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ペットボトル VS あったかご飯

 学校に送り届けてもらい、人生ではじめての松葉杖生活がスタートした。  わかっていたことだが、移動するだけで両手が否応なく塞がってしまう。  なんてめんどくさい。いっそのこと休めばよかった……と天を仰いだが、夏休み前のこの時期、ひたすら時間が惜しかった。  担当する一年生の国語の成績は同じクラスの中でもバラつきが目立っていた。生徒が高校国語に苦手意識を深める前に夏期課題を通じてどれだけ対策を打てるか。それが今の個人的なミッションといえる。  学校にはただの捻挫だと伝えていたけれど、僕の惨状を見た同僚の教師や生徒たちが心配してくれて、代わりに印刷物を運ぶなど、こまごまと気遣ってくれた。階をまたいでの移動もあったので正直助かる。  これは僕の人望だろうか。それとも怪我の功名か。どちらでもなくて、周囲の人たちが軒並み優しい人格者なのかもしれないが、ぽかぽかと温かい気持ちが湧いてきた。 「ねーねー、トヤセン。捻挫したってマジ?」  放課後、一人の男子生徒に渡り廊下で呼び止められた。  ちなみに「トヤセン」とは塔矢先生を縮めた呼び名だ。縮めて呼ぶほどの利便性があるのか、はなはだ疑問である。 「藤浪(ふじなみ)くん……」  無意識に眉をひそめた。生徒は手を振りながら、こちらへ歩いてくる。 「痛々しいね〜。だいじょうぶ?」  ベストを着用していないのは夏だからいいとしても、制服のシャツの胸元が深く開いている。そこから胸筋らしきものがちらちらと覗いていた。彼は僕より背が高いため、近づかれると胸元を見せつけられているような姿勢になる。 (……胸の筋肉に自信があるのかな)  藤浪はなにかと華のある生徒だから、そのうち生徒指導の先生に捕まるはずだ。夏休みを控え、髪の色も明るくしすぎている。  気持ちはわかる気がするけどね、と心の中で嘆息した。高校受験を終えたぴかぴかの一年生。夏休みはエンジョイしたいだろう。 「トヤセンって呼び方はやめなさい。前も言いましたよね?」 「えー、みんな言ってるじゃないすかー」  藤浪はくちびるを突き出すようにしていじけてみせた。端正な顔が一気にコミカルな雰囲気をまとう。 「君が広めたんじゃないですか……」  手でこめかみを抑え、頭を抱えた。  これでも悪い子ではないのだ。国語の成績が残念なだけで。 「まぁまぁ、怒んないでよ。カリカリしてると熱中症になっちゃうよ。ねえねえ、これ飲まない?」  彼は「じゃじゃーん!」と、自分で自分の行動に効果音をつけて、ポップなパッケージのペットボトルを取り出した。 「夏季限定カルポス、メロン味〜!」 「は? メロン? これが? 色、白いじゃないですか」 「それでもメロン味なの!」  ぷうっと頬を膨らませてむくれている。  この生徒はどこまでも喜怒哀楽がはっきりしている。 「メロン味って、メロン入ってないですよ。香料でごまかしてるだけで。要は糖分です」 「んもー! なんで素直に生徒の好意を受けとらないかなぁ!」 「すみませんね。僕はひねくれ者なので」 「ぷふっ……トヤセンのそういうところ、好きだよ」  藤浪は笑いながら、長めの前髪をかき上げた。好きって言われて嬉しいでしょ、と言わんばかりの笑顔で目配せされ、僕もつられて表情を緩める。  急にハッとしたように藤浪が目を見開いた。 「あっ、ごめん! オレが蓋あけないと飲めないよね? はい、飲んでみて」 「藤浪くんにしては気が効くじゃないですか」 「杖、貸して。飲んでる間、オレが持つから」 「え、でも……」 「不安定になりそうなら、オレに寄りかかればいいよ」  ほらほら、と腕を広げて、さりげなく僕の背中を支えてくれる。  ちょっと意外だった。  藤浪は気まぐれでマイペースで、授業中でも臆さず、ぐっすり眠る。気配りなんてものをどれほど口頭で促そうが、この生徒には馬の耳に念仏だ。そんなふうに思っていたけれど。 「……よく気がつくんですね。ありがとう」  僕なりの尊敬をこめて丁寧に礼を言った。ふたたび藤浪が目を見開いて、僕の顔をまじまじと見つめる。  僕はおどけるように左右の眉毛をひょこっと持ち上げて、不敵に笑った。 「でもね、カルポスくらいで国語はクリアさせませんよ?」  鳩が豆鉄砲でも食らったように、えっ、と藤浪の目が丸くなる。それからじわじわと頬が赤く染まってゆく。 「とっ……トヤセンのケチー!」  顔を赤くして叫ぶ藤浪を見て、僕は足の痛みを忘れるほど笑いこけた。  仕事が終わってから、佐久良にメッセージを送る。十分ほど校門の守衛室付近で待っていると、迎えに現れた佐久良が笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。 