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第12話 真昼のひと

 瞼の向こうに感じる温かな薄明かりの中、目覚めに向かって意識が揺蕩う。まだ眠っていたいユーシーの目覚めを誘うように、大きな手のひらが優しく髪を撫でていく。飽きもせず何度も撫でる、温かな手のひら。それはゆったりと滑り降り、頬に触れた。  ユーシーは微睡から覚めきれないまま、心地好い温もりが頬の薄い皮膚を滑っていくのを感じていた。  この手のひらは優しく激しく、愛を注いでくれるのをユーシーは知っている。愛を教えてくれる温かな手のひらが堪らなく好きだった。 「ルイ?」  手のひらの持ち主の名前を呼ぶ。寝起きで、思ったよりふにゃふにゃした声になってしまう。  目を開けると、視界にはブラウンを基調にした天井が広がる。ルイの部屋の天井だった。 「おはよう、シャオユー」  甘い声とともに、端正な顔がユーシーを覗き込んだ。アイスブルーの瞳は自分だけを映している。鼻先が触れ合う距離で深い茶色の髪が頬をくすぐった。 「おはよ」  ルイの優しげな顔が見えるだけで安心する。ルイの柔らかな唇が額に触れて、意識がまた少し覚醒した。  カーテンは閉じられているが、それでもルイの姿も瞳の色もわかるくらいに、部屋はすっかり明るい。もう日はずいぶん高く昇っているようだった。 「良く眠れた?」 「うん……っあ!」  意識が急激に覚醒する。  また、中に出されたまま寝ていたのを思い出す。  限界まで快感を味わい、頑張って堪えるが、簡単にそれを越える快感を与えられて意識を飛ばしてしまう。早めに出しておこうと思うのに、目の前の快感にはいつだって勝てない。 「ルイ、おれ、中……」  意識に脳がついてきていないのか、うまく言葉が出てこないでいると、ルイは何もかもわかっているような笑みを湛え、ユーシーの頭を撫でた。 「後始末はしておいたよ。確かめる?」 「……ふ、ありがとう」  ユーシーが手を伸ばすと、ルイは何も言わずそれに応える。逞しい腕に抱き起こされ、向かい合ってその腕の中に閉じ込められる。布団から引き出された身体をルイの温もりが包む。  心地好さに、ユーシーの琥珀色の瞳が蕩けた。 「ルイ」  昨夜散々求めあったというのに、ユーシーの身体はもうルイを欲しがっていた。 「シャオユー」  ルイの鼻先が、ユーシーの鼻先を揶揄うように撫でる。鼻先が触れ合う距離で、涼やかなアイスブルーがとろりと揺れた。  ルイの張りのある唇が、頬に、瞼に、何度も触れる。  ユーシーはくすくすと笑いながら両手でルイの頬を包む。このまま放っておいたらルイはずっとキスをしていそうだった。 「くすぐったいって」  ルイを大人しくさせようと、ユーシーの薄い唇がルイの唇に噛み付いた。弾力を確かめるようにやんわりと歯を立て、唇が触れるか触れないかの距離で、ユーシーはその目に挑発的な光を湛えてルイのアイスブルーの瞳を覗き込む。 「なぁ、このままする?」  声にたっぷりと媚びるような音色を乗せ、ユーシーが首を傾げた。 「それでもいいけど、シャオユー、今日は僕とデートしてくれる?」 「デート?」  思わぬ言葉が聞こえて、ユーシーはそのまま訊き返した。肩透かしを食らった気分だった。 「食事をして、買い物して、一緒に街を歩いて、もっと君を知りたい。だめかな」  ルイは肌を合わせる時と同じように、丁寧にユーシーの肌を撫で、伺いを立てる。 「ルイ、仕事は?」  ユーシーの声には揶揄うような響きが含まれていた。ルイはおそらくビジネスマンだろう。何をしているかは知らないが、仕事はほったらかしでいいのか、ユーシーは少し心配になった。 「今日はオフなんだ」  本当か嘘かわからないが、笑うルイを見たらどうでもよくなってしまった。 「ならいいよ」  本当でも嘘でも構わなかった。まだこの男の温もりに触れていられるのが嬉しかった。 「本当? 