10 / 27
第10話 地下闘技場
意識が戻ってきたユーシーの目に映ったのは、夜の色に染まった天井だった。
いつの間にか日はすっかり沈んで、カーテンの隙間からはちらつく街の明かりが僅かに漏れてくる。
爛れた熱の余韻はすっかり消え、身体に残っているのはわずかな倦怠感だけだった。
随分と気を失っていたらしい。昨夜は遅くまでジンに責められたので、疲れていたのもしれない。
うっすらと倦怠感の残る身体でユーシーはのそのそと起き上がる。
自慰の途中で意識を飛ばしたせいで、ベッドの上も自分の身体もひどい有様だった。美しい刺青の模様は乾いた白濁で汚れ、後孔にはディルドが半分埋まったままだった。ずるりと抜き出すと、張り出した部分が雑に前立腺を抉って腰が跳ねた。
シーツに散らかった玩具を洗って片付け、シャワーで身体を清める。散々吐き出した残滓を洗い流し、部屋に戻ると下着だけの姿でストレッチを念入りに行った。無心で行う、いつものルーティンだった。
一頻り身体を伸ばすと、ユーシーはクローゼットを開けた。ハンガーにかかっている服は少ない。
ルーズなシルエットのTシャツに、ハーフパンツと、ソックス。全部黒だ。ベッドサイドのキャビネットの上に置いたサングラスも忘れない。
外行きの服に着替えたユーシーは、クローゼットの隅に放ってあるリュックを拾い上げるとクローゼットを占めた。ボストンバッグの中の札束から紙幣を数枚抜くとポケットにしまい、部屋を出た。
ユーシーの足は自然と繁華街へと向く。
ネオンの下に流れる人混みを颯爽と抜け、向かった先はバーやクラブの並ぶ歓楽街の中でも薄暗い一角。
ライブハウスのような重そうな扉の前には体格の良いセキュリティの男がいた。
「どーも」
ユーシーがペコリと頭を下げると、男はユーシーを一瞥して小さく頭を下げた。
重い扉を開け、階段を降りて地下のフロアに着くと、薄暗いホールにセキュリティの男がもう1人立っている。
顔パスで脇を抜けると、その奥には熱気と賑わいに包まれた空間が広がっていた。
ユーシーのもう一つの職場、地下格闘技場。
喧嘩自慢が集まる夜の街の地下に作られた闘技場で、ケージのような檻の中で、一対一で闘う。
物好きな観光客やマカオに飽きた客が訪れ、時々芸能人もいるらしい。日によってはジンやレイが来ることもある。VIPルームに入るのは大体マフィアか、物好きな金持ちだった。
観客はどちらが勝つか賭ける。オッズは人気の具合と勝率に応じて支配人が決めていた。ファイトマネーも、その中から支払われる。金額は微々たるものだが、スポンサーがつく試合には高額な賞金が出ることもある。
支配人はいるが、元締めはジンの組織だった。
フロアの中央にはリングがあり、その周りを囲うようにアリーナがあり、その外周にバーカウンターとVIP用のシートがある。
一般客はスタンディングだ。
バーカウンターの前を通ると、見慣れた姿があった。
「ヘイティエ!」
三十くらいの、中肉中背の髭面の男が嬉しそうな声を上げた。ここの支配人のウェンだった。
ヘイティエはここでのユーシーの名前で、いわゆるリングネームと言うやつだった。名付けたのはこのウェン。黒服で、初戦で見せた強さからその名前がつけられた。
「待ってたぞ。どうだ、エントリーするか?」
ウェンは右手に太いマーカーを持っている。今日の試合のトーナメント表を作っているようだった。
「ああ、やるよ」
「よし、ヘイティエは予選なしだな」
ウェンは上機嫌でトーナメント表にヘイティエの名前を書き込んでいく。左端の選手の枠に黒鉄の名前が記された。
