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ドキドキ、ストレッチ
捻挫騒ぎから二週間が過ぎ、左足はすっかり回復していた。
佐久良の迅速な処置が功を奏したのだろう。学校近くの整形外科を訪れ、念のためにとレントゲンも撮ってもらった。
骨に異常はなく、むしろ綺麗な骨格だと医師から褒められ、ほっと胸を撫で下ろした。
(……もう七月だし、佐久良には大学生らしいことに集中してもらわないと)
大学では試験期間が終わり次第、夏休みが待っている。たった四年間のかけがえのない時間だ。今という時間を大事にしてほしい。
心の底からそう思っているのだが、
「捻挫はくせになるっていうんで、予防のためにも、足首まわりのストレッチを習慣にしましょう!」
なぜか今日も、佐久良は嬉々として僕の部屋を訪れ、ジャージ姿で屈伸をしていた。
『ブートキャンプ始めるぞ!』みたいな雰囲気だ。
そんなの頼んでない。
「あのー、あのね、お気遣いはありがたいですが、それはお年寄りが危惧すべき事態であって、僕はまだそこまで……」
「でも人間、三十前にガクッとくるらしいですよ? 親戚のねーちゃんが言ってました。鍛えておいて損はない! 筋肉は裏切りませんよ?」
「……知らんがな」
君は僕の「茶飲み友達」であって、「筋肉仲間」ではないはずだが。
かくして、佐久良龍平によるブートキャンプは幕を開けた。
僕が運動不足なのは事実だ。昔から体も硬くて、体力テストで行う「長座体前屈」は拷問だと思っていた。
前向きにとらえるなら、運動を習慣化させるいい機会かもしれない。
「筋トレっていうかベースはヨガなんです。深めのストレッチで、先生の筋肉を覚醒させましょう!」
筋肉って覚醒させるものなの? というツッコミは、終わりが見えなくなりそうなのでやめた。
ハーフパンツから伸びる佐久良のふくらはぎはすらりと長く、引き締まっている。
スタイルもいいし、姿勢もいい。
小学校ではバトミントン、中学ではバスケをしていたそうだ。スポーツにこだわりはなくて、部活は誘われたら入るというスタンスだったらしい。
気持ちよく汗が流せるならなんでもいいし、友達の助っ人をするのが好きなのだという。根っからの性格が見える気がした。
「今日は君が先生ですね。今日は一日、『佐久良先生』って呼びますからね」
「なんかすごく……やる気出てきました!」
「気張らないで、いつもの君でいいんですよ。よろしくお願いします」
わたわたする佐久良に、僕は目を細めて微笑んだ。
捻挫をすると、人間の体は痛めたところを守ろうとして、硬くなってしまうのだそうだ。捻挫をきっかけに足の可動域が狭まって、徐々に歩行に難が出る――というのは、なるほど、避けたい展開だ。
手足をぶらぶらさせて軽い準備体操をし、佐久良先生の指導に身を委ねる。
「佐久良先生。仰せのとおりに四つん這いになりましたが、ここから僕はどう動いたらいいでしょうか?」
これから挑むのは、ヨガのダウンドッグというポーズである。
手足で床を押し上げ、お尻を高くして、体を「く」の字の形にする。ふくらはぎをほぐすのが目的だ。
佐久良のスマホで実際のストレッチ動画を見せてもらったばかりだから、完成形は掴めた。が、鏡張りの部屋でもない普通の部屋では、自分がどういう格好をしているのか判然としない。というわけで、これから佐久良の指導力に頼ることとする。
教育実習の指導教官になった気分だ。
佐久良ははじめ、泣き笑いするような顔をしていたが、少しずつ眉毛をきりっとまっすぐにして、真剣な表情になった。
「えーっと……お尻を高く、突き上げるように……してください」
「お尻ですね。これでいいですか、佐久良先生」
「ゆっくりでいいです。息をするの忘れないで」
手で床を押し、つま先立ちになり、膝を伸ばしていく。
佐久良の言葉は頼りなさげだが、余裕がないわけじゃない。教科書代わりの動画と僕とを見比べて、最適解を探している。
「このポーズ、頭は? 下げるんですか、上げるんですか?」
「えっと、視線は……自分の足と足の間を見るように!」
手と膝を床に着いているだけでも、地味にしんどかったりする。
佐久良のストレッチは普段あまり使わない筋力に訴えかけるものばかりで、手足がぷるぷると震えてくる。生まれたての子犬のほうがまだマシというものだ。
「あれぇ、なんか違うんだよぁ……えっと、もう少し、手で床を抑えるみたいにして……踵をなるべく地面に着けるように、足踏みしてみて……ふくらはぎは意識して伸ばしてください」
佐久良の声が怪訝そうに曇った。
「ぐぐっ、んっ、ふんぬぅ〜っ」
「もうちょっと膝、伸ばせませんか?」
徐々に指先やつま先に赤みが差してきた。力むと肩に力が入ってしまい、腕への負担が増してくる。
「あっ、腰は反らしちゃだめだ……っ」
佐久良が言いかけて、急に口を閉ざした。
「えっ、なに? 腰がどうか……」
僕はよく分からないまま、力み続ける。
腕と肩が痺れてきた。「んっぅん……」と、吐息を漏らす。
佐久良が完全に沈黙した。
「……もうキープ、しなくていいですか?」
このダウンドッグとやら、すごくしんどい。動画のインストラクターさんはさらっと顔色も変えずにポーズをとっていたけど、それは修行の賜物に違いない。
指導された姿勢をキープするという重労働に、僕の体は耐えかねていた。
脇の下から佐久良の顔を仰ぐように見る。
なにか言ってくれよ、と口を開いた途端、体のバランスを崩し、ずべっと床に横倒しになった。
「あっ、だ、大丈夫ですかっ?」
「いてて……肩が」
手を着いて上体を起こした僕と、助け起こそうと跪いた佐久良と、至近距離でぱちりと目が合った。
「あ……」
心配そうに僕を窺う顔。だけど、黒くてきらきらした瞳の中には期待の色が浮かんでいる。そう思った。
視線を外せずに見つめ合っていると、佐久良はすっと目を閉じた。そのまま静かに顔を寄せてくる。
(こっ、これは〜〜〜っ……!)
