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アラサー教師と元教え子

 複雑に絡み合った、こうばしくも爽やかな匂い。無国籍風の店内。黒ずんだ寸胴鍋の中では、たくさんのスパイスがぐつぐつと煮込まれている。 「……つまりポークビンダルーとは、お酢が入ったカレーなんですか?」 「そう! まさにそこが特徴なんです。これからもっと流行りますよ。味付けにはワインビネガーを使うらしいです」  洒落たランチプレートに目を落としていると、隣にいる佐久良龍平が答えた。  楽しそうに、にっこり笑っている。  僕より十センチ近く上背があるのに、両頬に浮き出たえくぼのおかげか、その表情は実年齢よりももう少しだけ幼なく見える。 「ワインビネガーねぇ。オシャレすぎて僕には縁がないですよ」  カレーと半々に盛られたサフランライスの上にカラフルな野菜の付け合わせが添えられていて、見映えがいい。  ここは土日になると長蛇の列ができるスパイスカレーの有名店で、店内の客のほとんどがスマホを手に料理の写真を撮っている。  ポークビンダルーはインドのゴア地方に伝わるカレーであり、ポルトガル領時代に生まれた料理だ。分類上はカレーでありながら、「酸っぱ辛い」味つけが変わっていて面白い。  大学の友人に店を教えてもらったという佐久良は、なかなかの大食いで、会うたびに美味しいご飯を出す店を教えてくれる。  もともと食べ歩きが好きなのだろう。  茶飲み友達として不足なし、である。 「先生ってエスニック料理イケたでしょ? トムヤムクンが平気な人なら、ポークビンダルーも大丈夫かなって」 「……酸っぱいものは、疲れに効きそうですからね」  僕と佐久良が通されたのはコの字型をしたカウンターの隅っこだった。僕の席は窓に面した明るい場所で、青々と茂る観葉植物がほどよく日差しを遮ってくれている。  スプーンでカレーとライスを少しずつ掬い、口へ運んだ。  肉や野菜の旨味がスパイスの刺激と一体化して、食べれば食べるほど、じゅわっと唾が湧いてくる。柔らかく煮込まれた豚肉は、歯を立てずともほろほろ蕩けた。  辛党に限らず、酸っぱ辛い味がたまらん、と感じる人はけっこういるんじゃないだろうか。このカレー、もっといろんなお店で味わえたらいいのに。 「俺もワインビネガーは使わないっすね。ハンバーグのソースとかには使えそうだけど」  大きな口を開けてぱくぱくと食べながら、佐久良が器用にしゃべる。もう半分以上、皿が空いている。食べ方もきれいだ。  佐久良は実家暮らしだが、日常的に台所に立つらしい。以前、忙しい両親に代わって夕飯を用意するのが自分の仕事なんです、と教えてくれた。  つい昨日卒業生を送ったばかりの気持ちでいたのに、季節はもう初夏だ。早いねえ、と呟きそうになった口を咄嗟につぐんだ。  季節の話題を出すたび、僕だけが歳をとっていくような気持ちになる。  大学という新世界へ船出したばかりの、佐久良と違って。  隣にいる佐久良の姿をこっそり盗み見た。  艶々とした黒髪はツーブロックにしていて、きれいな丸みを帯びた後頭部は短く刈り込まれている。  きれいな首筋に長い手足。すらりとした細身なのに、こうして並んでみると、肩から腕にかけては意外にたくましい。  固く引き締まった腕は筋肉の筋が入り、多少のことには揺らがなさそうで、その安定感が羨ましくも好ましくもある。  ふいに佐久良が僕のほうに向き直った。  意志の強さを窺わせる太めの直線眉が、かすかに寄せられる。端正な顔が少しだけ曇っていた。もしかして、こっそり観察していたのがバレたのか? 「ち、違っ……見たりなんか――」  焦って否定しようとする僕に弁解する暇も与えず、佐久良は僕のグラスに優雅に手を伸ばした。 「えっ……?」 「水、注ぎますよ」 「……ど、どうも」 「レモン水、爽やかでいいですよね」 「ほんと……爽やか、ですね」  杞憂だったらしい。ほっと胸を撫で下ろしたが、また別のことが気になりだした。  休日に男二人でランチなんて、店内で浮いて見えないだろうか?  今さらそんなこと、自意識過剰だとわかっていながら、そわそわと落ち着かない気持ちになる。  佐久良龍平は十九歳になったばかり。  九歳も年下のこの若者をどう扱えばいいか、僕はまだ考えあぐねている。  佐久良の席とは反対側の、窓ガラスに映った自分の姿を眺めた。  左目の下に涙ぼくろがある以外は、どこにでもいそうな三十路手前の男。これでも小さい頃は、くりくりしたお目々が可愛いと、近所でも評判の愛くるしいお子さまだった。  たれ目と下がり眉のせいで、おとなしく見られがちなのは、今も変わらない。  キリッとした佐久良のような若者と並ぶには、あまりに対照的な人間だと思う。  僕の少し乱れた頭髪にはまだ寝癖が残っており、ささっと手櫛をかけてごまかした。  襟足の毛も気だるげに伸びていて邪魔くさい。目聡い教頭からお小言をもらう前に、切りに行かなくちゃ……。  佐久良と出かける日のために買ったトップスは、爽やかなサックスカラーの綿麻素材だが、襟ぐりが深く開きすぎる。だらしなく見えるのではないかと不安になって、少し肩を引き上げるようにして服の首まわりをいじっていたら――。  その様子を、カウンターに肘をついた佐久良が見つめていた。なんというか、食い入るような目つきで。 「な、なんですか?」  びっくりして佐久良のほうに向き直るが、彼は眉一つ動かさない。 「先生はいつも、きれいだなって思って」 「ちょ……っ!」  人目を考えなさい、と、たしなめようとして、自分の唾で咽せてしまった。  水、水、と言われて、レモン水をがぶがぶ飲む。  下から睨みつけるように佐久良を窺うと、彼は平然と肘をついたまま、涼しげにしていた。なんだか小憎らしい。 「このあとどうします? カフェでも探しますか」 「……満腹すぎて、少々しんどいので……すこし歩きません?」  腹をさするポーズをして見せたら、佐久良は「了解です」と楽しそうに笑った。

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