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第2話 そっか。待ってるよ
俺は一人で小さく震えていた。どういうことなのかと混乱していた。どう聞いてもそれは「単なる友人との会話」ではなかった。しかも、その「会話」はだんだんと間遠 になり、その代わりに何やら二人がやっている「気配」だけが聞こえはじめていた。
「んっ」
そんな甘い呻きがどちらのものなのか、分からなかった。ただ、ベッドの上で何かが行われていることだけは分かった。子供部屋の二段ベッドの下の段は兄が使っていて、寝返りするたびにギシギシと軋む音を出すのを知っている。その音がひっきりなしに聞こえてくるのだ。
「柾、好きだよ。好き……」
今度は完全に聞こえた。聞いたことのないような媚びた声、でも、確かにそれは、幼い頃から「もう一人の兄」として、いや、それ以上の存在として慕っていた賢人のものだった。
「俺も。ごめんな賢人、俺がバカだから落ちて……」
「いいんだ、そんなことは。ね、柾、高校離れても、大丈夫だよね。このままずっと、俺と一緒にいてくれるよね」
「ああ、もちろん。そっちこそ俺を置いていくなよ?」
「うん」
その会話の後には、いよいよ「あ」とか「ん」といった途切れ途切れの声しかしなくなった。その意味は中一だった俺にも理解できた。兄と幼なじみが「そういう仲」だったことはショック以外の何者でもなかったけれど、その次に俺に押し寄せてきたのは嫌悪感より好奇心だった。二人の睦言に耳をそばだてながら、俺は自分のズボンのベルトを緩め、その中に手を入れた。
「あ、ああっ、んっ。柾、や、だめ、声、出ちゃ……」
「平気、下まで聞こえないよ」
俺が廊下で盗み聞いていることを知らずに、二人は行為を続けた。しかも二人が果てるより先に、俺のほうが先にイッてしまった。今度こそ、そうっとその場を離れ、音を立てないように気を付けながら一階に降りた。父さんはまだ会社から帰っておらず、母さんは買い物に行っていて不在だった。俺はこっそり汚れた下着を片付けた。
何事もなかったかのように柾たちが下りてきたのは、一時間ほど後のことだ。賢人は来たとき同様の制服姿で、首元までぴっちりとボタンを締めている。その頃には既に母さんも帰宅していて、夕食の準備に取りかかっていた。
「賢人もご飯食べていかない?」
「あ、いや、今日は」
賢人の母親は店舗のディスプレイを手掛けているデザイナーで、シングルマザーだった。ショーウィンドウの入れ替えは深夜に行うことも多く、しばしば夜間に家を空ける。それを知ると、うちの母さんのほうから「そういう日は食べに来ればいいよ」と我が家に誘うようになった。そんなことが何度かあるうちに互いの母親は協定を結んだようで、賢人は時折肉やら野菜やらをぶらさげてやってくるようになっていた。中学に入り学力差が目立つようになると、俺たち兄弟の勉強も見てくれたのも、思えば謝礼の一環だったのかもしれない。
母さんから実の息子の如くに呼び捨てにされる程度には我が家に馴染んでいる賢人だったが、さすがに片や合格片や不合格という日に無理強いもできないと思ったのか、この日ばかりは母さんもそれ以上引き留めなかった。
「賢人」
玄関まで走り出て呼び止めたのは俺だ。呼び止めておきながら、何を言えばいいか分からず、ただ立ち尽くしていた。確かめたいことは山ほどあった。兄との関係。いつからなのか。何故俺に教えてくれなかったのか。……そして、何故相手は俺じゃないのか。俺じゃダメなのか。俺のことはどう思っているのか。でも、ひとつとして聞けなかった。怖かったのだ。その答えを聞いて平気でいられるとは思えなかった。あのときの自分はどんな顔をしていたのだろうか。やがて賢人のほうが口を開いた。
「颯希。柾のこと、よろしくな。あいつ、ああ見えて結構打たれ弱いから」
そう言って苦笑いする賢人に、ぎゅっと胸をつかまれた気がした。
「俺が。……俺が賢人の学校行くから。待ってて」
「そっか。待ってるよ」そう言ってから賢人は少し考え込むしぐさをした。「でも、そしたらあいつ、仲間外れだって拗ねちゃうかも」
「それ言うなら、今まで俺だけ仲間外れにされてたわけじゃん。柾はずっと賢人と一緒にいられたんだから、今度は俺の番」
「なんだよ、それ。兄弟で俺を取り合ってるみたい」
その通りじゃないか。そう言いたいのをこらえて、俺は「絶対行くから」と念を押すように言った。
賢人はただ黙ってにっこり頷き、自分の家へと帰っていった。
◇ ◇ ◇
高校に入ると柾はアルバイトを始め、帰宅の遅い日が増えた。更にはたびたび外泊するようにもなった。高校を出たら就職する。そう宣言した柾に両親は何も言わなかったし、外泊も大して気に留めている様子はなかった。いつもそうだ。「柾は一度言い出したら聞かないから」。その一言で大抵のことは許されてきた兄だった。対して、大人に従順な俺はその分成績も評判も良かったが、一方で「要領のいい弟」という不名誉なことも言われ続けた。奔放な兄が行く先々で叱られるのを見てきたから、それを反面教師にして大人に取り入るのがうまいのだと。
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