13 / 16
第13話
寒い。目を閉じたまま思った。
身体の左半分がやけに寒くて、少し遅れて布団がその部分だけないからだと気づいた。
「……なんだよ……」
ぼやきながら目を開けた瞬間、静かに横で寝息を立てている男を見つけて、口がゆっくり閉じていく。すー、というかすかな呼吸音。切れ長の目を閉じて、きっちりと布団を掛けて行儀良く眠る真の寝顔は、どこかあどけない。
寒さも忘れて、しばらくその顔を見つめてしまう。やっぱり真って綺麗な顔してるな、なんて、まだ寝ぼけているのかぼんやり思った。
ちらりと枕元に置かれた目覚まし時計を見ると、朝の八時。普段の真なら、もうとっくに起きている時間だ。それでも起きていないところを見ると、慣れないことをして相当疲れたらしい。
「…ぅ……」
軽く身体をもぞつかせた瞬間、僅かな腰の違和感と、どろっとナカから液体の漏れる感覚がして、思わず小さな声が漏れた。昨晩は二人とも倒れるようにそのまま寝たから、当然ナカにも残っている。
もう少し布団で微睡んでいたい気持ちを叱咤して、投げ捨てられていたスウェットを手に取る。健やかに眠る真の寝顔を眺めつつ、そうっと布団から抜け出した。腰を庇いながら慎重に階段を降りて風呂場に入る。シン、と冷え切った朝の空気に、すっと鳥肌が立った。
「……さむ……」
田舎の朝はやっぱり寒い。そそくさと浴室に入ってシャワーを捻り、水からお湯に変わるのを震えながら待つ。白いタイル貼りの浴室に、シャーッと静かな水音が木霊する中、何気なく壁についている鏡に目がいった。
「う、わぁ……」
思わず声が出た。
鏡に映った見慣れた自分の身体。けれど今日はそこに、無数の紅い点が散らばっている。首、胸、肩、いたるところに残された跡。おもわずいろんな角度からまじまじと観察してしまった。
昨夜は結局、一回だけではお互い全然足りなくて、何回もした。ただ夢中でお互いを貪るような行為。満たして、満たされて、気持ちいい。途中から記憶も曖昧で、どろどろに溶けるような気持ちよさしか覚えていない。あんなセックスは初めてだった。
「……っ」
鏡に映った頬が、じんわりと薄紅色に染まっていく。まだ少し冷たいシャワーを、勢いよく頭から浴びた。
風呂場を出た後も、真はまだ起きていなさそうだった。カタリとも物音のしない二階を階段の下から見上げながら、さっきから鳴りっぱなしの腹をジャージの上からさする。
いつもの三倍くらい腹が減っている。あんな激しい運動したの久しぶりだしな、とまで考えて、また勝手に頬が熱くなった。
「……メシ、買ってくるか」
以前店に来たお客さんがやっている直売所。どうやら朝市みたいなものもやっているらしい。いつか行ってみようと思ってはいたけれど、大抵真が起きていて朝メシを用意してくれているので、行く機会がなかった。たまには俺が用意してやるのもいい。
店の金庫から千円札を一枚だけ取り出して、置きっぱなしの真の外出用の上着を拝借する。ふわっと真の匂いがして、少しだけ寒さが和らいだ気がした。
両脇に山が迫る、白いガードレールで挟まれた、だだっ広いだけの道路。その合間には、澄み切った淡いブルーの空が広がっている。
百々寿司の前でぶっ倒れていた時に見た色と、同じ色。こういう青を、スカイブルーって呼ぶんだろう。そんなとりとめのないことを考えながら、ほんのりと温かい紙袋を抱いて静まりかえった道を歩く。誰にも聞かれないので、調子はずれな鼻歌を堂々と歌えるのは結構気分が良かった。
俺を覚えていた直売所の店主さんが、買った野菜の他に出来立てのおにぎりも分けてくれた。また百々寿司にも来ると言ってくれたし、ご近所づきあいも商売には大事だぞ、と真にも教えてやろうと思う。
「あ」
教える、というワードで、はたと思い出した。
『これが、恋なのか?』
昨日の夜の、真の質問。
教えてやる、と言ったものの、あの後はろくに話さず行為に溺れて、結局言えずじまいだった。これだけやることやったんだから気づけとも言いたい。けど、自分が教えてやりたい気もする。
教えた時の真を想像して、笑ってしまった。やっぱりあの無表情で「そうか」とか真面目に頷くんだろうか。
背後から、かすかなエンジン音が聞こえてきた。振り返ると、遠くのほうに一台の車が見える。聞こえるわけでもないけれど、なんとなく鼻歌を止めた。
白の軽自動車だ。何回か乗ったこともある、よくある車種。普段からほとんど車通りのないこの辺りを、平日の朝早くに車が通るのは珍しい。キャンプかなにかにでも行くんだろうか。
何気なく立ち止まって見ていると、どんどん車が近づいてきて、すぐに俺を追い抜いていった。その瞬間、運転席と助手席に座る人間が、はっきりと見えた。
男が二人。
知っている顔。
バシャ、と頭から冷たい水を浴びせられたような気がした。
