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4.流れてくれない過去の話

 脱衣場に入り、寛明は着ていた上着のボタンを一つずつ外していく。服の下からは傷一つない玉のような肌が現れ、寒さに凍えることはなく淡々と脱いでいけば無造作に投げ捨てる。決して安くはないブランドの服は皺のまま床に放置される。寛明は気にかけていない様子だったが、後ろ髪を引かれたのか、せめてもと備え付けの棚の上に載せた。 『物は大事にしなければダメだろう、ヒロ』  脳裏によぎる甘い声色を振り払おうと大きく首を横に振る。風呂場は清潔に保たれ、静かだった。ジェットバスだが、お湯はもちろん溜まっていなかった。シャワーを浴び、体を洗う間に溜めておこうとスイッチを入れる。  シャワーの蛇口をひねり、ヘッドから出る温度を確認する。冷えた手先が、徐々に温まっていくのを感じる。 (忘れなきゃ……先生のこと)  ごぽごぽと音を立てながら出てくるお湯をかき消し、シャワーから出るお湯は寛明の体を濡らしていく。頭からかぶれるよう、ヘッドをフックにかける。頬に湯の暖かさが伝う。 足元を見れば、否が応でも、この場所で何度も体を重ねた彼のことを思い出す。 寛明の左手が無意識に自身の胸元へと伸びる。以前に触れられたような優しい熱はなく、未だ温まらない自身の手は芯から冷えていた。 (何やってんだろ、俺。自棄(やけ)にでもなってる?)  終電の時間が近づいているのは分かっていた。最悪歩けば十五分ほどの場所にある漫画喫茶かカラオケにでも泊まればいいはずだった。だが、目が合った男と共に歩いた先は、なじみ深いラブホテルだった。 (先生に見られているわけないのに)  深夜帯は誰も出歩いておらず、ここまで来るまでにもすれ違うのはわずかな車だけだった。通りは誰も歩いておらず、終電の電車で降りた客は、送迎だったのだろう。だが、この時間であれば、寛明が先生と呼ぶ男が出歩いているかもしれないという、一縷(いちる)の望みにかけていた。 (見つかったところで、先生が気にすることなんてない……。わかってんだろ)  寛明の脳裏には、失恋をしたあの日――ほんの数日前の苦い記憶がよみがえる。 ***  高校時代の後輩の卒業を祝おうと、母校に顔を出したその日は、先に集まっていたOBや卒業生と、先生が談笑をしていた。土産を手に、輪に入ろうと教室のドアを開けようとした時、思いがけない言葉が耳に入った。 「仁井野(にいの)先生って、播谷先輩と付き合ってたってマジっすか?」  後輩の一声に、手が止まった。まだ寛明が来ていなかったがゆえに話題に上がったのだろう。もちろん、バレるような真似はした覚えはない。学校では事務的なことしか話したことなく、外で会う時も、人目に触れないような時間などを狙って移動していたはずだ。また見られてもいいよう、寛明がウイッグをつけるなどの変装をしたこともあった。 「おや、どこからそんな話が?」  仁井野は意外そうな言葉選びをしているが、その実大して驚いていなさそうだった。 「先輩から教えてもらったんですよ。ねー中村先輩」 「ばか、出どこ言うんじゃねぇよ」  後輩の言った中村は、寛明と同級生の男だ。仁井野とも仲が良く、授業が終わった後談笑をしている姿を何度も見かけていた。 「で、で、どうなんですか?」  中村の苦情を聞き流し、後輩は仁井野に詰め寄っているのだろう。椅子がガタガタと動く音がする。 「……付き合っていた」 「まじかー!先生やるー!」  仁井野の言葉に、寛明は少しだけ安堵した。卒業をしているのだから、特段問題になることはないのだ。一年の頃から仁井野に憧れていた寛明の感情は、いつしか恋心へと変わり、三年に上がる前に告白をした。仁井野は快諾し、秘密の関係になっていった。それからというもの、デートや体を重ねることもありながらも、仁井野から愛の言葉を聞くことはなかった。それゆえに、寛明から告白したのも相まって仁井野の気持ちがわかりづらかったのだ。 「こらこら、ちゃんと最後まで聞いてくれるかな」  仁井野にはその先の話があるようで、どよめきが起きていた教室は急に静まり返る。入るタイミングを逃し、寛明はドア越しにその言葉を聞いた。 