「先生、お疲れ様!」  流れるような仕草で荷物を持つと、僕を傍から支えるようにして海斗くんの車に乗り込んだ。  家に帰ると、佐久良の料理が待っていた。……のだが。  僕の鞄からペットボトルを見つけた佐久良が、おおいに顔をしかめた。腕を組んで眉根を寄せる。 「カルポスの、しかも季節限定メロン味? 甘い飲み物は先生の趣味じゃない……怪しい!」 「だから、生徒が奢ってくれたんですってば」 「わかってないですね。白い液体を先生にあげるとか……そいつ、意味深すぎて許せないですよ。看過するのは危険だな」  ぶつぶつしゃべるので内容が聞き取れない。 「先生は無自覚すぎるんだよ。自分が生徒にどう見えてるかってことに……あーもう心配すぎてしんどい」 「君がなにを心配してるのか全く理解できませんけど、僕だってお子さまのころはよく飲んでましたよ、カルポス」  カルポスは名実ともに国民的飲料のひとつだし、糖分を摂取したおかげで夕方の仕事を頑張れた。佐久良が不機嫌になる理由が不明すぎる。 「その子、べつに怪しくなんかないですよ。国語の出来は……若干アレなんですけどね」  さりげなく言葉を濁したけれど藤浪は現代文が壊滅的なのだ。僕の目が黒いうちは、むざむざ国語で足切りの憂き目に遭わせたくない。次の授業ではスパルタに徹しよう、と思い、密かに気合を入れ直した。 「そいつ、先生のこと絶対好きですよね。教師に対する接触禁止令って、どうにかしてもぎ取れないですかね。法学部の知り合いに聞いてみようかな……」 「あの〜、もうご飯食べていいですか? いいですよね? いただきまーす」  佐久良のことは無視して、わくわくしながら手を合わせた。  僕の家の小さなテーブルを埋めるように、新たに作り置いてくれた常備菜に加えて、炊きたてのご飯と汁物の椀、具沢山のサラダも並んでいる。 「これ全部君が作ったの?」 「はい。胃袋を握るって大事ですから」 「胃袋を掴む、ですよ。握られたら潰れるでしょうが」  佐久良からご飯茶碗を受けとった。ほかほかと白い湯気があがる。なんだか実家に帰った心地になった。  ワカメとキノコのみそ汁もよそってもらった。ふうふうと冷まして、ずずっと啜る。出汁の香りが顔を包んだ。久しぶりに飲んだみそ汁は、体をじんわり温めてくれる。  鶏ハムは紫蘇の葉と梅肉を挟んでくるくると渦状に巻いてあり、優しく爽やかな塩気が堪らない。  メインのお惣菜は野菜を肉や魚とうまく組み合わせて、タンパク質やカルシウムをとりやすくなるよう意識している。怪我の治りを後押しするようなメニュー設計らしい。  余ったご飯は、多めに炊いたのをおにぎり状に握って冷凍してくれた。 「常備菜は週末まで保ちます。ゆっくり食べて大丈夫ですよ」  佐久良の手料理は、無限におかわりしたいと思えるような絶妙に穏やかな味つけだ。  けして濃い味ではないけれど、物足りなさはまったく感じない。  じゃがいもやブロッコリーなど、食べごたえのある野菜が多いのもいい。  薄切りにしたゴーヤのおひたしは食感がシャキシャキしていて、次から次へと食べてしまう。  どの料理も口に入れるたび「ん〜!」と身悶えしながら味わった。  左手はご飯茶碗に固定で、右手はお菜を選ぶ。箸が止まらない。 「どれも美味しすぎる……ほんとに君の技量って底知れない」 「やった! 褒められた!」 「佐久良くんは完璧超人なんですか?」 「弟や妹と留守番することが多かったので、必然的に飯の確保は長兄の俺の役目になりましたね」  とんだ優良物件だ。僕はしょぼくれたアラサーだけど教育者でもあるので、さすがに心配になってくる。  ――なあ、佐久良よ。僕にかまけて、人生の道を踏み外しかけてないか? 「足の具合、どうです? 患部の色、変わってたりしません?」 「捻挫でも内出血ってするんですか?」 「はい。腫れが引かない場合は、骨折の可能性もあります」 「すごく痛いですが、腫れてはいないかと……ガチガチに固めていたので、むくんではいます」 「そっか。じゃあ俺、また明日の朝、寄りますね」  優しく微笑んだ佐久良は、リュックサックを肩にかけ、立ち上がる。 「……すみません、すっかり佐久良くんを頼って」 「そこは素直に『ありがとう』って言ってください。好きな人の役に立ちたいのは当たり前でしょ」  好きな人――そっか。この子、僕のこと、そういう意味で好きなんだよな。  忘れてなどいない。佐久良が必要以上に性を意識させることなく接してくれていただけなのだ。  だけど、僕は口を開くことができなかった。  ありがとう、と素直に言ったところで、何かが減ることはないのに。目を伏せ気味にしてこくりと頷くのが精一杯だった。  見送りはいいです、といって、佐久良はそのまま帰っていった。

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