呆然と見つめた先で、車が止まる。次々にドアが開いて、中から人が飛び出してきた。男二人、女二人。それぞれ驚いたような表情で、俺に向かって走ってきながら、口々に叫んだ。
「おい、やっぱ千隼じゃん!」
「ふつーに生きてんじゃん!」
言葉が身体にぶつかって、その反動で僅かによろめいた。
頭が回らない。なんで、という自分の声だけが、身体中を巡っている。
凍り付いたように動けないままの俺に、一人が近づいてきた。男だ。俺の顔を覗き込んで、ポン、と肩に手を置く。不審そうな眼差しで、口を開いた。
「……おい、千隼?」
『おまえも『ふつう』じゃねーの?』
ひゅっ、と喉が鳴った。
頭の中で声がする。視界が赤く染まる。
赤い教室。下手くそな習字。壊れたランドセル。
冷たい四対の目。
今、目の前にいる四人の目と、ゆっくりと重なっていく。
「……あ、あは、あはは」
笑え。笑え。笑え。
誰かが叫んでいる。誰だろう?ああ、違う。
俺だ。
『ふつう』の俺だ。
「……悪い!ちょっと田舎ライフ満喫しちゃってたんだわ~!」
「なにそれ!?……も~、超心配してたんだよ!」
真っ赤なネイルが施された女の子の手が、俺の肩をバシッと叩いた。その横で、もう一人の女の子が甘ったれた声でぐすぐすと泣き出す。
「ちはやくんっ、ぶじでよかったぁ……」
「千隼のことボコった奴、ゆめとはもう終わってるのに一方的に付きまとってて、千隼のことも勝手にキレてボコったんだって」
「止めようとしたけど、怖くてできなくて……ごめんなさいっ……!」
「いいよいいよ!ゆめちゃんも怖かったんなら仕方ないって!」
ゆめと呼ばれた女が泣きながら頭を下げている。ヤクザにボコられる原因になった女。正直、もう覚えていない。
「おい千隼、トランク詰められて捨てられたってマジ?」
さっき肩に手を置いた男が話しかけてくる。サークル仲間の須藤 。隣にいるもう一人は、同じくサークル仲間で車の持ち主の新見 だ。赤いネイルの女の子は、須藤の彼女の美嘉 。
一人一人の名前を思い出すたびに、急速に時間が巻き戻っていくような感覚に襲われる。今立っている場所がぐらぐらと揺れる。じっとりと脂汗がにじんでいく。
「あ~、あれは流石に焦ったわ!詰められた時も焦ったけど、ここまで連れてこられてトランク開けられた瞬間は、マジで殺されるかと思った」
笑みを貼り付けて、ぺらぺらとしゃべり続ける。ただこの場を乗り切りたい、その一心で口が動く。
「マジすげーわ!なー、お前今までどうしてたんだよ?」
「え、あ~、知り合った子の家に泊めてもらったりとかして、まあ、いろいろ?」
「は~、さすがだな~千隼クン!……あ、もしかして、女?」
茶化すような須藤の言葉で、必死で形作った笑いの仮面に、ピキ、とひびが入る音がした。
「え、千隼、彼女できたの!?うそ!会いた~い!」
「マジで?あ、それ、彼女との朝メシ?おーおー、やってんな~!」
どんどん盛り上がっていく空気の中で、俺の頭の中は真っ白だった。
手足が痺れて動けない。首が見えない何かに絞められていく。ただ、自分の浅い呼吸音だけが頭の中で木霊する。
こいつらに真を紹介したら、どんな言葉をかけるんだろう。
『イケメンじゃん!』
『寿司屋とかウケる』
『てか表情死んでない?』
もし、こいつらが真を笑った時、俺、怒れる?
真が好きな人だって、こいつらに、俺、言える?
俺は、その時、『ふつう』でいられる?
「…………それが、さあ、さっきちょうど、追い出されてきたんだわ。金ねーし働かねーなら出てけって言われてさ」
「は~?嘘つくなよ!俺たちと会わせたくないだけだろ?」
「いや、ほんとなんだって!今日から野宿か~、と思ってとりあえずメシ買ってぶらぶらしてたら、お前らが通りがかったんだって」
「え~ほんと?だとしたら、アタシたちタイミング良すぎじゃん!」
「そうそう、もうすっげー運命感じるわ~」
「おいおい、振られたばっかで人の彼女口説くんじゃねーよ」
ギャハハ、と笑いが広がる。
一緒に笑いながら、吐きそうだった。情けなくて、自分が嫌いすぎて、死んでしまいたい。
「まー、俺たちもお前探しに来てたから、ちょうどよかったわ。車、乗れよ」
は、と僅かに吐き出した息が、震えた。
乗らないわけにいかない。野宿だなんだと言っておいて、乗らないなんて怪しまれる。そのくらいのことは、当然わかっている。
でも、ここで、乗ったら。
「…………っ」
嫌だ。
今すぐ、そう、叫びたかった。
大声で怒鳴って、走って逃げて、真の部屋に飛び込んで、あの布団に潜り込みたかった。
「おい、千隼?」
どうした、と聞いてくる真に、何でもないと笑って言ってやりたい、のに。
「…っ」
どうしようもなく、『ふつう』でなくなるのが、怖かった。
「…………おー、頼むわ!」
ともだちにシェアしよう!