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第3話 なんで、俺じゃないんだ?

 冗談じゃない、と思っていた。行く先々で「あいつの弟」というだけで因縁をつけられる身にもなってほしい。自衛のためには、要領よく立ち回るしかないじゃないか。それでも難癖をつけてくる奴はいて、そんなときに助けてくれるのはいつも賢人だった。賢人はどこでも人気者で、賢人がそう言うなら、と引き下がる輩は少なくなかったのだ。俺の居場所を作ってくれるのはいつも賢人だった。俺にとっての賢人は実の兄よりも兄のようで、「友達」という言葉でも物足りない、「特別な人」になっていった。  それなのに。 『柾、好きだよ』  あの声は紛れもなく賢人だった。俺だけを見てて。ずっと一緒にいて。そう柾に取り縋っているのは、賢人だった。 ――なんで、俺じゃないんだ? なんで柾なんだ?  その晩、俺は声を殺して泣いた。そんな夜でさえ、柾と共用の部屋のせいで、まともに泣くこともできやしなかった。二段ベッドの上の段で毛布を頭からかぶり、さっきすぐ下の段で賢人と柾が何をしていたのかを想像した。悔しさで気が狂いそうになった。……そして、興奮もした。 ――絶対、賢人の高校に入ってやる。賢人を、俺のものにしてやる。  永遠に追いつけない二歳の差がいつも邪魔だった。俺だってずっと賢人が好きだったのだ。彼の隣にいたかった。彼と対等な存在になりたかった。なのに、そこはいつも先に柾がいて、俺の入り込む隙はなかった。柾の弟だから賢人の近くにいられるのだけれど、柾の弟である限り一番近くには行けないのだ。そんな風に躊躇っているうちに、結局柾に出し抜かれた。賢人を奪い返すには賢人と同じ高校に行くしかない。俺はこれが最初で最後のチャンスだと覚悟した。  そうして二年後。  俺は約束通り、賢人の高校に合格した。  やった、と思った。これで柾よりも賢人の近くにいられる、と思った。  高校合格を機に、兄弟の部屋を分けてもらう交渉にも成功した。二段ベッドは解体され、子供部屋は俺専用の部屋となり、ろくすっぽ家にいつかない柾は、それまで物置代わりに使っていた狭い部屋をあてがわれた。当の柾がそれでいいと言い出したのだ。俺は寝る場所さえあればいいよ、颯希みたいに勉強道具並べる必要もねえしな、なんて笑っていた。その余裕がまた癪にさわったりもするけれど。  高校では迷わずテニス部に入った。賢人がテニス部だったからだ。だが、そこでも二歳差が邪魔をした。賢人たち三年は夏前には引退するわけで、一緒に活動できる時間はほんの僅かだった。少しでも賢人の視野に入っていたいと自主練習も怠らなかった俺は、新入部員の中でもひときわ熱心に見えただろう。それもこれも賢人に振り向いてもらうためだ。 「あんまり無理するとケガするぞ」それだけの言葉でも俺のために発せられたものなら嬉しかった。「部活なんて適当でいいんだよ、適当で」そう言う賢人が誰よりも負けず嫌いなのも知っている。  時折わざと下校時間を合わせて、賢人と帰宅することもあった。電車の中も、駅から家までの道程も、先輩後輩、あるいは幼なじみの域を出ない他愛もない会話しかしなかったけれど、賢人を独占できるこの僅かな時間だけが俺の楽しみだった。  だが、それすらも何回かに一回は中断せざるを得なかった。 「今日は予備校なんだ」  そう言って途中の駅で電車を降りる賢人。その断り文句が事実のこともあれば、そうでないこともあった。そうと知ったのは、柾のスマホの画面が偶然見えたときのことだ。「明日、母さん夜いないって」「じゃあ行くよ」「うん、待ってる」……そんなやりとりの翌日、賢人は俺には「予備校」を理由に途中下車し、柾は友達の家に泊まると言って帰ってこなかった。  二人は、あの日からずっと続いていたのだ。一時的な気の迷い。受験期の欲求不満を手近なところで済ませただけ。そんな可能性を心のどこかで期待していたが、今度こそ決定打だった。少なくとも中三から高三に至る今まで、彼らは互いの家族の目を誤魔化しながら、ずっと関係を続けていたのだ。頭がくらくらした。  関東地方に梅雨入り宣言がなされ、蒸し暑い日が続く中、俺は焦った。時間がない。もうすぐ賢人は部活を引退する。偶然を装い時間を合わせて帰ることもしづらくなる。どうしたらいい。どうしたら振り向いてもらえるのか。日々憔悴していく俺を見て、賢人は体調を心配してくれたが、その原因が賢人自身だとはどうしても言えなかった。その賢人が恋している相手が柾だと思えば尚更。 ◇ ◇ ◇  梅雨明けと共に事態は一変した。柾が「彼女」と称する女の子を家に連れてきたのだ。当然、そんなことは初めてで、母さんなどは赤飯でも炊く勢いで歓待した。何故ならちゃらんぽらんな高校生活を送っていた柾が、急に髪を黒く戻し、サボりがちだった学校にもきちんと通い、専門学校に行きたいと言い出したきっかけがその子のためだと判明したからだ。まだ先の話だけど結婚も視野に入れて真剣につきあっている。そのために少しでも好条件の就職がしたい。だから専門学校に行って資格を取って……そんな人生計画を語る柾を見て、母さんはすっかりほだされていた。そう、いつもと同じだ。うちの親は、柾にどんなに迷惑をかけられようが、結局は全面的に味方をするのだ。

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