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あの頃のはなし
「――俺、おっぱいの良さが、わからないんです」
ちょうど一年前。
桜が終わり、躑躅が満開になったころのこと。
校内の中庭にある池の前(通称・じじスポット)でコンビニのおにぎりを食べていたら、佐久良がつかつかと歩み寄り、僕に話しかけてきた。
佐久良は僕が副担任を務めているクラスの生徒で、年下の兄弟がいるせいか面倒見がいいことに定評があった。兄貴肌とは違うが穏やかな気質で、知らぬ間に人望を集めているタイプだ。
男子校ゆえ、際どいネタは日常茶飯事。「おっぱい」についてなにやら悩んでいるらしい佐久良はなんとも眩しく、微笑ましく思えて、僕は呑気に受け流した。
「おやおや、悩める男子ですね。どうしたっていうんです?」
「脂肪のかたまりより、塔矢先生の輪郭とか指先とか見てるほうが、ずっといい」
「佐久良くん。まさか僕を口説いてるんですか?」
「なっ……いっ、言ってみただけです!」
顔を隠すようにしてサッとうつむいた佐久良だったが、言葉とは裏腹な硬い横顔が気がかりだった。冗談めかせて混ぜっ返すこともできず、そのときはただ肩を並べて、木漏れ日に揺れる中庭の池を眺めていた。
当時、副担任を務めていたのは文理合同のクラスだったが、佐久良は理数系科目の点が思うように伸びなくて、高三の春に文転を決めた。そのとき彼の進路相談に乗ったのが、国語教師の僕だった。
佐久良に懐かれるのは素直に嬉しかった。
副担任という立場上、担任のスペアとして動く場合もあるにはあったが、事務的な補佐業務が日常の大半を占めており、生徒との接点はさほど多くない。そんな僕に、佐久良は胸の内を打ち明けてくれた。
「下の兄弟のこと考えると浪人はできないし……それに、文学部の学費が思ったより安かったんです」
「よく決断しましたね。君は立派です。大事なのはこれからですよ。現役生の勢い、見せてやりましょう」
校舎内では息が詰まるようだったので、じじスポットの石のベンチに腰掛けながら、二人してぼうっと池を見ていた。
初夏めいた陽気。
木漏れ日はレモン色に輝いて、ちゃぷちゃぷと揺れる水の音が心地よかった。池の中では色鮮やかな鯉が泳いでいた。
「塔矢先生、文学部ってどんな感じ?」
「うーん……有象無象の溜まり場、ですかね。大学のカラーにもよるでしょうけど。あ、そうだ。佐久良くんはこの花の名前、知ってますか?」
僕は足元に生えている草を指差した。
這うように生えた草の中、ぽつぽつと薄ピンク色の小さな花が咲いている。しぼみかけた白っぽい蕾もある。
「雑草……? 全然知らないです」
「かわいい花でしょう? おままごとのティーカップみたいな形で。ひらひら伸びてるおしべとめしべも、リボンに見えてきませんか?」
そう言って微笑むと、佐久良はなぜか顔を赤くして、くちびるをキュッと引き結んだ。
たとえが乙女チックすぎただろうか?
「これは昼咲き月見草。ちなみに月見草は夏の季語です。といっても、俳句や和歌に出てくる月見草は、待宵草を指すらしくて、ここに咲いている花とはやや別物の、親戚同士なわけですが……」
学生の頃、僕は安くてぼろぼろの季語辞典を古書店街で発掘した。しっくりと手に馴染むソフトカバーをめくるのが、日課のようなものだった。
講義に必要だから探し求めた一冊だったが、暇つぶしに読むうち、すっかり俳句にハマってしまって、句会にも熱心に足を運んだ。
五七五――たった十七音の世界は驚くほど深く、広かった。
「待てど来ずライターで焼く月見草」
就活やら引っ越しやらで、あのときの辞典は紛失してしまった。それでも、いくつかの句は今でも誦じて言える。
「これは、寺山修司という人がつくった、僕のお気に入りの句です。古臭いイメージしかなかった俳句の中に、いきなりライターを放り込める豪胆さ。それでも成り立つ不思議。面白いなぁと思いました」
文学部出身だと潰しが効かないだとか、なんの役にも立たないとか、未来のない代名詞のように思われがちだが、それは違うと思っている。なぜなら僕たちはみんな、言葉で繋がり、言葉を使って生きているのだから。
「文学はね、目に見える景色を変えてくれるんですよ。この一句に出会わなかったら、僕はきっと、この花の名前を一生知らないままだったと思うんです」
我ながら、ずいぶん気障ったらしい物言いをしたと思う。
そもそも若者に自分の経験を語るということは、どこか図々しくて陳腐で、紋切り型になりがちだ。その証拠に、話し終えてから、しんとした重苦しい空気に包まれた。
佐久良はうんともすんとも言ってくれない。
いたたまれない恥ずかしさが込み上げてきて、頭をかきながら佐久良を見遣った。彼はうつむいて、手で口元を押さえながら、ぷるぷると震えていた。
「さ、佐久良くん……?」
声をかけようと手を伸ばすと、彼は弾かれたように立ち上がった。ぎょっと目を剥いた僕の前に立ち、大きく息を吸う。
「先生、プリンあげる!」
