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第10話

 毎日の店の掃除で掃除スキルが上がった。売上の帳簿を付けていたらエクセルスキルが上達した。皿洗いのスピードが二倍になった。最近少しだけ早起きになった。  全て、百々寿司に来て約一カ月で、俺ができるようになったことだ。これだけでも、大きな変化だと言える。 「千隼、悪い、これも頼む」  ザーッと水の流れる流し台に、脇からにゅっと皿を持った手が伸びてくる。途端に、大げさに身体が跳ねた。 「……っ、あ、ああ、おー」  言葉になっていない声を発しながら、皿を受け取る。油断した。しばらく気配を探っていたが、すぐにこちらに背を向けた男は、何も感じていないようだった。  ほっと胸を撫でおろして、スポンジを握りなおす。ヤバいくらい鈍感な男で助かった。同時に、脳内では大反省会の幕が切って落とされた。 『なんだその反応。刃物ならまだしも皿渡されただけでなんで動揺してんだ。ただ受け取るだけだろ』 『「ああ、おー」ってなんだよ。口から先に生まれた男、とか散々言われてきたくせに二音しか発せてないぞ。真と同レベルじゃねーか』  脳内の理性的な俺がまくしたてる。自分のことは自分が一番よくわかっている。全くおっしゃる通りで返す言葉もない。こんなこと、何でもないことだ。そのはずだった。  俺の人生における一番ドでかい変化が、起きてしまったのかもしれない。 「……、ふー……」  すぐそばに立っている真に聞こえないように、小さく、けれど深く俺は息を吐いた。  あの河原での出来事から、一週間が経った。あの後、車の中でまた質問攻めする余裕もなく、かといって沈黙に気をやる余裕もなく、真が気の利いたドライブトークができるわけもなく。その結果、ただただ黙りこくったまま店へと帰ってきた。  正直、そこらへんの記憶はほぼない。とにかく、頭の中がぐちゃぐちゃだった。多分、流石の真でも気づくくらい、俺の顔は明らかに号泣したのがわかるひどい状態だったと思う。それでも、アイツが何も言ってこなかったのは、優しさなんだと思う。  思考がはっきりしたのは、一晩経ってからだった。穏やかな河原の風景と、まっすぐで穏やかな真の瞳、俺にくれた言葉。あの出来事を思い返して、その瞬間、心臓らへんが、ぎゅう、となった。  胸が締め付けられる、甘い感覚。これは、まずい。瞬時に察した。  けれど、そういうのは大体、気づいた時には手遅れだ。 「……」  積み重なった洗い物の泡を、黙々と洗い流していく。この泡のように、すぐにこの感情も流れて消えるかと思ったのに、全然消えない。俺の好きなタイプは、黒髪ロングの色白で胸の大きい甘えたがりの可愛い女の子。黒髪以外、一ミリも掠ってないじゃないか。 「……いらっしゃいませ」  しかも、こんな感情の起伏が感じられない重低音の声。可愛さとは一番縁遠い。 「…………、え、あっ!」  数秒経って、はっと顔を上げた。制服を身につけた高校生くらいの女の子達が三人、入り口で何やらこそこそと話しながらこちらを見ている。多分、お客様だ。 「い、いらっしゃいませ!こちらへどうぞ!」  首を伸ばしてカウンター越しに声を掛け、手についた泡を急いで洗い流す。完全に上の空だった。今はバイト中、と念じながら、席に座ってからも何やら楽しそうにしている三人の元へ向かう。  カウンターから出てきた俺をじっと見て、三人がまた顔を見合わせて笑い出した。何が面白いのかわからないが笑う。田舎だろうが都会だろうが、これは女子高生は一緒なんだな、と思いつつ笑顔を作った。 「インスタでここのお店の投稿を見つけて、イケメンのお兄さんがいたから皆で行ってみよってなって来たんですけどー」  一番活発そうな女の子が真をちらちら見ながら話しかけてくる。女子高生が寿司屋なんて珍しいと思ったが、そういうことか。流石、写真では映える男だ。チリ、と何か不快な感覚が一瞬したことは、気のせいにしておく。 「え、そうなの!