嬉しいな」  鼻先に触れる唇の柔らかさに、ユーシーはくすぐったそうに笑った。  ルイが呼んでおいたタクシーに乗り込み、二人は街に出た。  珍しく、日差しがある日だった。午後になり日差しは少しだけ西に傾いたが、それでも太陽はまだ高い場所で街を見下ろしていた。  タクシーの車窓から流れていく街を眺める。  楽しげに歩く人々。笑い合う恋人たち。  昼間の街は、ユーシーのよく知る夜の街とは違う世界のように眩しかった。  タクシーが止まったのは、港近くの大きなショッピングモールの前だった。  外に出るなりじっとりとまとわりつく湿気にはもう慣れたが、明るい街にはどうも慣れない。サングラスがなければ倒れていたかもしれない。  ユーシーに続いて支払いを終えたルイがタクシーを降りる。 「行こうか」  ルイはぼんやりと立ち尽くしているユーシーの手を取る。呆けた顔でルイを見上げると、ルイはこともなげに微笑む。ユーシーは胸の辺りのくすぐったさを誤魔化すように、ルイの手を握った。  室内に入って、ようやくユーシーは一息つけた。  海外ブランドの店舗が並ぶショッピングモール。存在は知っていたが、入ったことは一度もなかった。 「初めてきた」  ルイに手を引かれがら、ユーシーがぽつりと漏らした。 「普段は、どこに行くの?」 「ん、市場が多いかな」  普段は食べ物や日用品を買いに市場へ出るくらいで、行く場所は大体決まっていた。 「服は?」 「あんまり」  ユーシーは自分で服を買ったことはほとんど無かった。着られれば何でもよかったし、服はジンやレイがくれたので不自由していなかった。冬は暖かい服が着られるし、夏もこまめに洗濯ができるくらいには服を持っていた。  ジンやレイが買ってくれたものを着ていたら褒められはするが貶されたりあれこれ言われることはほとんどなかったので、わざわざ服を買いに行こうという気持ちにはならなかった。 「じゃあ、僕にプレゼントさせて」  ルイが目をきらめかせた。声も心なしか弾んでいる。 「っ、おい、ルイ……!」  心なしか足取りの早まったルイに引っ張られるようにして、ユーシーはルイについていく。見上げた横顔は楽しげで、ルイの手のひらはしっかりとユーシーの手を握っていた。  ユーシーの手を引いて歩いていたルイが不意に足を止めた。 「ここ、見てもいい?」  辿り着いたのは、落ち着いた雰囲気の店だった。白と黒でまとめられた店内に、落ち着いた照明。スタッフの服装もモノトーンで統一されている。 「ん、いいよ」  ユーシーが短く返事をするとルイは手を引いたまま店へ入っていく。  ルイは店内のハンガーにかかった服を手に取った。黒字に白でダマスク柄の刺繍が入った透け感のあるチャイナシャツだった。指先で触れると、とろみと透け感のある素材は肌の上をサラリと滑る。撫でて心地好い手触りをしている。 「これ、シャオユーに似合うと思うんだ」  ルイが耳元で、ユーシーにだけ聞こえる一際低く甘い声で続けた。 「君のドレスと似てる」  心臓が跳ねた。服に描かれた植物と幾何学の模様は、確かにユーシーの全身に描かれた刺青と似ていた。  ユーシーが視線をルイに向けると、ルイは毒気のない顔でにっこりと笑った。  不意に、スタッフの声がした。 「試着なさいますか?」 「えぇ。そうだな、これに合わせて、この子に似合うのをお願いできますか」 「かしこまりました」  スタッフはルイから受け取った服に合わせ、店内からルーズなシルエットのハーフパンツに、レギンス、ごつめのブーツ。着せ替え人形のように、渡されるままに服を着る。  流行りものにさほど興味のないユーシーは、これでいいのかわからないまま、試着室のカーテンを開けた。 「これでいい?」  試着室を出ると、店員と共にルイが待っていた。 「よく似合ってる。素敵だよ。シャオユー」 「よくお似合いです」  二人がかりで褒められると、さすがに照れる。ユーシーは顔が熱くなるのがわかって、俯いた。 「……ありがとう」 「これ、お願いします」  着てきた服に着替え、服をスタッフに返す。  