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第21話
その日も腕の中で目覚めて、その暖かさにミハエルは『ランゲ』を思い出した。
何故、あのまま…。
毎日毎日、その思いが強くなる。
だが、その度にあのほろ苦いチョコレートのような声がミハエルを現実に引き戻す。
悪魔はあの時確かに、『アウナミ』と言った。
ずっと、頭の片隅から離れない言葉。
どこかで聞いた事のある気がする言葉。
『どうか、俺の名を呼んでくれ…。』
悪魔が名を呼んで欲しいのは、私ではないのでは…。
『アウナミ』
きっと、それがあの悪魔が愛した人。
私は『アウナミ』の代わりなのだ…。
その思いが最近頭から離れなかった。
私は罰を受けるだろう。
この苦しみの大半は、紛れもない、嫉妬。
『やっと見つけた』『二度と離さない』『思い出せ』
悪魔が時折言った言葉を反芻する。
『アウナミ』
私は、なんて罪深い…。
それからしばらくすれば、夜も人の姿のまま交わる事が増えた。
涙を流さなくなって、夜を待つようになったからかもしれない。
人の姿のまま交われば、愛してると言ってもらえない寂しさが増し、その寂しさを埋めるように愛しさも増す。
愛しさが増せば、嫉妬心と罪悪感が増す。
神よ…、
私は、……。
全身に所有印が付けられた体を愛撫され、優しく優しく後口を掻き回されて、口付けられながらその手の中で達する。
力の抜けた体を離しがたいとでもいうようにキツく抱き締められ、顔中へ口付けられながらミハエルは思う。
このまま、あの闇の中で眠らせてくれたなら…。
そして、次の日も、次の日も、昼間は散々焦らされ、夜は息もつけない程絶頂し、朝には甘く暖かく起こされた。
ミハエルは、バラバラだ。
逞しい腰をギュッと足で抱え込み、絶頂を繰り返す体。
抱かれる度に、切なく心が痛む。
許されない罪悪が積もる。
だが、神にこれ以上背くわけには、いかない…。
苦しくて苦しくて、身も心も引き裂かれそうだと感じた。
春のある夜。
地下の懲罰室で、ミハエルが鞭を自らに課していた時だ。
ドクン、ドクンと大きく胸が痛んだ。
ミハエルを必死で探す、悪魔の声が聞こえた気がした。
ミハエルの姿が見えないと、大きな不安と悲哀が魔素を通じて伝わってくるのを、ミハエルは知っているつもりだ。
…だが、何故、これ程。
その理由までは分からずじまいだった。
神よ…。
バチッ!
聖水に浸した鞭を自分の背中に叩きつける。
…どうか、貴方に背いた私をお許し下さい。
バチ、バチ!
どうか、悪魔を愛してしまった私を…。
バチ、、バチン!!!
一際大きな音がした。
「やめろ…、、やめてくれ…。」
背後からキツく抱き締められていた。
冷たくなった体に、暖かい体温が染みてゆく。
「……、私は神に背きました。罰を受けねばならない。邪魔をしないで下さい。」
「その罪は何に対する罪だ…。やめろ。」
「規律は規律です。」
「規律など、できるものならやってみろという程度の事だ。
お前の周りをみろ。酒を隠すなど可愛いもの、教会の寄付金を盗む者、清庵と言って贅沢な別荘を持つ者もいる。
知っているか、大司祭の1人は殺人を何度も犯した殺人鬼だ。
太った司祭がいるだろう。あいつは子供達を薬漬けにして自分の周りに侍らせている。」
「わ、私は…、その人達と一緒にはなりたくない。
悪魔を愛するなどあってはならない。だから自らを罰するのです。」
悪魔がピクリと震えた。
「……、愛する…?」
救いを求めるように、眩しいものを見るように、ランゲがミハエルを見た。
ミハエルはハッとした。
自ら暴露してしまった事に気が付いたのだ。
顔が火照るのが恥ずかしくて腕の中からなんとか立ち上がり、顔を背ける。
「ミハエル…、ミハエル…、愛してる。どんな俺でも、お前を愛してるんだ。」
ああ…、、
泣きたくなる程の、喜び。
それに応えてしまいたくなる自分を自覚し、ミハエルは唇を噛んだ。
…私は『アウナミ』ではない。
私ではないものを私に求める貴方を、私は同時に憎んでいる。
貴方が愛しているのは…、
言えない。
『アウナミ』に嫉妬しているなんて、言える訳がない。
縋り付くように腕を掴む手を引き剥がそうとして、ミハエルは悪魔の悲しみを感じた。
「何故、ダメなんだ。ミハエル…。」
愛を乞う悪魔に、ミハエルは言った。
愛したいのに…、
「……憎いのです。」
涙が溢れる。
もし、貴方がずっと、私の愛したランゲでいてくれたなら…。
私だけを愛してくれたなら…。
「ミハエル…、すまない、俺はお前に酷い事をしている自覚はある。だが、もうしない。頼む、ミハエル…、俺の名前を呼んでくれ。」
ピクリと口端が痙攣する。
「ならば、何故、憎まれるような事を…。」
「お前を、取り戻したかった。体だけでもいい。お前と繋がっていたかった。」
