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名前で呼んで
レトルトカレーが味気ない。
舌にこびりつくような食べ心地。香りも鈍く燻んだようで、口に運べば運ぶほど体が重苦しくなっていく。
パッケージに「ポークビンダルー風」の文字が踊っていたので買ってみたはいいが、店で食べたのと全然違った。レンジでチンするレトルトご飯も今日はやたら粘っこく感じた。
久しぶりの休日なのに無為に時が流れていく。
昼近くになってようやく洗濯機を回し出すと、床にべたーっと寝ころんだ。しかし数分もしないうちに体が痛くなり、のっそりと起き上がる。
鏡を覗けば、青っぽい隈を浮かべたお疲れ気味のアラサー男が映るはずだ。
ちょうど床に座って見上げた位置に、犬のカレンダーを吊るしている。自分で選んで買ったものではなく、実家の母親が「これ余ってるから使ったら?」といって送ってきたやつだ。
十月を飾るわんこは柴犬。
口の端をきゅっと持ち上げて笑っているように見える。今にも「ワンッ!」と鳴いて駆け寄ってきそうな、はつらつとした表情。つぶらな黒い瞳と艶々光る黒い鼻。
そのわんこの顔は、ある知り合いの顔を彷彿とさせた。
「……ここで一句。『犬の顔笑った君によく似てる』……だめですね、スランプです」
一方的に会うのをやめようと提案してから、あっという間に三ヶ月。もはや友人と呼ぶことすらおこがましい。これじゃただの教師と卒業生だ。でもそれでいい。
僕が寂しかろうとなんだろうと、世の中にはまったく関係ないんだから。
それでも、佐久良から時折連絡がくる。
佐久良は誠実で優しい。文句も言わず、いつも僕を気遣うメッセージを送ってくれる。
徹底的に無視するのも違和感があって、毎回とはいかないものの、当たり障りのないスタンプを送り返していた。おつかれ、とか、がんばれ、とか、そういうやつだ。
いっそ、ドン引きするような枯れ果てた俳句を送ろうかと考えたこともある。でも、やめた。気を引くようなことをしたり心配をかけたりするのは得策ではない。
僕から気持ちを逸らしてくれるなら、それでよかった。
「『この道や行く人なしに秋の暮』……これは芭蕉でしたっけ? あぁ、呟くほど寂しくなりますね。これが侘び寂びですか。お金貯めて庵でも結んでみたいなーなんて……なんか僕、ひとりごと増えたな」
ひとりごとが増えても問題はないし後悔もない。ただちょっと空虚なだけだ。
佐久良にはバイトやサークル、旅行にゼミなど、今しかできないことをしてほしい。
大学の長い夏休み明けはデリケートな時期でもある。長期休暇の間に四年間の展望を見失い、退学してゆく学生もいたりする。一年生の内は基礎科目だけで忙しく、不安をやり過ごしながらの目まぐるしい日々だろう。ストレスだって溜まる。
無理はしなくていい。佐久良なりの楽しみを見つけてほしかった。その中で僕のことを忘れてしまっても構わない。むしろそうあるべきだとさえ思っている。
それに、忙しいというなら僕だって忙しいのだ。
勤め先は共学化が決定していて、地方局の週刊ニュースでは今まさに理事長たちの記者会見が流れている。
よっこらしょと立ち上がり、炭酸飲料のペットボトルとポテトチップスの袋を持って、テレビの前に足を投げ出して座った。
「まったく、生徒に揶揄われそうな頭髪の盛り方しちゃって。センスのかけらもない。理事長のヅラ疑惑、再燃しますよ」
むしゃむしゃとポテトを食べながらテレビを眺めた。
ここしばらく通常業務に加えて会議や勉強会が増え、多忙を極めていた。雑然と書類や本が散らばり、部屋の中は散らかって見える。部屋の隅っこは埃の棲家だ。
カーテンも閉めたまま。休日なのに不健康極まりない。おまけに床に寝そべってお菓子を食べている。このまま屍になっていくのかなぁと、どうしようもないことを考えた。
一人だと、ろくなことを考えない。
「……おっと、もう一句できました。『ゴミのなか溺れかけてる男前』……本日のひとり句会、特選決定ですね」
佐久良と仲良くなる前は、休日ってなにをしていたんだろう。
就職して何年かは俳句交遊会などにも出ていたけど、それもだんだん足が遠のいて。だけど佐久良と会うこと以上に特別な用事は、なにもなかったような気がする。
ぼんやり考えていたら、改めて自分の寂しさを認識する結果となった。
(教師なんて多かれ少なかれ、みんな仕事人間ですけどね……)
告白されて茶飲み友達になって、佐久良が日常にぐいぐい侵入してくるまで忘れていた。僕の毎日を楽しく味付けしてくれたのは、佐久良だった。
だらだら流れていた記者会見の映像が切り替わり、ニュースキャスターの声が耳に入ってきた。年配の男性キャスターが、何の専門家なのか判然としない妙齢女性に訊ねる。
『さて。名門私立男子高校の共学化、識者はどう分析するのでしょうか?』
『少子化の時代、学校も生き残りをかけてアピールを……』
コメンテーターも目新しいことは特に言わない。わかりきったことを聞き流していると、テーブルに置いたスマホがブーっと震えた。続けざまにピロンピロンと軽快な電子音が部屋に響く。
メッセージアプリの通知音。
僕にぽんぽんとメッセージを送ってくるのは、佐久良くらいなものだった。
飛びつくようにスマホを掴んだ。
【ニュース見ました】
【忙しそうで心配】
【先生、げんき?】
【(鶏肉を貪るネコのスタンプ)】
画面には、まっすぐで、まっとうで、飾らない言葉が並んでいた。
佐久良は今どこにいるんだろう?