「付き合っていた、といえば聞こえはいいが。私にとっては遊びだよ」  「冷てーな先生」などと教室内で巻き起こる嘲笑と言葉は、寛明には聞こえなかった。瞳は瞬きを忘れ、息が止まるような苦しさを覚えた。早まる胸の鼓動と、仁井野が続ける告白だけが、寛明の耳に入っていく。 「なまじ顔がいいだろう、あいつ。それで私のことが好きだって言ってきたんだ。悪い気はしないさ」  息が詰まる。声が漏れているかもしれない。それでも、手は一向にドアを開けようとはしなかった。息を整えようと深呼吸すれば、ようやっと、他の生徒の声も聞こえ始める。 「でも男でしょ?」 「まぁ、最初は驚いたけど。でも、暇つぶしにはなるかなって思ったら。案外あっちの『相性』もいいんだな、これが。惚れた弱みで言うことは聞いてくれるし、素直というか従順?」 「あのノリ悪い播谷がって俺らも思ったんだけど、見せてもらったやつめっちゃ喘いでんの!」 「え、動画あるんですか?」 「学校では流せないから、後でな」  湧き上がる後輩たちの声色に、からかい始める同級生の笑いに、そして何より、そのすべてを許容している仁井野に、吐き気がした。鈍器で殴られたような鈍い頭痛と早まる呼吸は、寛明をその場から逃避させるため走らせた。廊下には速足で駆ける音が響くが、締め切った教室にいた彼らは自分たちの声で聞こえなかった。  翌日、仁井野から呼び出された寛明は、目線を合わせることができなかった。集まりに来なかった理由を問われれば、急用ができたとごまかした。 「嘘だね、ヒロ。目を合わせて」 「…………」 「後輩のこと、可愛がっていたじゃないか」 「……ごめんなさい。来る途中で、気分が悪くなって」  事実だったこともあり、ようやっと仁井野の目を見ることができた。変わることなく、仁井野はまっすぐに寛明の目を見た。 「……分かった。それなら仕方ないね。今日は大丈夫?」  心配そうに見てくる仁井野の視線が痛く、思わず目をそらした。 「今日も体調悪いようなら、連絡した時にそう言ってくれればよかったのに」 「…………」  教室で話していたことを「聞こえた」と言えば、きっとこの関係は終わるだろう。いや、むしろ終わらせてもいいかもしれない。そんなことが頭の中を行ったり来たりしていた。 その後は解散となったが、以降寛明は仁井野からの連絡にも反応できずにいた。どこかで仁井野のことを信じたい自分がいたのだ。しかし寛明の気持ちを踏みにじるように、連絡先を知っている同級生や後輩からは、仁井野の話を聞いたからか、体の関係を匂わせるメッセージが送られ続けていた。  そして、仁井野本人から、最近連絡がなかったことを責めるメッセージと共に「恋人ができたから、別れよう」と連絡が来たのが、昨日のことだった。 ***  無意識のまま、湯船につかっていた寛明の目を覚ましたのは、なかなか上がってこない寛明を心配して声をかけてきた聡生の一声があってからだった。 「寛明君、大丈夫かい?……いや、長風呂派だったらすまない。ただ少し長く感じてしまって」  実際寛明が時計を見れば、入り始めてから一時間が経ちそうであった。滑らないように気を付けながら、湯船から出て脱衣場へ戻る。脱衣場に入っていた聡生とばったり出くわした時、なぜか寛明の裸を見て顔を真っ赤にさせていた。 「男の体じゃん……」 「そ、そうだけれど……!急に上がってくるから……!」  ヒートショックに気を付けてねと言いタオルを差し出されば、寛明は素直に礼を言い受け取った。 「着替えたら戻っておいで。ポットがあったからお湯を沸かしたんだ。今からカフェインを取るわけにはいかないから、白湯を飲んで眠ろう」  何から何まで、寛明の斜め上の行動をしてくる。目を丸くしていれば、早く着替えてねと念押しされた。特にケアなどをすることなく、髪を乾かし、ベッドのある部屋まで戻った。 (……ほんと、何してるんだろ)  “誰でもいい”わけじゃないのだと、声高に言いたい相手はここには誰もいないのに。  “誰でもいい”わけじゃなかったのだと、変わりかけている自分に言い聞かせて。

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