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ヒヤシンス 4

 与一さんがどんなに優しくても、その好意に甘えすぎちゃいけないってことは、もちろん分かっている。  俺が気を抜いてしまったら、一気に甘えて馴れ馴れしくしてしまいそうだから、常に適切な距離を保とうと頑張っている。  だけど、与一さんはまるで、磁石みたいに俺を引き寄せるから、これまでに短期間でぐんと距離が縮まって来た。  それとも、俺がそう思いたいだけなんだろうか。だとしたら、余計にもっと気を引き締めないといけない。  あくまでも与一さんはオーナーで雇用主で、俺は従業員だ。  だから、俺は一定の距離感を保つために、常に踏ん張っている。  この変な感覚が何なのか、最近ようやく分かって来た。  俺は、与一さんに沼落ちしそうになっているんじゃないか、って。  与一さんみたいな人には、今まで出会った事が無かった。  尊敬と憧れ。そういう感覚だ。  ファンがアイドルに抱く様な、そんな畏敬の念。大袈裟に言えば、きっとそんな感じ。  その上与一さんは性格が良いだけじゃなくて、見た目もすごく綺麗だ。  長身で広い肩幅に、長い手足。白い襟なしのシャツをビシッと着こなして、ふんわりとしたセンター分けの髪に、時々掛けている丸い眼鏡も、すごく似合う。それに一番魅力的なのは不思議な色合いのグレーの瞳。それから、薄いきゅっと口角の上がった唇。  俺の顔にも与一さんと同じ様に目や鼻や口が付いているけれど、繊細に丁寧に一生懸命考えて作ったであろう与一さんの物と比べると、あまりにもお粗末だ。神様、手を抜いたよなって感じ。  実は与一さんは俳優だって言われたら、やっぱりな、って答えると思う。  与一さんは、博愛主義者で、ボランティア精神に溢れている。俺を拾ってくれたのも、放って置けなかったからなんだろうって、ある時点でストンと腑に落ちた。  その事に気がついても、同情するなとか馬鹿にするな、なんて事は全く頭に浮かばなかった。  ただ、ありがたかった。  学歴も蓄えも無くて、あの寒空の下突然家を失って、仕事がすぐに見つからなければ、今どこでどう過ごしていたのか分からない。  想像するだけで怖くなったから、窓辺に置いたヒヤシンスに顔を近づけて甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。  与一さんはカフェのオーナーっていう肩書きだけじゃなくて、不動産や投資もやっている実業家らしい。語学も堪能で、今まで色んな国に住んだ事があるって、横田君から教えてもらった。与一さんは自分のことをあまり話さない人だけど、横田君の熱意に負けて少し話してくれたらしい。  与一さんの包容力や、底抜けの優しさや、スキンシップも、そんなたくさんの経験からなんだろうと思うと、納得できる。  そんな凄い人と自分が関わっている事自体、信じられないし、なんで俺はここにいるんだろう、って。 「もう少し部屋でゆっくりしてたら?」 「ううん、ここにいます」  カウンターに座って、奥のキッチンに立つ与一さんを眺めながら、考える。  これ以上甘えちゃいけないっていう気持ちと同じくらい、心地の良いムーンライズでずっと過ごしたい気持ちもあって。  だからガッカリされたくないし、少しでも役に立ちたい。 「はい、どうぞ」  目の前に置かれた丼には、黄金色の餡のかかったふわふわの玉子。 「うわ、美味しそう。いただきますっ」 「うん」  前にもご馳走になって、俺は完全に与一さんの天津飯の虜になってしまった。こんな美味しい天津飯は食べたことないって、心からそう思って言ったのに、与一さんは褒め上手だなあ、って、笑った。  ムーンライズでは、簡単なおつまみ以外の食事は出さない。こんなに料理が上手なのにもったいないって言ったけど、与一さんは、ありがとうって微笑むだけだった。  火傷しそうに熱い天津飯を頬張って、慌てて水を飲む。 「与一さん、ほんとに美味しいです」 「乙都君見てると、伝わってくるよ」  そう言って目を細める。ガッツキ過ぎたかなってなんだか恥ずかしくなってしまう。 「乙都君が食べてる所見てると、幸せだなあ」 「何ですか、それ」  また変な事を言うから、思わずむせそうになった。