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第8話

翌朝、会社に出社してメールをチェックして返信が必要なものは終わらせた。 そして二枚の名刺を前に悩んでいる。 (どうするか…。) 数分間、真剣に悩んで目の前のパソコンからメールの新規作成ボタンをクリックした。 書いては消して、たった一通のお礼メールに自分でも信じられないほど時間がかかった。 何とも言えない疲労感を背負ったままフロアの片隅にある自販機で缶コーヒーでも買おうと思ったら、休憩コーナーには先客がいた。 「…。お疲れ様です。」 「あー、高丘クン…。」 「おー、お疲れ…。」 俺の挨拶に苦笑しながら声を掛けてくれた市村さんと、ドスの効いた低い声で続けて挨拶を返してくれた橘さん。 まさについさっきメールを送った二人だった。 その雰囲気は話題にせずにはいられないほどに暗い。 「何かあったんですか…?」 そんな二人を横目にしながら、小銭を入れてブラックコーヒーのボタンを押す。 「ちょっとグチをね…。」 「…キヨさん、さっさと昇進して下さいよ…。」 話を振った手前、立ち去れるわけもなく二人と相席することになった。 「なんか意外です…。お二人はグチなんて言わないかと思ってました。」 缶コーヒーを開けて、一口飲む。 そんな俺を市村さんと橘さんがキョトンとした顔で見つめてくる。 「フッ…!…クククッ!」 「フフッ…!いやぁ〜、高丘くんはやっぱり良い子だなぁ〜!」 「な、なんですか….。」 「…お前、オレらのグチ聞いてみたい?」 二人はひとしきり笑ってから、橘さんが俺に問いかけた。 ニヤニヤと人を試すような意地悪そうな目をして。 「興味はありますけど…。」 「今日ヒマ?」 「……エ?…まぁ、ハイ。」 「じゃあ、今日も付き合え。奢ってやるから、な?」 「圭佑、さすがにそれは…」 ニッコリと笑顔で圧を掛けてくる橘さんと、申し訳なさそうな言葉とは裏腹にウキウキした様子の市村さん。 こういう時にハッキリと拒否できない自分を恨みたい。 引き攣った口元で了承すると、二人はご機嫌で自席へと戻って行った。 俺はそんな二人とは対照的に少し重い足取りで席に戻ると、返信が来ていた。 『無理に誘ってゴメンね。今日も楽しみにしてます!』 『今日、この店。』 橘さんから早くも店のURLが送られてきて、思わず笑いそうになった。 (どんだけ飲みたいんだよ…。) それからの仕事は驚くほど落ち着いていて、問い合わせのメールも無ければ電話も鳴らない。 飲みに行くのにうってつけの日になった。 パソコンと私物を片付けて、早々に会社を後にした。 到着した店は昨日とは打って変わって、串焼きがウリの居酒屋のようで、店に入ると奥まったテーブル席から市村さんが顔を出した。 「お疲れさまです。」 「お疲れさま〜。あ、席どっちにする?」 二人は既に呑んでいて、橘さんか市村さんのどちらかの隣に座るしかない。 「…オレ、煙草もあるしキヨさんの隣にしたら?」 市村さんの名前にドクリと心臓が飛び跳ねる。 もっともらしい理由を前に断れるわけもなく、ガチガチに緊張した身体を何とか動かして市村さんの隣に座った。 (これは、絶対に悪酔いする…) 平静を装っているが既に心拍数は早く、ビールが飲みたくて仕方ない。 早々に頼んだビールが届くと、逸る気を悟られないように乾杯して一気に流し込んだ。 「…ほんと意外だよな。その飲みっぷり。」 「いや、橘さんほどでは…。」 アルコールで少し落ち着きを取り戻した心臓に安心した。 「好きなだけ飲んでね。」 「昨日ほど高くないし?」 「コラ、圭佑。」 橘さんは市村さんにニヤリと笑いかける。 昨日は結構呑んだ自覚があるだけに、申し訳なくなる。 「昨日、やっぱ高かったんですか…?」 「まぁ、少しね。杉原のために良い店にしてたからね。」 「いつもはこんなもんだからな?」 笑いながら橘さんがビールを飲んだ。 相変わらず派手なイケメンなんだけど、いつもよりずっと近寄り易くて本当の姿を見ている気がした。 「ゴメンね〜。