あれ、実は俺が撮った渾身の一枚なんだよ~」 「へ~、お兄さんが撮ったんだ~!でも、お兄さんもイケメンじゃないですか!なんで写真載せないんですか?」 「え〜、だって俺の写真載せたら、山の向こうまでお客さんの列ができちゃうからさ〜」  三人分の皿と箸を置いて、さらっと気障ったらしく髪をかき上げるふりをすると、あはは!と楽しそうに三人が笑う。そんな可愛い女の子たちにも、真は通常運転のノーリアクション。期待のこもった熱い視線にも全く気づいていない様子で、淡々と三人分のお茶を用意している。  それを盗み見ながら、呆れではなく少しほっとしている自分に気づいて、瞬時に視線を逸らした。今はバイト中、バイト中だぞ。 「……よし!じゃあ、注文は何にする?」 「あ、それなんですけど、インスタに載ってたサーモンってありますか?」 「あ~、あれね!超おいしいよ〜!俺も大好き!ちょうど入ってる」  ネタケースの中を指差すと、女の子たちが興味深そうにケースに顔を近づける。その中で、一番大人しそうな子が一瞬、不安そうな表情を浮かべた。意識してさりげなく視線を合わせると、あっ、という顔をして、申し訳なさそうな顔をしながら口を開く。 「あ、その……あんまりお金ないんですけど、大丈夫ですか?」 「予算を教えてくれれば、それに合わせて作るから大丈夫だよ!うち、こう見えて意外と良心的だから心配しないで」  冗談めかしていえば、ほっと女の子の表情が和らぐ。すぐに、他の子達と一緒に財布を取り出して、いくら出し合うかの会議が始まった。今時こんな注文スタイルの店なんてないし、不安に思って当然だ。初めて真に聞いた時、そんな融通が利くのかと俺も驚いたことを思い出す。 「あの、三人合わせて三千円くらいで、お願いできますか?」  会議の結果、女の子三人の伺うような視線を向けられた真が、無言で頷く。一人あたり千円。こういう寿司屋の相場にしたら安い。それでも良いというところが真らしい気がして、無意識にふっと笑ってしまった。ああ、もう、なに笑ってんだ俺は。 「……どうぞ」  制御できない自分の表情筋に内心悶えている俺をよそに、女の子たちが予算を話している間に準備していたのか、真がすぐにカウンターの上に三貫の握りを置いた。橙みがかった薄紅色が綺麗な、サーモンの握り。俺が百々寿司に来た最初の日に、食べさせてもらったものだ。  わあ、と声を上げて、三人が早速携帯を取り出した。さりげなく真の姿も写真に収めようとしていることは、その目線からありありとわかる。 「なんか、お寿司に名前とかないんですか?松、とか、竹とか」 「それ松・竹・梅でしょ」  写真を撮りながら、女の子たちが笑いながら真に話しかける。あの無表情っぷりにも怯まないのが流石女子高生だ。  つ、と目線を下げて、真が黙り込んだ。ああ、困ってるな。早く助け舟を出さないと――。 「初恋」  開きかけた口が、そのまま音を発さずに止まった。  ドッ、と心臓が大きな音を立てる。  鼓動と同時に見開いた目が、無意識に声の主のほうへ吸い寄せられていく。 「……ッ」  視線が、息が、音が、全てが絡め取られた。  まっすぐ、ただ俺だけを見ている、黒い瞳に。   「え〜、『初恋握り』とか、可愛い!」  明るく高い声が、重なった視線の間で上がる。その瞬間、一気に感覚が戻ってくる。  どのくらい時が止まっていたのかわからない。磁力に無理矢理逆らうように、必死で視線を引き剥がした。 「そうだよね〜!あ~、ほら、サーモンピンクっていうじゃん?だから可愛い名前がいいかな~って!」 「へ~!……あ、めっちゃおいしい!」 「でしょ~?俺も好きなんだよね~!」  今、自分がどんな顔をしているか、何を言ってるのか全くわからない。  鼓動の音がドクドクとうるさすぎて、女の子たちが言っていることもよくわからない。  けれど、何か話していないと、心臓が破裂する気がした。

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