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素直になる日

 佐久良が訪ねてきた。  艶のある黒髪は初夏の頃より伸びていて、穏やかさの中にひとかけらの屈託を感じさせる。秋らしいボルドーカラーのカットソーも、佐久良の表情を固く引き締めていた。 「……ほんとに来ましたね」 「ここで帰れって言ったら、さすがの俺も怒るけど」 「僕だってそこまで鬼じゃありません。どうぞ、入ってください」  話をしましょう、といって佐久良を招き入れた。  三ヶ月前、距離を置こう、会うのをやめようと伝えたその口で、今さら何を言うのか。自虐的な感情も込み上げてくるが、佐久良の顔を見た途端、すとんと肩から力が抜けた。  彼が家にいる。そう思うだけで、なくしものを取り戻したような奇妙な安堵感が湧いてくる。 「あの、これ、見てほしいんだけど」  靴を脱ぐなり、ぼそりと佐久良が切り出した。  鞄に手を突っ込んで冊子を取り出し、僕に向かってぐいと手を突き出してくる。校庭の中庭で紅茶プリンを押し付けてきたときと同じような、既視感のある行動だった。 「これは……」  差し出されたのは、ビニールカバーに包まれたハンドサイズの書籍だった。装丁は藤色。この表紙を僕は知っている。  佐久良からその本を受け取ると、不思議なほど手に馴染んだ。懐かしい気持ちが胸に満ちてゆく。 「一四八ページ、月見草の項。開いてみて。寺山修司の句が載ってる。古本屋を何軒か梯子したんだ。版は違うかもだけど、青嗣(せいじ)さんの……思い出の辞典ってコレじゃない?」  青嗣さん――僕の名前。  どくんと心臓がひときわ大きく脈打った。  自分勝手に一方的に突き放したのに、佐久良の気持ちは変わっていないんだろうか。弱くて大人げない僕を軽蔑してはいないのか。  十月のカレンダーを飾る柴犬のような、ひたむきな瞳が、僕を見下ろしている。  何も言わない僕に、佐久良は焦れたように眉尻を下げ、困り顔になった。 「もしかして俺、間違えた? 店の人にも相談して探してもらったんだけど。せん……青嗣さん?」 「こ、これです、これですよ。まさにこのハンディタイプの辞典でした。でも、どうして……なんで君が?」 「高校の中庭で話してくれたでしょ、月見草の俳句が好きなんだって。雑草の名前も教えてくれた。……あのとき俺、先生に惚れたんだ」  佐久良の話で、ふっと時が戻るような気がする。  梢が風でさわさわと揺れて、木陰からこぼれる緑の光に包まれて過ごした。佐久良と二人で過ごした昼休みの時間――。 「月見草のこと教えてくれたとき、急におしべとめしべがどうこうとか言い出すし……普段は可愛い系なのに、無自覚に発する色気がやばくて」  眉毛をもじもじと上げ下げして、困ったような顔をして話し続ける。 「青嗣さんから毎日目が離せなかったし、この人の魅力に誰も気づいてないといいな、俺だけにしか見えなければいいのにって、ずっとドキドキしてた」  聞いているだけで頬が燃えそうな、甘く蕩けるような言葉が、次から次へと耳に飛び込んでくる。 「ストレッチしてたとき、青嗣さんって呼ぼうとして咄嗟に『先生』って呼び直したのは……『先生』って呼んでおかないと、俺が暴走しそうだったからだよ」 「ぼ、暴走?」  昭和のヒット曲の歌詞に出てくる、盗んだバイクで爆走する的な意味だろうか? 佐久良の言いたいことが掴めず、僕はきょとんと首を傾げた。  すると佐久良は怒ったように「だから、そういうとこ。青嗣さんは自分の色気に無自覚すぎるんだよ」といって、自分の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。 「距離を置こうって決めたのが俺のせいなら、謝りたい。だけど、一人で考えて、一人で決めないで。一人で結論出しちゃう前に、少しでいいから立ち止まって、俺に話してほしい。俺も青嗣さんと一緒に考えるから」  だから、と佐久良は言葉を継いで、僕の目を見た。黒い瞳はまっすぐに僕だけを映している。 「俺の気持ち、疑わないでよ……」  あふれそうなものを堪えるように言った。潤んだ瞳の中には強い光が瞬いていた。  かける言葉が出てこない。なにを言っても、うまく伝わる気がしなかった。  薄く口を開いて固まる僕を前にして、佐久良はため息をつきながら言葉を続けた。 「……俺、恋人としての合格ラインからそんなに遠かった? できれば茶飲み友達は卒業させてよ。