高丘くん、何か凄いカッコいい先輩を想像してたでしょ?」 「キヨさんもオレも、安い酒で普通にグチるって。」 「あ…。」 今日、二人が機嫌良く帰って行った理由が分かってしまった。 「嬉しいよね〜。後輩からあんなにキラキラとした目で見られるのは!」 俺は本人達に向かってグチも言わないカッコいい先輩だと公言してるみたいだ。 その事実に猛烈に恥ずかしくなって、耳が熱くなる。 「…。…キヨさんが妙に構うわけだ。」 橘さんが何か呟いたけれど、居た堪れない気持ちを紛らわそうとビールを呑んでいたオレにはしっかりと聞き取れなかった。 「それで…今日は何をグチってたんですか?」 とにかく話題を変えたくてその質問をした瞬間、二人は死んだような目で遠くを見つめた。 「…まぁ、よくある話なんだけどね。」 「先輩がうつ病で高飛びしたんだよ。」 「圭佑。もう少し言葉を選べ。」 苦笑いを浮かべながら嗜める市村さんの言葉に、悪びれることもなく橘さんは焼鳥を食べ始めた。 「高丘くんの部署は長期療養の人いる?」 「あぁ。隣のチームにはいるらしいです。」 「じゃあ…。…長期療養の"取り方"は知ってる?」 仕事柄なのか、精神的に追いつめられてうつ病になって長期休暇になる人の噂はよく聞く。 プロジェクトの繁忙期とか炎上したときとか、終電帰りと休日出勤が続いた日を思い出すとうつ病になるのも仕方ないかなと思う。 しかし、これは市村さんの質問の回答ではないだろう。 市村さんの質問の意図が見えず首を傾げると橘さんが口を開いた。 「精神科で眠れないとか体調が悪いって言いながら、忙しい時の勤務表でも見せれば診断書くれるんだよ。あとは産業医なり上司なり人事に言えば長期療養という名のお休みゲット。」 「へぇ、意外とアッサリ…。」 「つまり…、その気になればオレもキヨさんもすぐ休めるワケだ。」 橘さんはニッコリと笑っているものの、その目は全く笑ってない。 「休んでる本人は本当に辛くて苦しいのかもしれないからね。こんな風に思っちゃいけないんだろうけどね…。」 「アイツ何回目だよ…!やってた案件は全部中途半端で、丸投げできるんだから楽な仕事だよなぁ!」 怒れない市村さんと、ブチ切れた橘さん。 仕事ができるからこそなのか二人が愚痴りたくなるのも頷けた。 「…もしかして、お二人が引き継ぐんですか?」 恐る恐る、触れてはいけない核心に切り込んだ。 「いや…。俺も圭佑も抱えてる仕事でいっぱいだから、それは無いんだけど…。」 市村さんは困ったように笑いながら、向かいに座る橘さんに視線を移す。 橘さんは何かに耐えるように、目を閉じながら深く息を吐いて…。 「……杉原を外すことになった。」 苦虫を噛み潰したような顔で、心底悔しそうにその一言を絞り出した。 良く知る友人の名前に思わず目を見開く。 「俺も圭佑も、随分反対したんだけどね。」 「アイツに任せた案件が始まるってときに…。他のヤツでもいいだろうが…!」 「…リョウは知ってるんですか?」 「今朝決まったことだからな。…まだ知らせてない。」 橘さんは少し落ちついたのか、諦めたように苦笑いを浮かべた。 「今やってる仕事は最後まで杉原にやらせたかったんだけどな…。」 手に持ったお酒を見ながら呟かれた言葉は、苦しくなるほど優しかった。 それから皆がほどほどにお酒が入った所で、市村さんの携帯がなった。 「お疲れ様です。市村です。…えぇ、はい。」 話ながら俺と橘さんに謝るジェスチャーをして、市村さんは席を立った。 定時後の呼び出しも、この業界では珍しくない。 「…トラブルですかね?」 「この時間だからな。ロクな電話じゃないだろうな…。」 橘さんは店員を呼び、ウーロン茶を一杯頼んだ。 それから随分と時間が経ってから市村さんは戻ってきた。 「圭佑、高丘くん、ゴメン…ッ!これから客先行くことになった!」 「いえいえ、気にしないで下さい!」 「会計はやっときますから、ウーロン飲んでから行ってください。」 ウーロン茶を一気に飲んで、ありがとうと言うと足早に店を出て行った。 最初から全て分かってたかのような橘さんに、二人の付き合いの長さを感じる。 