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遭遇
十月に入った。真夏と比べれば日差しは幾分か穏やかになった。
小ぶりなスケジュール帳をシャツの胸ポケットから取り出し、済ませたTODOリストにペケを付ける。
二十四節気でいえば寒露。朝晩冷え込むようになって、空気がぴんと澄んでゆく。秋の深まりを思わせる時候だ。地球温暖化が叫ばれて久しい昨今では、夏の名残りのようなしぶとい暑さに辟易とする日もそれなりにある。僕も折り曲げていたワイシャツの袖を元に戻した。
大学も後期が始まって忙しいだろうな。
ふっとそんなことを思って、スケジュール帳から目を上げた。校庭の木々が秋風に吹かれ、揺れている。
佐久良とはたまにメッセージのやりとりをする。でも会うことはない。
当たり前だ。事務的な言い方をして突き放しておいて、それでもめげずに好意を持ち続ける人間など普通いない。これでよかった。
土曜日の夕方。すでに夕日は沈み、校舎の外は真っ暗だ。
校門を出たところで、向かい側を走っていた一台の乗用車が静かに減速し、歩道に沿って停車した。距離にして十メートルほど先。宵闇に浮かぶ車体は眩いばかりに白く、汚れのひとかけらもない。
あえかな既視感を感じたが、そのまま最寄駅のほうへと歩き出す。そのとき、運転席の窓がゆっくり開いた。大ぶりな丸眼鏡をかけた明るい髪色の青年が窓から顔を出し、「先生〜!」と呼びかけている。
校内にいる大人はほとんど教師だ。呼ばれているのが自分とは限らない。見知らぬ人に話しかけられる覚えはなかったので、念のためと思い、あたりをキョロキョロ見回してみる。
だが、周囲には自分以外誰もいなかった。
「とうや先生、俺だよ、俺! その後、足は大丈夫ですかぁ?」
「……あ」
こちらに向かって声を張り上げていた青年が眼鏡を外す。その顔を見て一瞬、口から心臓が飛び出しそうになった。
似ている。
別人だとわかっているのに心が騒ぐ。佐久良の従兄、海斗くんだった。
僕は道路を渡って、車の近くまで駆け寄った。
「……驚きましたよ。海斗くん、その節はたいへんお世話になりました」
「おっ、嬉しい〜! 先生、俺のこと覚えててくれたんだね!」
短い挨拶を交わすと、海斗は車から身を乗り出して、「ねえ、最近あいつと会ってる?」と佐久良のことと思われる話題を振ってきた。おしゃれな丸眼鏡のブリッジを指でくいっと押し上げ、まじまじと僕を見上げる表情には、微かにこちらを探る気配が浮かんでいる。
「先生だったら知ってるかなぁ。ここしばらく龍ちゃんってば元気なくってさ〜。夏休み疲れじゃないの、って家でも話してたんだよね。新生活ってさ、張り切った後でガクンとくるでしょ? 今度会ったら先生からも励ましてやってよ。あいつ絶対喜ぶと思うし」
「え……」
「だってあいつ、先生のこと大好きだよね。そんで俺のことまで牽制してくるんだもん、もろバレだって。でも……なんかそういうのって、ちょっとだけ羨ましくなっちゃった」
「それは……」
海斗くんは僕たちの関係を前向きな段階にあるものだと捉えているらしい。
「あっ、羨ましいってのは龍ちゃんがだよ。大事な人がいるのって、いいなぁって思ったんだ」
海斗くんは、へへっと笑うと照れたように鼻の下を擦った。その様子を控えめに見つめながら、あ、と少しの間、目を瞠る。
柄にもないことを言ってしまったと反省するかのような、やんちゃな少年のような表情は、佐久良とはまったく違う。それは海斗くんだけの個性だった。
「龍のこと、これからもよろしくね、先生!」
軽い動作で片手をあげると、海斗くんは夜の住宅街に優しい静かな走行音で、風のように走り去っていった。
赤いテールランプがまだ網膜に焼き付いている気がする。それを振り払うように、胸ポケットに手帳をしまい込みながら歩き出した。
ひとりで歩いていると、ひゅうう、と風の音が寂しげに街路に響いている。鞄を持つ手に少しだけ力を入れ直した。
(……佐久良くんに元気がないのは僕のせいです、なんて。それはいくらなんでも自意識過剰すぎますよね。新しい場所で頑張っているだけですよ、きっと。だから、大丈夫)
会うのをやめて三ヶ月になる。
頼んだよと言われようがなんだろうが、佐久良は僕がいなくても大丈夫。というか、大丈夫じゃないのは圧倒的に僕のほうだった。
海斗くんとの遭遇が呼び水になって、佐久良に会いたいと思いかけている。
情けなくなってきて笑いがこぼれた。自分から突き放したくせに。なんて様だ。ワガママな自分に、呆れを通り越して悲しくなってくる。
(意志薄弱……僕って嫌な大人だな)
帰り道、心の中で呪文のように「大丈夫、大丈夫」と呟き続けた。
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