鏡を見て身なりを整えてから試着室から出ると、ルイが会計を済ませたようで、試着したもの一式を丁重に包まれて渡された。金額はいくらになったのか、わからない。  スタッフに見送られ、店を出る。  大きな紙袋はルイが持ってくれた。 「明日はこれで出掛けようか」  ルイの上機嫌な声が降ってくる。はしゃぐ子どものようでユーシーは思わず頬を緩めた。 「ふ、明日もデートすんの?」 「だめ?」  断られることなんて考えていなそうな甘い声に、ユーシーは目を細めた。 「いいよ」  ルイとの真昼のデートは、眩しくて擽ったかった。  ユーシーが見上げる度に、ルイはユーシーに視線を合わせてくれる。  ユーシーの手を、ルイは優しく引いて歩いた。  エスコートされ、まだ明るい街を歩くのは新鮮だった。  ルイはずっとユーシーの手を握っていた。温かな手は、しっかり握られて簡単に解けそうになかった。  安心する。 「疲れてない?」 「ん、大丈夫。ちょっと眩しいけど」 「少し休もうか」  ルイはすぐにカフェを見つけてくれた。  港に面したカフェは、海の匂いがした。  テーブル席に向かい合って座る。  ルイはアイスティー、ユーシーはアイスコーヒーを頼んだ。  席に着くと、ユーシーはルイの顔を見上げる。  視線に気付いたルイが笑って、ユーシーは曖昧に笑みを返した。  昼下がりのカフェは賑わっていた。  ぼんやりと店内を眺める。  たくさんの笑い声が、話し声が、流れてくる。ユーシーの知らない、普通の生活を送る人々。  楽しげに談笑する人々を眺め、ふと思った。  ここにいる人で、人を殺したことのある人間は何人いるだろうか。  売られたことのある人間は?  飢えと寒さに怯えたことのある人間は?  きっと、ここにはユーシーと同じ経歴を持つ人間はいない。  まともな生活をしているとも思っていない。自分のしている仕事が、普通じゃないこともわかっている。  ユーシーには、普通の人生などわからない。幸せな家庭の記憶は朧気で、過去の記憶は嫌なことばかりだった。  昔を思い出して胸が苦しくなった。  ルイは、おそらくユーシーのことを売春している少年くらいにしか思っていないだろう。あの日、銃でも持っていたら違ったのかもしれないが、もうどうにもならない。  何人もの命を奪って生きてきたユーシーを、ルイはどう思うのか。本当のことを知ったら、どんな反応をするのか、怖くなった。  どくんどくんと心臓が騒ぎ立てる。  ユーシーには家族はいない。マフィアに育てられ、殺し屋をして生きてきた。ルイに出会う直前も、人を殺した。  騒ぎ立てる心臓を落ち着けようと、深く息を吐く。  そんなこと、言えるわけがない。  ルイはいつも笑っている。  その笑みが消えたらと思うと、胸の辺りを、冷たい風が吹き抜けていった気がした。  もう、ルイに愛される快感を知らなかった頃には戻れない。  なのに、きっと自分ではダメだ。本当のことを知ったら、ルイは離れていく。そんなこと、最初からわかっていたはずなのに。  離れる気でいたのに、いつのまにかルイの懐の随分深くまで迷い込んでしまったような気がする。  アイスコーヒーを一口飲んだきり、グラスに手を添えたまま、ユーシーは黙り込み、視線を落とした。  テーブルの上、ガラスから垂れ落ちた雫が紙のコースターに暗い色の染みを作っていく。  アイスコーヒーの苦味はとうに消えているはずなのに。ずっと苦々しい気持ちが喉の辺りにわだかまっている。  苦しい。  こんな気持ちになるのは初めてだった。 「シャオユー?」  黙り込み俯いたユーシーを、ルイが覗き込む。 「少し、疲れた」  曇ったアイスブルーが見えて、ユーシーは無理やり笑って見せた。 「たくさん歩いたもんね。帰ろうか」  結露したグラスに触れて濡れた指先を、ルイが優しく握った。冷えた指先を包むその手は、泣きたくなるくらい温かかった。  