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第11話
壁にかかった古ぼけた木製の掛時計。シンプルな四角いフレームの中で、カチリ、と長針が六の文字盤に重なる。短針は八と九の真ん中で、見つめる先で少しずつ九に近づいていく。
夜の八時半。いつもと同じなら、風呂に入っている真がそろそろ二階に上がってくる。明日は定休日だけど、夜更かしはしないタイプの真は、そのまま自分の部屋に入って寝るだろう。
「……あー…………」
頭を掻き毟った爪が、ガリッ、と音を立てる。ちゃぶ台の上で開いたパソコンは、電源を入れたきりずっと放置したままだ。女子高生たちがまた来ます、と笑顔で退店した後も、今日に限ってお客さんがほぼ途切れず来店した。何も言わない真を前に、なんて口火を切っていいかわからずに、閉店作業中も、賄いを食べている間も、ついに切り出せなかった。
握りに名前なんてない。それは知っている。だから、あれが咄嗟に真の口から出た言葉だということはわかっている。
前にあの言葉を口にしたのは、あの早朝の車の中だった。運転席からこちらを見る真の目。確かに感じた視線の熱さと、言葉が消えた空気を、覚えている。
「……っ」
ギシ、ギシ、と響く微かな音を耳が捉えた。真が階段を上がってくる。
心臓がまた騒ぎ出す。額に手をあてて、大きく息を吐いた。ほんの少し、吐息が震えている。
「……風呂、空いたぞ」
襖が空いて、風呂上りの真が部屋に入ってきた。
グレーのスウェット上下を着て、仕事中は帽子の中に仕舞っている前髪を下ろすと、真は雰囲気が変わる。年相応、俺と同い年の男になる。
「……ああ」
声が上擦った。
なんて切り出したらいい。良く回ることだけが取り柄の口が、全然動かない。
ちらりと時計を見て、テレビを軽く眺めてから、真がちゃぶ台の横を通り過ぎる。伏せた視界の中で、真の素足が座布団を踏んで、俺の脇を抜けていく。
聞くなら今しかない。
きっと明日になったら、有耶無耶になって流れていく。あの夜、結局真の真意が掴めなかったのと同じように。
どうする。なんて言う。もしかして、俺の気にしすぎか。いや、でも、なんで。
頭の中でぐるぐる言葉が回る。
そもそも、あいつは何でいつも通りなんだ。こっちはこんなに焦って、迷って、悩んでいるのに――。
「おやすみ」
「……、っ!」
気づいたら、手を伸ばしていた。
スウェットの袖を引っ張られた真が、襖に手をかけたままこちらを振り返る。いつも通りの読めない真の表情に、瞬間、カッとなった。
「なんで」
「……千隼?」
「……なんで、初恋なんだよ」
袖を握った手にぎゅっと力がこもる。一度溢れ出したら、次から次に言葉がこみ上げてくる。
「今日だした、サーモンのやつ。握りに名前なんてないだろ。なのになんで、あれ、初恋って言ったんだよ。」
見上げた真の黒い目が、ゆらりと揺れた。薄く唇が開いて、閉じて、ゆっくりと動く。
「……そう、頭に浮かんだからだ」
ぽつ、と落とされた言葉。その響きは、迷子の子供のように覚束ない。今まで聞いた真の声の中で、一番頼りなかった。目の前で明らかに狼狽えながら言葉を探している姿を見ていると、呼び止める前まで膨らんでいた真を責める気持ちが、少しずつしぼんでいく。
「なんで、頭に浮かんだんだよ」
「……あれは、千隼が、ここに来た時に出した握りだ」
何かを辿るように、真がそっと言葉を紡ぐ。脈絡がなく聞こえるけれど、真の頭はきっと今、フル回転で言いたい言葉を探している。自分のペースで言葉の海を泳いでいく真を、辛抱強く見守る。
「千隼が、あれを食べて、今まで食べてきた寿司で一番うまいと、言ってくれた。……嬉しかった」
ふと、真がきゅっと目を細めた。まるで、大切な何かを見つけたように。
「でも、千隼が、俺が嬉しかったことに気づいてくれたことのほうが、ずっと、嬉しかった」
ぐっ、と息が詰まった。ストレートな言葉に、頬がじわりと熱くなる。
路上で行き倒れていて、全身ぼろぼろで、そんな男に寿司を食わせて嬉しそうな真がおかしくて笑った。あの時、そんなことを思ってたなんて、知らなかった。
「それから、千隼のいろんなことを知りたくなった。どんな細かいことも、全部」
何かと聞いてくる真の質問癖は、本人も自覚済みだったらしい。こっちは結構振り回されたんだぞ、と悪態もつきたくなるけれど、理由がそれでは怒るに怒れない。
だってそんなのは、まるで。
「その人のことを全て知りたいと思うことが、恋だと、爺ちゃんが言っていた」
静かに落ちてきた言葉。
言葉の意味を理解するより早く、ほんのりと香る石鹸の匂いと、濡れた黒髪が近くにあった。
「俺は、恋をしたことがない。だから、まだはっきりわからない」
深い海の色の瞳に、俺の顔だけが映っている。自然と呼吸が止まった。
「千隼、これが、恋なのか?」
ひやかしでもなんでもない、まっすぐな問いかけ。
だから、言葉が出てこない。その場しのぎの、簡単で、雑で、すぐに消えていくような言葉では返せない。
だけど、そうだったらいいと、真の初恋だったらいいと、思っている自分がいる。
「……明日、定休日だよな」
「え……、ああ」
確かめるように口にした言葉に、戸惑ったように真が返す。
「部屋、入れろよ。……確かめてやる」
スウェットを握る指に、俺はもう一度、力を込めた。
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