がしぶきを上げて流れていく。駐車場の反対側にある河原で、俺はしゃがみ込んでぐったりと項垂れていた。  店に向かっていないことに気づいた時には、車は既に狭い山道をガタガタと上り始めていた。涼しい顔でなかなかのドラテクを駆使して山道を登っていく真の傍ら、変な緊張感と揺れる車のダブルパンチで、俺は段々と気分が悪くなっていった。  顔に出さないようにはしていたが、「好きにしていていい」と言って車を降りて行った真には、薄々察されたかもしれない。こっちは全くアイツの感情を読み切れていないのに、なんだか悔しい。  真が一人で向かっていった建物には、養殖場と書かれた古ぼけた木の看板が掲げられていた。どうやらまだ仕入れは終わっていなかったらしい。こんな海から離れた山奥に魚なんているのか……と涼やかな川のせせらぎを聞きながらぼんやり思う。 「千隼」  背後から声をかけられて、ギクリと身体が強張った。ダウンしている間に、結構時間が経っていたのかもしれない。平静を装って振り返ると、いつの間にか近くに来ていた真が、白い四角い発泡スチロールの箱を抱えて立っていた。 「おー……それ、魚?」 「ああ、サーモンだ」 「え……サーモンって、鮭だろ?こんなとこにいんの?」  僅かに首を横に振ってから、真が隣にやってくる。片膝をついてしゃがむと、カパリと白い箱の蓋を開けた。 「うわ、すご……」  中に入っていたのは、大きめの一匹の魚だった。銀色のまるまるとした身で、背びれにかけて緑がかっている。日の光にあたると、うっすらとピンク色の帯のようなものが身全体にきらきらと光って見えた。 「甲斐サーモン。大型のニジマスだ」 「ニジマス……」 「この辺りで養殖されていて、ぶどうの皮の粉末を使った餌で育てる」 「へー、みかんブリとかは聞いたことあるけど、ぶどう食ってる魚もいるんだな。……え、もしかして、俺が最初に食わせてもらったサーモンって……」 「ああ……これだ」  純粋に驚いた。サーモンがニジマスで代用されることは知っていたけれど、味が落ちるイメージだったし、こんな山奥で獲れた魚なんて、思ってもみなかった。  まじまじと魚を見つめていると、真が静かに隣に腰を下ろした。箱に蓋をして、腕を伸ばして平らな場所にそっと置く。 「……少し休んでから行く」 「え?」  それ以上は何も言わず、真は隣で川の流れを目で追っている。言葉は少ないが、おそらく顔色が悪いだろう俺を気遣っている。それくらいは流石にわかる。小さく「悪い」と呟くと、少しだけ真が首を横に振った。  いつもこうやって人の顔色や態度に気づくのは、自分の役目だ。いざ他人に気を回されると、どうしていいかわからない。慣れない感覚に、穏やかな日の光を反射してきらきらと光る水面を、膝を抱いてただじっと見つめることしかできなかった。  川の流れる音。木の揺れる音。どこかで鳥が鳴く音。自然が立てる物音しか聞こえない、穏やかな沈黙。さっきまであれほど沈黙を恐れていたのに、今は不思議と嫌だとは思わなかった。 「俺にとって、周りの人は皆、泳いでいる魚だ」  ふと、真が呟いた。  何言ってんだ、と反射的に返しそうになって、自然と口が閉じていく。じっと川へと目を向ける真の横顔が、いつになく真剣に見えた。黙っていると、またぽつりと真が口を開いた。 「小さい頃から、人の話しているスピードに、ついていけない。表情も、うまくついていかない」  真の目が、流れの速い川を背びれを光らせ泳いでいく魚たちの後ろ姿を追う。悠々と泳いでいく魚たちの群れ。ふと、発泡スチロールの中のニジマスを思い出した。広い外の世界を知らず、一生を狭い養殖場で過ごす魚。川や海を自由に泳ぐ魚たちを見たら、あいつは何を思うんだろう。 「俺がどうしようか考えているうちに、周りは先に進んでいく。直そうと、何度も思った。でも、上手くいかなかった」  淡々と語る真の言葉に、悲しさや悔しさといった感情はなかった。ただ、事実を口にしているだけ。  悪いやつじゃないのに、無表情で、話下手で、変な奴だと思われる、勿体ない奴。怪我をした俺に不器用な優しさを見せた真を、俺はあの時そう思った。