11 / 16

第11話

 壁にかかった古ぼけた木製の掛時計。シンプルな四角いフレームの中で、カチリ、と長針が六の文字盤に重なる。短針は八と九の真ん中で、見つめる先で少しずつ九に近づいていく。  夜の八時半。いつもと同じなら、風呂に入っている真がそろそろ二階に上がってくる。明日は定休日だけど、夜更かしはしないタイプの真は、そのまま自分の部屋に入って寝るだろう。 「……あー…………」  頭を掻き毟った爪が、ガリッ、と音を立てる。ちゃぶ台の上で開いたパソコンは、電源を入れたきりずっと放置したままだ。女子高生たちがまた来ます、と笑顔で退店した後も、今日に限ってお客さんがほぼ途切れず来店した。何も言わない真を前に、なんて口火を切っていいかわからずに、閉店作業中も、賄いを食べている間も、ついに切り出せなかった。  握りに名前なんてない。それは知っている。だから、あれが咄嗟に真の口から出た言葉だということはわかっている。  前にあの言葉を口にしたのは、あの早朝の車の中だった。運転席からこちらを見る真の目。確かに感じた視線の熱さと、言葉が消えた空気を、覚えている。 「……っ」  ギシ、ギシ、と響く微かな音を耳が捉えた。真が階段を上がってくる。  心臓がまた騒ぎ出す。額に手をあてて、大きく息を吐いた。ほんの少し、吐息が震えている。 「……風呂、空いたぞ」  襖が空いて、風呂上りの真が部屋に入ってきた。  グレーのスウェット上下を着て、仕事中は帽子の中に仕舞っている前髪を下ろすと、真は雰囲気が変わる。年相応、俺と同い年の男になる。 「……ああ」  声が上擦った。  なんて切り出したらいい。良く回ることだけが取り柄の口が、全然動かない。  ちらりと時計を見て、テレビを軽く眺めてから、真がちゃぶ台の横を通り過ぎる。伏せた視界の中で、真の素足が座布団を踏んで、俺の脇を抜けていく。  聞くなら今しかない。  きっと明日になったら、有耶無耶になって流れていく。あの夜、結局真の真意が掴めなかったのと同じように。  どうする。なんて言う。もしかして、俺の気にしすぎか。いや、でも、なんで。  頭の中でぐるぐる言葉が回る。  そもそも、あいつは何でいつも通りなんだ。こっちはこんなに焦って、迷って、悩んでいるのに――。 「おやすみ」 「……、っ!」  気づいたら、手を伸ばしていた。  スウェットの袖を引っ張られた真が、襖に手をかけたままこちらを振り返る。いつも通りの読めない真の表情に、瞬間、カッとなった。 「なんで」 「……千隼?」 「……なんで、初恋なんだよ」  袖を握った手にぎゅっと力がこもる。一度溢れ出したら、次から次に言葉がこみ上げてくる。 「今日だした、サーモンのやつ。握りに名前なんてないだろ。なのになんで、あれ、初恋って言ったんだよ。」  見上げた真の黒い目が、ゆらりと揺れた。薄く唇が開いて、閉じて、ゆっくりと動く。 「……そう、頭に浮かんだからだ」  ぽつ、と落とされた言葉。その響きは、迷子の子供のように覚束ない。今まで聞いた真の声の中で、一番頼りなかった。目の前で明らかに狼狽えながら言葉を探している姿を見ていると、呼び止める前まで膨らんでいた真を責める気持ちが、少しずつしぼんでいく。 「なんで、頭に浮かんだんだよ」 「……あれは、千隼が、ここに来た時に出した握りだ」  何かを辿るように、真がそっと言葉を紡ぐ。脈絡がなく聞こえるけれど、真の頭はきっと今、フル回転で言いたい言葉を探している。自分のペースで言葉の海を泳いでいく真を、辛抱強く見守る。 「千隼が、あれを食べて、今まで食べてきた寿司で一番うまいと、言ってくれた。……嬉しかった」  ふと、真がきゅっと目を細めた。まるで、大切な何かを見つけたように。 「でも、千隼が、俺が嬉しかったことに気づいてくれたことのほうが、ずっと、嬉しかった」  ぐっ、と息が詰まった。ストレートな言葉に、頬がじわりと熱くなる。  路上で行き倒れていて、全身ぼろぼろで、そんな男に寿司を食わせて嬉しそうな真がおかしくて笑った。あの時、そんなことを思ってたなんて、知らなかった。 「それから、千隼のいろんなことを知りたくなった。どんな細かいことも、全部」  何かと聞いてくる真の質問癖は、本人も自覚済みだったらしい。こっちは結構振り回されたんだぞ、と悪態もつきたくなるけれど、理由がそれでは怒るに怒れない。  だってそんなのは、まるで。 「その人のことを全て知りたいと思うことが、恋だと、爺ちゃんが言っていた」  静かに落ちてきた言葉。  言葉の意味を理解するより早く、ほんのりと香る石鹸の匂いと、濡れた黒髪が近くにあった。 「俺は、恋をしたことがない。だから、まだはっきりわからない」  深い海の色の瞳に、俺の顔だけが映っている。自然と呼吸が止まった。 「千隼、これが、恋なのか?」  ひやかしでもなんでもない、まっすぐな問いかけ。  だから、言葉が出てこない。その場しのぎの、簡単で、雑で、すぐに消えていくような言葉では返せない。  だけど、そうだったらいいと、真の初恋だったらいいと、思っている自分がいる。 「……明日、定休日だよな」 「え……、ああ」  確かめるように口にした言葉に、戸惑ったように真が返す。 「部屋、入れろよ。……確かめてやる」  スウェットを握る指に、俺はもう一度、力を込めた。

ともだちにシェアしよう!