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第四話 新たな生活
翌日、立珂は天藍に貰った服が気に入ったようでにこにこと嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。
いつもは笑っていても疲労でどこか元気が無かったが、今日は花が飛んでいるようだった。薄珂の目には花畑がやってきて立珂を祝福しているように見えていた。身体を捻っても見えない背中をなんとか見ようと必死にくるくると腕を動かす様子は愛らしくて微笑ましい。
「そんな動いたら汗かくぞ」
「だって背中見たいんだもの」
「ははっ。じゃあ後で水浴びしような。汗疹の薬も塗らないと」
「じゃあ薄珂も一緒に水浴びしよう! 遊ぼう!」
立珂はねだるように薄珂の手を引いた。
一緒に遊ぼうというのは普通のことだが、薄珂にとっては驚く事態だった。
立珂は世話を掛けて申し訳ない遠慮する気持ちがあるようで、あまり我がままを言ってくれないのだ。特に水浴びは大変で、この羽を乾かすのは一仕事だ。
だから立珂は風呂はたまにしか入らず身体を拭くだけで済ますことが多い。けれど湯に浸かるのは好きなようで、ここに来て金剛と孔雀が手伝ってくれるようになってからは前よりも頻繁に風呂に入る。
しかし日中の水浴びとなると家事の一切ができなくなるし、金剛と孔雀も暇なわけでは無い。
だから水浴びを一緒にするというのはそれなりの手間をかけることだと分かっている立珂がそれをねだることなど一度もなかった。
けれどようやくそれを言ってくれて胸が締め付けられ、嬉しさで力いっぱい抱きしめる。
「ああ! いっぱい遊ぼう! 慶都も喜ぶぞ!」
「慶都は水浴び大好きだものね」
やったあ、と立珂が喜ぶ笑顔に涙すら出て来そうで、天藍にお礼言わなきゃな、と薄珂は心の中で呟いた。
嬉しくて立珂に頬ずりしていると、外から慶都の声が聴こえてきた。そして慶都はノックせず小屋に飛び込んできて、一直線に立珂へ飛びつき抱きしめた。
「やったぞ! やったやった!」
「どうしたんだよ。何かあったのか?」
「長老様が里で暮らして良いって! 今日から薄珂と立珂も里の仲間だぞ!」
「「え?」」
突然降ってきた情報に頭が付いていかず呆然としていると、はあはあと肩で呼吸をしながら慶都の母親もやって来た。
ちっとも落ち着かない慶都の首根っこを引っ張って立珂から引きはがすと、ごめんなさいね、と微笑んだ。そして薄珂と立珂をぎゅっと抱きしめてくれる。
「長老様のお許しが出たわ。二人ともうちにいらっしゃい!」
慶都の母は息子と同じことを言って微笑んだ。
それは有難いことだったが、あまりにも突然のことで現実味が無い。薄珂と立珂は顔を見合わせて首を傾げた。
「えっと、何で急に?」
「二人が兎獣人を助けてくれたからよ。なら仲間も同然だって」
「天藍のこと? 俺助けてないよ」
「僕お芋食べてた」
天藍を助けたのは慶都だ。関係者も少ないご近所のどこでそんな大きく話がねじ曲がったのかと不思議に思っていると、ごほん、と慶都がわざとらしい咳払いをした。
「大変だあ! 兎獣人が崖に落ちた!」
「うわっ。どうしたの慶都」
いかにもわざとらしい演技で慶都は驚いた顔をした。
いきなり何を始めたのかとその場の全員がぎょっとして慶都を見つめたが、慶都は自慢げな顔でぴょんぴょんと跳ねている。
「飛ばなきゃ崖には行けないから鷹になろう! あれれ!? 人間の船が見えるぞ! 見つかったら殺される! 俺じゃ助けられない! あ! あそこに薄珂がいる! 薄珂ー! 助けて-!」
「俺?」
慶都は一人芝居を続けた。薄珂も立珂もどうしていいか分からなかったが、いつもなら止めに入る母親も何故かクスクスと笑って見守っている。
「ええ!? 崖を降りるの!? 駄目だよ薄珂! 落ちたら死んじゃうよ! ああ! 降りちゃったー!」
「降りたの?」
「降りてない」
「うわあ! 凄いぞ! 薄珂が戻って来た! 薄珂が兎獣人を助けてくれたぞー!」
「助けたみたいだよ」
「助けてない」