「まるで、私が元々貴方のもののようです。」
「お前は俺の半身だった。お前無しでは生きられない。名を呼んでくれ…。」
貴方が名前を呼んで欲しいのは…、
「ッ、わ、私は…アウナミではない。」
「お前…、何故その名を、アウナミ…、アウナミ!!」
悪魔の魔素からブワリと喜びが感じられた。
ミハエルの中でブワリと怒りが溢れた。
その名を嬉しそうに呼び頬に手を伸ばす悪魔を、振り払う。
何故、嬉しそうにその名を…。
私の名前ではなく、その名を…。
やはり、私は…。
涙が溢れて、顔を背ける。
「私は、アウナミではない!!」
「……お、お前は名前が変わっただけで、魂は俺の半身であるアウナミだ。」
「私はミハエルです。アウナミなど知りません!」
「俺は、お前を苦しめる全てを取り込む事ができる。それが証拠だ。」
「証拠など…、既に私は神に仕える道を選んだ。貴方を、、愛する事は、ありません。」
…そうだ、もう終わりにしよう。
そう、決めたじゃないか。
それで、いい。
「何故だ、愛が悪だと言うなら、この世は悪ばかり。子も産まれぬ地獄だぞ。」
「愛を履き違えるな!お前の愛は自己愛だ。神への愛を悪魔に分かって貰おうとは思わない。」
ランゲの目に怒りが宿る。
「フン、この俺に愛を語るか。愛とは根源だ。魂を分けた存在だ。それなのに、愛する者を守る為に戦い、ここまで堕ちた者にすら神は手を差し伸べる事は無い。」
「そうです。神は見ていて下さるだけです。自分がいけないと思う事をすれば自ら罰し、苦難の中にあっても良心に恥ぬように生きる事を見ておられる。」
「苦難だと…、お前がそれを言うのか!!お前がどれだけの屈辱と苦痛の末に殺されたと思う!!神はそれを助けなかった。」
悪魔の怒気に、身がすくむ。
「俺が戦う度に、この腕をもがれ、羽を傷付けられ、目を潰されて帰れば神の為とは言えむごいと、どれほど涙を流したか。
死んでしまえは楽になれると思っても、それでもお前が帰って来いと言うから、俺はその苦痛に耐え何度も何度も帰還した。その痛みが、苦痛が、どれほどか…分かるか。それを、お前は、苦難と一言で…。」
悪魔が震えていた。
神の為?
殺された?
「……な、何を、…あ、貴方は、一体何者なのです。あ、悪魔ではないのですか?」
悪魔は大きく震える息を吐いた。
「俺の名は嵐華…。神を守る武神の1人であった。お前を助ける為に悪魔に魂を売った。
それが間違いなのだとお前は言うだろう。この愛がどれほどか、記憶の無いお前に分かって貰おうとは思わん。
後悔があるとすれば、すぐに悪魔に魂を売らなかった事だ。」
「…す、少し、頭を整理させて下さい。貴方は、私は一体…。」
「お前の真名は『晤永海』、海を穏やかに流す役目をおっていた。ここの海が穏やかなのは、お前がいるからだ。」
「わ、私はアウナミではない!ミハエルです。」
「ああ、そうだ。お前は、ミハエルだ。アウナミは…もういない。だがお前の真名は『晤永海』だ。俺は真名を使って、お前を思うように動かした。」
「だから、私は貴方の言葉に…。では何故、私が貴方が愛するアウナミであると言うなら、あのような無体を。」
「お前は俺の見た目に臆し、お前の愛を乞い助けを申し出た俺を拒み、それどころか俺を退け、神に助けを求めようとした。だから、お前を繋ぎ止める何かが必要だった。
怒り、嫉妬、悔しくて、悲しくて、愛しくて、どうしようもなかった。
怒りは武神の根源のひとつ。お前と共にあればなだめられるが、お前を失えば俺は嵐となってしまう。…すまない。だが、…あの時の俺には…。」
「そんな…、身勝手な理由で、あんな…。」
「分かっている。もう記憶のないお前に無理強いするつもりはない。愛を与えられずとも良い、愛することを許されるだけで、お前を守る事を許されるだけで良い。愛してる…、アウナミ…。」
ミハエルは、唇を震わせた。
「…貴方が愛しているのは、アウナミであって、私ではない。私は神に仕えるもの。貴方のものにはなりません。」
胸の痛みは、自分のものかランゲのものかは分からない。
悪魔も唇を震わせて、長い間黙っていたが、やがて口を開いた。
「……分かった。魂は消滅しない。例え今生でお前が俺を愛さなくても、俺は何度でもお前を探す。すまなかった。俺はどんな俺でも、どんなお前でも、お前を愛してる。…それだけは、覚えておいてくれ。」
悪魔が震えながら立ち上がった。
指先にまでガンガンと響く痛みを感じる。
頬に伸ばされた手が握りしめられるのが、目の端に見えた。
「……ミハエル…愛してる。」
その言葉を最後に、その姿が、フッとかき消えた。
鞭がパシャリと音を立てて、床に落ちた。
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