「今日のトーナメント戦は楽しくなるぞ。ヘイティエ、今日のはスポンサーがつく。優勝すればボーナス付きだ」
「はは、じゃあ頑張らなきゃな」
「今ちょうど予選をやってるところだ。ゆっくりしててくれ」
「ん、わかった」
ジンに紹介されて以来、ユーシーは暇さえあればここへやってきて試合に参加していた。ファイトマネーは微々たるものだが、気にはならない。ここへやってくる理由は、金よりも、憂さ晴らしだった。
勝率の高いユーシーはオッズは低めだが、それでもユーシーに賭ける客は少なくない。常連客からも支持を得ていた。
華奢で端正な顔立ちをしているせいもあり、女性客からの人気も高い。
バーカウンターを離れたユーシーは、店の奥の関係者以外立ち入り禁止エリアに入っていく。
先には選手用の更衣室がある。
従業員用のと大差無い、年季の入った金属製のロッカー。あちこち凹凸が見えるのは、気性の荒い奴や喧嘩っ早い奴が集まる場所柄のせいだ。ユーシーもここで何度もやり合ったことがある。
そのうちの一つ、一番奥のロッカーには、黒鉄とマーカーで書かれている。消えかけた字は、初めてここへ来た時にウェンが書いたものだった。
うっすらと漂う、金属と、汗と、タバコ、アルコールの匂い。遠くに聞こえる歓声。
生身の人間同士がぶつかり合う場所。生きる人間の匂いが濃いこの場所が、これから始まる闘争本能のぶつけ合いが、堪らなく好きだった。
殺しでもセックスでも感じることのない、刹那的で暴力的な昂りと、身体と意地のぶつかり合い。
湧いてくる高揚感に心臓が震え、頭の奥は冷たく冴えていく。
終わった後には、勝っても負けても爽快感と心地好い倦怠感が残る。
薄暗く狭い部屋を蛍光灯の白い光が照らす中、ユーシーはロッカーを開けた。中には、粗末なサンダルが入っているだけだ。背負っていたリュックを放り込み、トップスのTシャツと、スニーカー、靴下を脱いでロッカーにしまう。サングラスも外す。ハーフパンツだけの姿になって、リュックから出したオープンフィンガーグローブをつけ、マウスピースはポケットに突っ込んだ。最後にリュックからバスタオルを出し、肩に掛けるとホールを彷徨くためのサンダルを履いた。
試合は基本裸足だが、フロアに裸足で出るわけにもいかないのでサンダルを置いてあった。
ロッカーに鍵をかけると、ユーシーはバーカウンターに戻った。
「よお、ユーシー」
ドリンク係のウェンリーがカウンターで待ち受けていた。よく話をする、ユーシーと同じくらいの歳のスタッフだった。
「鍵、頼む」
「おう。ドリンクは?」
「終わったら貰う。あと、フライドチキン用意しといて」
「わかった。お前ほんと唐揚げ好きだよな」
「いいだろ、別に」
起きてからまだろくに食べていないユーシーは腹が減っていたが、試合前に食べるわけにはいかないので、食事はいつも試合後だった。
「はは、楽しみにしてるぜ。今日もお前に賭けてるんだ」
「頑張るよ。予選はどう?」
「まあ、誰が残るかな、って感じ。活きのいい奴はいるけど、お前のブロックは決勝行きはお前で決定だろうな。んで、向こうのブロックはハオランだな」
「へぇ」
「あいつ、今日は特別気合い入ってるからな。そんなことしなくても、順当にいけば負けねーだろうけど」
「ふうん」
めぼしい新人がいないのは残念だが、何度もやり合っているハオランと試合ができるのは楽しみだった。
話をしているうちに歓声が上がる。
「あいつとか、多分いい線行くんじゃないか?」
「へぇ」
ユーシーは視線をリングに向けた。