「大変だあ! 兎獣人は怪我をしている! 先生が来るのを待っていたら手遅れだ! ええ!? 立珂手当できるの!?」
「あ、立珂が手当するみたいだぞ」
「できないけど」
「むむ! 先生がきたぞ! やあやあ立珂くん見事な応急処置だ! 立珂くんのおかげで一命を取り留めましたね!」
最後は孔雀の真似をして慶都は万歳をした。見事な独り芝居が終わり薄珂と立珂はぱちぱちと拍手をした。
だがこの独り芝居がなんなのか分からずにいると、ははは、と軽い笑いを零しながら天藍が入ってきた。
「ようするに、命懸けで獣人を助けたんだから里も二人を守るべきだって筋書きだな。これが証拠品だ」
天藍が薄珂に手渡したのは血の付いた服だった。
怪我をした天藍にかしたのだが、何故か慶都が持ち去ってしまったあの羽織だ。
「慶都、お前まさかそのためにこれ持ってったのか?」
「へへーん! これなら里のみんなも納得すんだろ!」
「長老様こんな都合の良い話信じたの?」
「俺が証言したからな」
「でも……」
「長老様も口実が欲しかったのよ。同情で規則を破ることはできないから」
慶都の母は慶都の頭を撫でると、同じ息子であるかのように薄珂と立珂のことも撫でた。
「さあ引っ越しよ! 荷物は後で金剛団長が運んでくれるわ」
「でも、あの、僕は迷惑かけるだけだよ。本当に何もできないんだ。多分みんなが思うよりずっと」
「あら。立珂ちゃんには一番大変なことをやってもらうわよ」
にっこりと微笑むと、慶都の母は息子を抱き上げ立珂の膝に座らせた。
「暇だとすぐ獣化するの。だから退屈しないよう遊んでやって」
「そうだぞ! 捕まえとかないと飛んでくからな!」
「……本当にいいの?」
「もちろんよ。嬉しいわ、息子が増えて」
立珂は俺と遊ぶんだ、と慶都はきゃっきゃとはしゃいで立珂を抱きしめた。風呂も着替えも俺がやってやる、一緒に寝よう、とやりたいことを次々に語った。そのはしゃぎぶりはどれほど立珂との生活を心待ちにしていたかがよく分かる。
慶都の母は薄珂と立珂の頬を撫でた。すると立珂はぼたぼたと涙を流し始め、泣きじゃくる立珂を慶都の母が抱きしめてくれる。
親を亡くし人間にも獣人にも受け入れられられなかった立珂にとって、慶都の母は初めて優しくしてくれた大人の女性だ。慶都の母は立珂と息子を同時に抱きしめ、泣かないの、と優しく頭を撫でてくれた。
その後ろでは天藍も安心したように微笑んでいる。
「鷹が有翼人を愛するとは新時代の幕開けだな」
「は!? 愛する!?」
「そうだろ?」
「っだ、だめだめだめ! 絶対だめ!」
「何でだよ。まさか一生二人だけで生きていけると思ってないだろうな」
「でも立珂は俺が守ってやるんだし!」
「……ああ、なんだ。寂しいのか」
「ち、違うよ! ちが、違わ、ないけど……」
この場面なら立珂と抱き合うのは薄珂のはずだ。今までならそうだっただろう。
けれど立珂は信頼する相手を見付け、新たな世界へ一歩踏み出したのだ。それが喜ばしいことだと分かってはいても、薄珂はたった一人の弟が取られたようで複雑だった。
ぷんと口を尖らせていると、くくっと天藍は面白そうに笑った。
「寂しいならお前も相手を見つければいいだろ」
「そんなのいない。俺は立珂が一番大事だ」
「今現在は、だろ」
天藍は少しだけ腰を曲げて、薄珂の顔を覗くように見るとぐっと顔を近づた。
そして尖っていた薄珂の唇に自分の唇をちょんとくっつけた。
「……あ?」
「愛情はもっとも利用価値のある鎖だ。これも覚えとけ」
「は!?」
「あー! 薄珂に何すんだー!」
叫んだのは顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせている薄珂ではなく立珂だった。
だが動けない立珂は薄珂に駆け寄ることができず、ばんばんと机を叩いた。
「俺しばらく孔雀先生のところにいるから遊びに来いよ」
天藍はひらひらと手を振ると、ほくそ笑みながら出て行った。
立珂はぎゃあぎゃあと騒いでいたけれど、最愛の弟が心配する声は薄珂の耳に届いていなかった。
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