カフェから真っ直ぐホテルに戻り、汗の滲んだ身体を清め、ユーシーはベッドに倒れ込んだ。清められた身体を柔らかく受け止めるシーツに頬擦りをする。清潔な、石鹸の匂いがする。 「今日はありがとう。お疲れ様」  ベッドに寝そべって、ユーシーはルイを見上げた。昼の街を一緒歩いて、思ったことがあった。 「ルイ、俺でいいの?」  街には見目麗しい同年代の若者が何人もいた。目抜き通りを歩き、楽しげにショッピングをする恋人たちもたくさん見かけた。すれ違う横顔は楽しげで、日差しのように煌めいていた。  普段見ることのない世界は、信じられないくらい眩しかった。  決して彼らのように生きられない自分が、ルイに求められてもいいのか、ふと不安になった。  街には、きっと自分よりもルイに相応しい人間がいるのではないか。そう思わずにはいられなかった。  陽射しの溢れる眩い通りを歩くルイの隣には、夜の街しか知らない自分は相応しくないと思った。  そんなユーシーの胸の内など知らないルイは、きょとんとした顔でユーシーを見た。 「どうしたの、急に」  仔犬のような顔をするルイがなんだか癪に触って、ユーシーは枕に顔を押し付け、呻くように言った。 「俺よりかわいい子なんて、たくさんいるだろ」 「そうかな」  ルイの返答はあっさりとしたものだった。 「いっぱいいた」  ちらりとルイを見上げると、ルイは優しく顔をしていた。 「僕は見つけられなかったな」  ルイはユーシーの頭を撫でた。それだけでユーシーの胸には温かいものが滲む。 「いたとしても、シャオユーは僕の手でこんなに甘く蕩けてくれるのに、他の誰かなんて好きになれるわけないよ」  ルイの涼しげなアイスブルーの瞳が甘く蕩け、自分だけを映している。  心臓がぎゅっと締め付けられる。  苦しい。  そんなことを知られたくなくて、ユーシーは無理矢理笑みをつくる。 「……ルイって、バカなの?」 「そうだよ。知らなかった?」 「知らなかった。もっと頭良くてかっこいいと思ってた」 「ふふ、買い被りすぎだよ」  ルイの唇がこめかみに触れた。  こんな、馬鹿みたいに降ってくるキスも、甘い声も、失うのが惜しいと思う。  初めてのことに、ユーシーは戸惑っていた。  ジンやレイ以外に、こんな感情を抱いたことなんてなかった。  突然自分の世界に飛び込んできたルイに、こんなにのめり込むなんて思いもしなかった。 「俺、夜の街しか知らねーもん。昼の街は苦手だし、ルイには相応しくないって。かわいい子だって沢山いる。俺じゃ、無理だよ」  ユーシーは枕に顔を押し付けた。泣きそうだった。  甘く愛されるのが嬉しくて、怖い。嫌われるのが怖い。本当のことを言うのが怖い。  いつからこんなに臆病になったのだろう。  自分ばかりこんな気持ちになっているみたいで悔しかった。 「シャオユー、そんなこと言わないで」  ルイは突っ伏したままのユーシーの髪を撫でる。 「僕に相応しいかどうかは僕が決めるよ。だから、シャオユーは安心して僕に愛されて」  ユーシーは黙ったまま、ルイの声に耳を傾けた。 「昼の街は、眩しかったね」  ルイの声は、子どもに絵本でも読み聞かせているような穏やかさだった。 「君が、裏通りに溶けていなくなりそうで、夜の街に連れ出すのはちょっと怖いんだ」 「俺はお化けじゃねーよ」 「ふふ、そうだね。君はかわいいだけじゃない。強くて、しなやかで、素敵な人だよ。シャオユー」  青空を銀で薄めたようなルイの瞳。  いつか見た、遠くて手の届かない、冬の空の色だ。 「ルイの目、綺麗だな」 「君のアンバーみたいな瞳も綺麗だよ、シャオユー」  ユーシーは少しだけ頬を緩めた。  瞼が重い。視界が狭くなっても、見えるのは美しい青だ。  たくさん歩いた上、色々考えたせいで、疲れた。  意識は簡単に溶け出していく。 「おやすみ、シャオユー」  優しく髪を撫でる手を、ユーシーは知らない。

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