あなたの恋人に昇格したいから」 「合格ラインなんて、そんなの……」  僕の張った予防線が佐久良を追い詰めていた。胸が甘く切ない痛みでいっぱいになる。 「告白されたときから満点――君は、花丸にAプラスです!」  今度は佐久良が驚く番だった。  君は知らないはずだ。素直になったら負けだと思っていて、それなのに君のことばかり目で追っている。僕がいかにめんどくさくて、ひねくれた性格をした奴なのかってこと。  だって君はいつも僕を崇拝の対象みたいに眺めていたから。  気まずくなって、ぽりぽりと頬をかいた。渇いて貼りついたようになった喉をぎくしゃくと上下させ、唾を飲みこみ、話を続ける。 「君は力持ちで、ご飯も上手に作れるけど、僕にはなんの特技もありません。おまけに九つも年上だし……不安にもなりますよ」  いつか君の黒歴史になるんじゃないかと思って――いや、違う。そんな綺麗な気持ちじゃない。佐久良の思いの強さを信じきれなくて、飽きたらあっさり捨てられるんじゃないかと疑っていた。怖かった。素直になって傷つくのが嫌だった。 「茶飲み友達でいたほうが安全でしょ? 君みたいなかっこいい人をキープしている優越感もありました。自分でも言ってて嫌になります。僕はずるい。君の世界はこれからもっと広がっていく。だけど僕の毎日はそうじゃない。傷つかない準備はしておかないと……」  名前のついた予防線をきっちり構築したのは、自分が傷つきたくないからだ。弱くて勇気がなくて、正直になれないから、ひねくれていく。そういう情けなくて嫌らしい自分を「茶飲み友達」というステータスで隠したかった。 「……俺、傷つけたりしない。もっと俺に甘えてほしい」  佐久良が腕を伸ばした。その手が僕の腕に触れる。 「どんだけ世界が広くても、青嗣さんはここにしかいないし、青嗣さん以外、目に入らない。俺は、そういうふうにできてるんです」 「佐久……っ」  背中に腕が回る。抱きしめられて、息が止まった。体に電流が流れたようにびりびりする。  佐久良の体温。佐久良の匂い。  明るい笑顔と落ち着いた声。  そのすべてに僕の体はびくびくと反応する。  佐久良は僕を腕の中に閉じ込めた。そっぽを向くのはいいけど離れることだけは許さない、と縛りつけるみたいに、腕に力を込めて。 「……僕に弄ばれているとは思わないんですか?」 「青嗣さんが俺を弄ぶ?」  薄い笑みを浮かべ、ふっと鼻で笑った。 「なにも鼻で笑わなくてもいいじゃないですか」 「無理でしょ、そんなの。人を弄べる人間は、こういう場合、もっと楽しそうな顔するんじゃない?」  胸を離して僕の顔を覗き込む。おどけた態度は微塵もなく、瞳は真剣だ。 「青嗣さんはひねくれたこと言うくせに、いっつも余裕ないんだよ。自分の言動に反応する俺を見て、びくびくしてる感じ? ほんっと、素直じゃないよね」  散々な評価だ。ひねくれてるし拗らせてるのも自覚はある。ここまで他人にずけずけ言われたことはないだけで。  口を曲げて黙り込んだ僕に「迷ってもいいよ」と、佐久良は言った。 「青嗣さんは迷っていいんだよ。だけど俺は迷わない。何度でも、俺は俺の気持ちを証明し続ける」  額と額が近づき、佐久良の手が頬に触れた。  息がかかるほど間近で見つめ合い、目の奥がひりひりと熱くなって、瞼を閉じる。  くちびるにやわらかなものが触れた。  一度離れて、もう一度。今度は小鳥が啄むように、くちびるを優しく食まれた。  僕の抵抗がないとみると、控えめな態度をやめて、遠慮なく舌を口の中へ滑り込ませた。歯列をなぞり、上顎をくすぐって、舌と舌を擦り合わせる。 「んっぅ……」  息が弾んで頭が真っ白になる。  キスをしているのだと、ようやく理解が追いついた。一度舌を抜いた佐久良が、またくちびるに吸いついた。ためらいごと飲み込むようなキスだ。キスひとつごとに、不安が霧散していくのがわかる。体から力が抜けて、もたれるように佐久良の胸にすがった。 「俺の名前、呼んでくれる?」  顔を覗き込まれて、愛を乞うように見つめられる。間髪置かずに頷き返す。 「龍平(りゅうへい)くん」 「……うわ。名前呼ばれるのって、想像よりやばいかも。すごく燃える」  熱のこもった視線が体をひと撫でし、背中から腰に腕が回った。そのままゆっくり腰を下ろし、僕たちは床に倒れ込んだ。

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