このまま流されたら、確実にキスが待っている。
いいのか? 佐久良を受け入れて、本当にいいと思っているのか?
処女じみたことを言う趣味はないが、僕は未だに佐久良への気持ちが整理できない。
元教え子という贔屓目で見なくても、意識はしている。誰だって穏やかに好意を寄せられたら嬉しいものだ。
流されることだってできると思う。だけど、あやふやな気持ちで佐久良を受け入れられるほど器用な人間ではなかった。
君は僕の――『茶飲み友達』。『恋人』では、ないから。
「もっ……もう一回、やってみますね!」
弾かれたように立ち上がり、よーしと胸を張って、Tシャツの袖をまくりあげた。
「ふくらはぎは時々伸ばさないといけません! 第二の心臓って言いますもんね!」
場の空気を切り替えるように、やる気を出してみた。
ところが佐久良はがくーっと項垂れたまま、顔を上げない。
「……なんか、天国と地獄がいっぺんに来たみたい」
佐久良が深くため息をついてから、ぼそりと呟く。そのまま「うう…」と低く呻きながら自分の顔を両手で覆った。
「『天国と地獄』だなんて興味深いこと言うじゃないですか。それ、なんの比喩なんですか?」
佐久良が僕の眠れる文学精神を刺激するような発言をしたので、小首を傾げながら訊ねる。
しかし佐久良はまだうつむいたまま、力なく首を振った。
「天国と地獄のことは、もう、忘れてください」
「えー?」
「えーじゃないでしょ、青嗣 さ……ぁー……ごほッ!」
佐久良がわざとらしい空咳をした。
「今、なにか言いかけました?」
「なんでもないっす……このへんでひと休みしましょうか。五分休憩入れます!」
ごまかさなくても、わかっていた。
僕のことを「先生」ではなく、下の名前の「青嗣」と呼びかけて、止めたのだということは。
佐久良は立ち上がって、うーんと背伸びをした。大きな樹が部屋ににょきにょき生えたみたいだ。
「わかってたつもりだけど、人になにかを教えるのって、すごく大変なんですね。ちょっと体を動かすだけでも、指示が遅れると混乱しちゃうし。先生ってすごいよね。どこにいても、いつでも『先生』なんだもんな」
名前で呼びかけてやめ、『先生』と呼び直したのは、僕に対する佐久良の気遣いかもしれない。だけど僕の胸はざわざわと騒ぎだす。
(僕ってずっと、『先生』のまま……なんですか?)
ちくりと、小さな痛みが胸に走った。
人間は精密機械に似ている。
ひとつ歯車が狂うだけで、日常がおぼつかなくなる生き物だ。
片足を痛めた日から、佐久良に頼るのが当たり前になりかけていた。佐久良の些細な行動や言葉が、僕を動揺させる。
先生、先生と懐かれて、嬉しかった。
今は先生と呼ばれるだけで不安になる。
僕は自分の態度すら決められないくせに、佐久良が離れてしまうのが怖いのだ。
佐久良が帰ってから、ぐるぐると考えた。
佐久良が名前を呼ぶのを止めたのは、どうしてなんだろう。
今さらだけど僕に怖気づいたのでは?
その可能性もなくはないと思う。
あるいは、僕が退屈すぎて関係を深めるのが嫌になったか。……これはあり得る。
付き合うなら、大学にいる年の近い人のほうが気楽だし、話も合うはずだ。それが普通ってものだろう。
ほんの三ヶ月前まで、僕たちは教師と生徒だった。
佐久良は優秀な学生で、人としても好ましく思う。性格もいいし気が利くし、大学でもうまくやれているようだ。
九歳年下の佐久良。
家族思いの佐久良。
高三で文転し、苦労して入った大学で学生生活を謳歌している佐久良。
彼の世界は、これからますます広がっていく。
そんな佐久良にとって僕という男は――やがて切り捨てられる黒歴史にしか、ならないような気がする。
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