表面に出さないから、いや、出せないから、全く気にしていないのかと、勝手に思いこんでいた。 「……俺がちゃんと話せるのは、爺ちゃんと、馴染みの人が少しと……千隼、だけだ」 「お、俺……っ?」  後悔の念にずっしりと苛まれていたところで、いきなり飛び出した自分の名前に、思わず声が裏返る。水面を見つめていた真の横顔が、すっとこちらに向いた。 「千隼は、人を見て、言葉を聞いて、話す。その人がどんな気持ちか、考えて、話す」 「な……と、突然なんだよ。別に、そんなことなんでもないだろ」  突然のストレートな褒め言葉に、気恥ずかしくて無意識に薄笑いが浮かぶ。首を振って否定しても、真の言葉は止まらなかった。 「千隼を見ていて、気づいた。千隼と話したお客さんは、子供も、大人も、皆、嬉しそうだった。笑って、帰っていった」  正直、戸惑った。自分と話した人がどんな顔をしていたかなんて、思い出せない。  不機嫌ではなかった。それくらいの記憶しかない。どう話したらいいか考えて、表情を作って、うまくその場をやり抜けたらそれでいい。それだけしか、考えていなかったから。 「そうだった、か……?」  後押しするように、いつもより力強く真が頷いた。 「ずっと、見ていた」  はっとした。最近気づいた、真の視線。  あれは、俺と、俺が話して触れ合った人達のことを見ていたのだろうか。目の前にいるのに、全くその人たちを見ていなかった、俺の代わりに。 「そう、なら、……よかった、と、思うけど」  思わず口ごもる俺を見る真の眼差しが、ふわりと緩む。初めて会った時には冷たくて深い海のようだと思った目が、今は来るものを優しく包み込む海原のように見える。  車で見た時と同じ、温かさを感じる。  ドク、と心臓が初めて感じるリズムを刻んだ。 「千隼はいつも、俺の言葉に答えてくれる。ちゃんと待って、聞いて、答えてくれる。それが、俺は嬉しい」  淡々とした、普段通りの真の声。その声が語る言葉が、静かに胸に染み込んでくる。  自分の行動一つ一つを掬い上げて、嬉しいと言う真の言葉が、心の奥深くへと沈んでいく。 「千隼は、『ふつう』の人間でいられればそれでいい、と言っていたな」  まるで何かに突然刺されたみたいに、ギシ、と身体が強張った。なんで、今、そんなこと。  反射的に否定の言葉を並べようと口が動く。けれどそれより先に、視線の先の真の唇が、次の言葉を紡いでいた。 「でももう、千隼は『特別』だ」 「――ッ」  ひくり、と喉が震えた。  そんなわけないだろ。  自分には何もない。周りの顔色を伺って、自分の意見なんてなくて、ただそつなくこなすことしか考えていない。誰かと同じ、『ふつう』であることに、必死で――。 「千隼は、すごい」  溢れるくらいに湧き上がった否定の言葉が、たった一言の真の言葉に押し流されていく。薄く開いたままの唇から、震えたかすかな吐息が勝手にこぼれた。 「千隼にはできることが、沢山ある」  川の流れる音も、木の揺れる音も、どこかで鳥が鳴く音も聞こえない。低くて深い、真の声。真の発するその音だけが、俺の奥深くに響いていく。 「ずっと、言いたかった。やっと言えた」  隣で、真がふう、と小さく息を吐く。俺の顔を覗き込んで、いつもと同じように淡々と言葉を続ける。ほんの少しだけ、和らいだ表情で。 「千隼を見習って、俺も頑張る。……千隼のやりたいことも、きっと見つかる」 「…………だと、いいな」  俯いたまま絞り出すように呟いて、俺は勢いよく立ち上がった。  真を置いて、ザリザリと砂利で大きな足音を立てながら、車へと速足に戻る。石に躓きかけても、よろめいても、ただ足を動かし続けた。  川面に反射した光が、目に入った。まだ少し、気分が悪い。  必死で言い訳をしても、そうじゃないことは、自分が一番、よくわかっている。 「…………ぅ、っ」  温かくて、少しくすぐったくて、胸が締め付けられるような感覚。ぼたぼたと勝手に次から次へと溢れていく涙に、俺は乱暴に目元を擦った。

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