唐突に、僕の顔の前に小さなカップが差し出された。赤茶色のグラデーションが特徴的な、購買で売っている紅茶プリンだ。
佐久良はぐいぐいと、僕がプリンを受け取るまで押し付けてくる。
「おっ、俺の、相談乗ってくれたお礼! 受け取ってください!」
僕の手にプリンを渡すだけ渡すと、佐久良は逃げ去るように校舎の中へ走っていった。こうして僕の手に、小さな紅茶プリンが残された。
「……受け取ってって。ラブレターじゃあるまいし」
ぷぷっと吹き出したが、彼からの率直な感謝が結晶化したようなプリンを、昼休みの間じゅう眺めていた。
それからも時々じじスポットで顔を合わせていたが、夏休みも近くなったころ――静かな湖面のごとく穏やかだった昼休みに、佐久良が一石を投じた。
「……先生が好きです」
「そうですねえ、今日は暑いですからね〜」
「先生、俺は正気だよ!」
「お年寄りや若者が言う正気は、信用しちゃいけないんですよ」
若い人は移り気なもの。
男子校に通いながら見た、ひとときの白昼夢だ。
のらりくらりと躱せば終わる。
佐久良から与えられる感情を低めに見積もっていた。その油断が破られたのは、ぐっと手首を引かれたときだ。
「ちょっと……なにするんですか、佐久良くん」
佐久良は僕の手に指をぎゅっと絡ませて、恋人繋ぎのように握った。しっとりした熱い手だった。
何も言えずに繋いだ手を見つめていたら、指で指の股をそっとなぞるように擦られて、刺激された。甘やかで、くすぐったい。
他人にこんなふうに手を触られたことなんてなかった。知らない感覚に、発熱する前のような震えが背筋を這い上がる。
「……ちょっとはドキドキしてくれた? 俺、諦めないんで」
池の中で、ひときわ鮮やかな緋鯉がぴちゃんと飛び跳ねる。
水の中で揺らめく魚は、僕の心臓のようだった。
それからも時々、いや、かなりボディタッチはされたと思う。不思議といやらしさは感じなかった。そこから一つの答えが導き出される気もしたが、あえて深く考えないことにした。
なんにせよ、最近の子は積極的すぎる……。苦々しく思いながらも、佐久良なりの真摯さは眩しくて、姿を見つけるとつい目で追いかけた。
そして、卒業の日。
卒業証書を握りしめた佐久良に、ふたたび告白された。
「先生が好きです。俺と付き合ってください」
「君がOBとして遊びにくるなら大歓迎しますよ。ですが普通、教師と生徒は付き合いません」
「そのセオリーだけが俺の告白を断る理由なら、四月になれば文句ないですよね? 四月になったら俺は大学生です」
そしたら俺は塔矢先生の生徒じゃなくなりますよ――と、理詰めで迫ってくる顔は、可愛さ余って憎さ百倍だった。
それなのに、前髪の隙間から窺うような瞳は、雨に濡れた子犬のように震えている。ぴしゃりと冷たくあしらうべきなのに、良心が痛んでできなかった。
それどころか、「ふわふわ毛布に包んで、ぎゅうっと抱きしめたい」というような、反対方向の欲求にかられてしまう。
不埒な思いを断ち切るように、僕は激しくかぶりを振った。
「そんな簡単な話じゃないですよ。冷静になりなさい。君も僕も男でしょう。君の気持ちは、男子校が見せた夢かもしれない」
「夢なんかじゃない。先生が言うスタンダードが間違ってる可能性だってあるだろ。俺の気持ちは本当の本物だよ。俺は先生が好きだ。これからも会いたいし、一緒にいたいんです」
熱心に、ストレートに、佐久良は口説き続けた。冷たく切り捨てられない時点で、陥落するのは時間の問題だった。
ただ、いくら卒業したからといって、自分の教え子と付き合うのは怖かった。踏み込むのも踏み込ませるのも遠慮したかったし、浅い付き合いに留めるべきだと思っていた。
情けない僕は一計を案じた。恋人になるとも、彼氏になるとも言わず、「茶飲み友達からなら(いいですよ)」というズルい返事をしたのだ。そして、今に至る。
ちょっと待て、そもそも「茶飲み友達」ってなんなの? という話だが、その定義について佐久良と話し合ったことはない。逃げ腰な僕をあえて許している。佐久良からは常にそういう余裕を感じた。
僕は佐久良に好意を抱いている。それは認める。告白を拒否せず気を持たせる形で返事をしたのは、僕にも欲望があったからだ。
でもそれと同じくらい、自分の気持ちに正直になるのは嫌だった。怖いと思った。
若い同性の恋人と付き合うなんて、こちらが傷つくのが目に見えている。それでわざわざ「茶飲み友達」という名の予防線を張ったのだ。
ズルくて弱くて、自己防衛のための浅知恵だけはある。こんな自分に佐久良と付き合う価値があるとは思えない。
僕はあの子より先に歳をとる。
僕と佐久良、双方が傷を負うとしても、その傷は治りが違うはずだ。
佐久良の傷は早く治る。僕と会わなくなっても、別の誰かと出会って癒される。僕じゃない誰かと出会って未来を見出す。
だけど僕はそうじゃない。そんなに上手く回復できない。
それが僕たち二人の、決定的な差だろう。
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