今、なにしてるんだろう?
スマホを握りしめた手のひらに、じっとりと汗が噴きだした。自然と指が動きはじめる。心という目に見えないものに急に手足が生えて、よたよたと動き出したような、ぎこちない動きだ。たどたどしい指遣いで、打算も思考も入り込む余地のない、素直な気持ちを文字に換えていく。
「……最悪ですよ」
声に出しながらフリップ入力でぽつぽつと文字を打ち、躊躇わずに送信をタップする。
「――きみがいなくて、最悪」
もう一度、送信をタップする。
思わずため息がこぼれた。
これじゃ犬をからかって遊ぶ気まぐれな猫と同じだと思った。もう会わないですよと言ったり、思わせぶりな文言を送ったり。佐久良も愛想が尽きるだろうな。それでも、これが正直な気持ちだった。虚勢を張る元気もない。
疲れに任せてやぶれかぶれでもいいから、自分の気持ちをぶつけてみたかった。
もう佐久良の前では、大人でいたくなかった。未熟で意志の弱い自分でもいいやと思った。
(どうせ離れていくのなら……その前に一度くらい素直になったって、罰は当たらないですよね?)
スマホの震え方が変わる。
佐久良から電話がかかってきた。
『――先生、どうしたの? 具合わるい? 俺、会いたいよ。会いに行きたい。先生の家、行っちゃだめかな?』
先生、先生と訴えかけてくる心配そうな声は、少し経つと、ふてくされ気味になって、最終的には甘えながら懇願するようになった。
『距離置く意味がわからないよ。ねえ、先生……』
顔を上げると、壁にかかる犬カレンダーの十月担当・柴犬の顔が目に入った。「クゥーン」という、わんこの鳴き声までもが、空耳で聞こえるような気がする。通話の向こう側の表情を想像したら、もう耐えられなかった。
「……だめですよ」
佐久良への気持ちをぎゅうぎゅう押し込めていた小部屋の箍が、勢いよく弾け飛んだ。
「僕もだめです、グダグダです。罵ってもいいんで遊びに来てください。君に会えないのは……さみしい。仕事は増えたのに、野菜も足りないし君も足りない。足りないものだらけだ。それに――僕はもう君の『先生』じゃありません」
髪をぐしゃっとかき上げて、顔を拭った。
今までかぶっていた仮面を剥ぎとるように。
今度こそきちんと、自分の本音を晒すために。
「名前で……『青嗣 』って、名前で呼んでほしいんですよ!」
魔法にかかったみたいに、勝手に口が動いていた。
すんっと鼻を啜ってから、はっと我に返る。慌てて口元を押さえたが、もう遅い。一度口にしてしまったものはもう取り消せない。
どうしちゃったんだ僕は。相手に求めてばかりで、かっこわるいにも程がある。素直になるって、こういうことだったのか? もっとこう、相手の予定を訊ねるとか、前段階があるだろうに。
時すでに遅しと思いつつ、うわずった声で佐久良に弁解を試みる。言いたいことだけ言っておいて、彼に軽蔑されるのは嫌だった。
「か、勝手なことばかり言ってしまいました……すみません」
『──青嗣さん! 俺、すぐ行くから家で待ってて!』
物を取り落とす音と大きな足音が、どたばたとスピーカーから洩れ聞こえた。
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