動きは荒削りだが、キレがある。同い年くらい、背丈はユーシーよりもある。場数を踏んで、鍛えれば強くなりそうだった。ただ、そんな選手は大体ここには残らず、どこかのジムに誘われて総合格闘技の選手になる。何人も見てきた。喜ばしいことだが、思い出して少し寂しい気分になる。
ウェンリーと話しているうちに、予選は進み、選手が出揃った。
ヘイティエ、ハオラン、他にも知った名前がトーナメント表に並ぶ。計八名でのトーナメント戦で、三戦勝利したら優勝だ。
「そろそろ行くよ」
「おう、頑張れよ」
手を振って、ユーシーは控室に向かう。
更衣室を抜け、控室に着く。
ベンチがいくつか置かれた控室は、そこから伸びる短い通路を抜けるとリングがある。
ベンチには試合待ちの選手がコールを待っていた。
客席からは歓声が聞こえる。今日も店は盛況のようだった。
通路の先から、ヘイティエのコールが聞こえ、ユーシーは足早にリングへと向かった。
試合は総合格闘技のルールに則って執り行われるが、総合格闘技のそれほど厳格ではない。
勿論反則もあるが、ユーシーにしてみればわざわざ反則をする必要もない。
リング上には、選手二人と判定を行うレフェリーが一人入る。
試合は五分三ラウンドの形式で行われる。勝敗が決まらなければ、判定に持ち込まれる。
先にリングに上がっていたのはユーシーと同じくらいの年齢の、見ない顔の選手だ。よく飛び込みの選手がいるので、彼もそれかもしれない。
かと言って手加減をするほど優しくはない。
ユーシーは挨拶を交わすと静かに拳を構えた。
初戦、二回戦とユーシーは難なく勝利を収め、やってきた決勝戦のリング。
「またお前かよ」
対角にいたのは、予想通りもう何度も対戦したことのあるハオランだった。パンチもキックも威力があるタイプだが、バランス良くなんでもこなす。歳はユーシーと同じくらいだが、しっかりとした体躯をしている。
「お手柔らかに」
ユーシーは笑ってみせる。
檻のようなケージの中、拳を軽くぶつけて挨拶して、ゴングが鳴れば試合の始まりだ。
軽快なステップを踏みながら、隙を窺う。一撃の威力ならハオランの方が上だった。
線の細いユーシーはどうしても威力では勝てない。
ユーシーにできるのは手数のある打撃と蹴り、関節技くらいだ。しなやかな脚から繰り出されるハイキックと、的確で柔軟な関節技で幾多の相手を沈めてきた。
打ち合いは、案の定ハオランが優勢だった。ユーシーはガードしてなんとか凌いで、キックからの相手を倒してグラウンドに持ち込む。
パンチを打ち込んできた腕を取って三角締めをするが、極まりきらない。
振り解かれ、ハオランのキレのいいパンチが頬を掠めた。
その後も打ち合いが続いたが、決着はつかなかった。
二ラウンド目はグラウンドを警戒して距離を取るハオランと、打撃メインの攻防が続いた。何発か食らい、ユーシーも何発か打ち込む。
渾身のハイキックはハオランの腕がしっかり受け止め、そこでラウンド終了が告げられた。
そして迎えた三ラウンド目。打撃の応酬から、ハイキックで隙をつくったユーシーはグラウンドに持ち込んで、ハオランの腕を掴み三角締めで締め上げる。
ユーシーの引き締まった脚が、ハオランを締め上げる。
ハオランの手が、ユーシーの脚を叩く。ギブアップの合図だった。
脚を解くと、ハオランが咳き込みながら倒れ込む。
「くっそ、油断した……」
「ハオ、大丈夫?」
「大丈夫。またやろうぜ」
短く言葉を交わして、拳を触れ合わせる。
ハオランはふらつきながら立ち上がるとリングを降りていった。
「勝者、ヘイティエ!」
勝者がコールされ、レフェリーがユーシーの左手を高く持ち上げた。
客席から起こる歓声が嵐のようだった。
ともだちにシェアしよう!