「さて…。高丘、それ飲んだら帰る?」 「え?」 「いや、お前はキヨさんいないと居づらいだろ…。」 「全然大丈夫ですよ!…橘さんが嫌じゃなければ。」 橘さんはその外見とは裏腹に、意外と面倒見が良くて、人に対して気を遣う。 「…オレ、絶対お前に嫌われてると思ってた。」 「何でそうなるんですか!」 「最初の印象悪過ぎただろ?」 「あー…。それは、そうですね…。」 打ち合わせブースを覗き込んだ日を思い出して苦笑する。 橘さんも自覚はあるらしく笑っていた。 部署が違う俺とは恐らく仕事を一緒にすることがない。 何の接点もない橘さんとの関係は不思議だけど心地良い。 「市村さんとは長いんですか?」 「入社したときには居たからなぁ…。ま、目の上のタンコブだよ。」 「え……?」 「こうやって一緒に飲むのなんて割と最近の話で、昔はめちゃくちゃ嫌ってた。」 仲の良さそうな二人からは想像がつかないし、何よりあの市村さんが誰かに嫌われるってことが全く想像できなかった。 そんな考え顔に出ていたのか、橘さんは困ったように笑ってから理由を教えてくれた。 「お前みたいに部署が違うとか歳が離れてるとか、少し距離があれば素直に尊敬してただろうけど。あれだけ完璧に仕事がデキる男と比べられてみろよ…。」 話しながらタバコに手を伸ばしたので、灰皿を前に差し出す。 「良い仕事は全部キヨさんが持ってくから、評価もされない。当然昇級も無し。キヨさんと歳が近いヤツらは認めてる反面、思うところもあるんだよ…。」 カチカチとライターで火をつけて紫煙を燻らせる。 橘さんは、ふわりふわりと立ち昇る煙を見送った。 「ま、今はそんな風に思ってないからな?」 「そうだったんですね…。」 「納得いかない?」 「言いたいことは分かるんですけど…。」 悩んではいないけれど、同期と飲んでても少しだけ感じる違和感。 「オレ昇進の欲がなくて…。正直、別世界の話というか…。」 誰が良い評価を取ったとか、今度昇級するとか…。 そんな話題をする時、周りの同期には相手を認めながらも言葉の端々から焦りだったり妬ましさが滲んでいた。 「もっと野心とかあればいいんでしょうけど。まだ一人前にもなってない自分は、評価して貰うラインですらない気がしていて…。」 適当に話を合わせつつ、そんな彼らこそ俺は羨ましいと思っていた。 俺には野心なんて微塵もないのだから。 居た堪れなくなって、灰皿にそっと視線を落とした。 「へぇ…。いいじゃん。」 トントンと灰が落とされて、思ってもみない言葉に視線を上げると橘さんが目を細めていた。 「オレは自分を過大評価してるヤツよりよっぽど好感がもてるけど?」 そういえば、この話を誰かにしたのは初めてかもしれない。 「遼とか山﨑さんとか凄いなって思うんですけど、それと同時に自分の出来なさ具合に嫌気が差すんです。」 「杉原と山﨑ねぇ…。お前が思ってるほどアイツらも仕事できてないぞ?」 「いやいや、橘さんはオレはできなさを知らないから…。ほんとに使えないんですよ。」 項垂れる俺を見て橘さんが笑った。 「できないって言うけど、入社してから3年くらいやってきたんだろ?」 「まぁ、色んな人の力を借りて何とか…。」 「簡単に言うけどな、力を貸す側からすると貸したくないヤツには貸さないからな。」 煙草で吐き出したつもりになっていた黒い感情が少しずつ消えていく。 「助けて貰えるだけの人間関係を作るのって意外と難しいんだよ。」 …橘さんの優しい言葉に押し流されるように。 「どういうカタチでも仕事が終わったのなら、結果は同じだろ?…やり方が違うだけで、お前もちゃんとできてるよ。」 泣きそうになった。 誰にも言ったことは無かったのに、ましてや一緒に仕事をしたわけでもないのに。 「もしかして、泣いてる?」 「何言ってるんですか。泣いてないですよ…。」 誰かに気づいて貰えて、認めて貰えるのは…。 どうして、こんなに嬉しいんだろう。

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