それも、与一さんのボランティア精神なんだろうか。 「与一さんは?」 「僕は食べて来たから」 「そうなんですね」  与一さんは、よくご飯を食べさせてくれる。だけどいつも俺が食べるのを見ているだけだ。  一緒に食べたらきっともっと美味しいのにな。  なんて甘えた言葉を、ぐっと飲み込んだ。  家賃も光熱費もいらなくて、ほとんどまかない付き。こんな好条件、ありえないだろうって思う。 「与一さん、やっぱり、俺オープンしてからも手伝います」 「え? いいよ、十分働いてるでしょ」 「そうは思えないんですけど。給料の分、働けてる気がしなくて。お世話になってばっかりで」 「なに言ってるの? 十分過ぎるくらいに働いてくれてるでしょ」  与一さんは腕を組むと、真剣な顔で俺をじっと見つめる。 「でも、俺、店好きだし」 「好きなら、降りて来て下で過ごせばいいよ。だけど、仕事はしちゃだめ」 「え? なんですかそれ」 「あそこら辺の席で適当にのんびりしてればいいよ」  そう言うと、奥の一番低くてふかふかのソファの席を指さす。あんな居心地のいい席にいたら、眠ってしまいそうだ。 「でも……」 「乙都君。今まで、どれだけ働かされて来たの? キツくないと満足出来ないとか、不健全だと思う」 「え、いや、そんな事は……」  前の仕事は確かに、精密さを求められたし。機械を扱う時も怪我をしない様に注意を払って。凄く集中しなくちゃいけなかったから、頭も体も毎日凄く疲れた。だけど、こき使われて酷く扱われた訳じゃない。 「いい? 僕は夜仕事する分、昼はしっかり眠りたいんだ。だからその間に仕事をしてくれる人が必須で、外回りとか、僕には出来ない事を全部乙都君がしてくれてるんだよ? わかる? もう、ここに乙都君が居てくれないと、店が成立しないんだよ」 「えっ……」 「だから、凄くありがたいって、思ってる。お給料とか住環境とか。それは当然の対価だから。乙都君に辞められたら、困るの。分かる?」  与一さんはまるで小さい子を諭すように、俺に話す。それでも、自分の仕事にそこまで価値があるなんて、思えない。 「でも……気になってたんです。横田君は、大学に行きながら働いてて。その仕事量、俺はフルタイムで」 「……そんな事考えてたから、色んなところ掃除したり、磨いたり、してくれてたの?」  与一さんは目を丸くしている。 「はい……」 「違うよ、乙都君。前にも話したと思うけど。僕は低血圧で朝起きられない体質だし、それにすごく紫外線に弱くてね。体調が悪くなる事もあるから、日中はなるべく出歩かないようにしているんだ。だけど横田君の本業は大学生だから。授業の妨げにならないように調整して仕事して貰ってたんだよ」 「そう……なんですか?」 「最低限の物を横田君に頼んで、あとは自分で。だから、今は凄く楽させてもらってるんだよ」 「ほんとですか……?」 「そうだよ。それどころか、乙都君がずっと居てくれるから、僕は何もかも乙都君に頼んでしまって。自分で買いに行けば済む様な物も、乙都君に甘えさせてもらって悪いかなって、」 「何言ってるんですか? もっと、幾らでも頼んで下さい。なんなら、店だけじゃなくて、与一さんが家で使う物とか、食材とか、何でも買い出ししますよ? 俺もっと仕事欲しいです」  俺が食い気味にそう言うと、与一さんは目を丸くした。  だけど、本当に与一さんの体調が悪くなったりしたら大変だ。 「ほんっと……乙都君、ありがとう」 「そんな事ないです、俺の方がありがたいです……それに」 「ん?」 「大変ですね……大丈夫ですか? 紫外線、アレルギーみたいな?」 「ああ……まあ、そんな感じ。だけどもう長い付き合いだから、上手くやれるようになったし。太陽が嫌いすぎて、ついには夜する仕事に落ち着いたくらいだよ。それでも、乙都君の助けが無いとやって行けないからね、だから、よろしくね」  そう言うと、与一さんは俺の目をしっかり見つめて、頷く。 「はい、頑張ります」  誰かに認めてもらえる事が、必要とされる事が、こんなにも胸を熱くするのかって、思った。 「もう、十分に頑張ってくれてるよ」  また大きな手が伸びて来て、俺の頭をポンポンと叩いた。

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