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6.少しだけ穏やかな朝

 聡生が目を覚ましたのは、朝日ではなく美味しそうな朝食の香りだった。すでに寛明は起きていたようで、彼がホテルを出て買ったものだろうか。起き上がろうとしたら、予想以上に重さを感じ、見えたものに驚いた。自身がかけたコート以外にベッドから持って来られた掛布団がかけられていた。 「おはようございます」  すでに着替えていた寛明が、焼きおにぎりが乗っていた皿を持って挨拶をしてきた。 「お、おはよう……。コンビニで買ってきたのかい?」 「モーニング頼んだんで」 聡生はさらに驚いた。ラブホテルで朝食が出るとは思わなかったのだ。呆けている聡生をよそに、寛明は持っていた皿をテーブルに置き、聡生のほうを向く。 「食べられます?」 「あ、ああ……。ありがとう。いただきます」  新しく沸騰されていたポットを持ち、寛明はコップにお湯を注いでいく。お湯の色合いから緑茶であることがわかる。 「すごいね、モーニングなんてあるんだ」 「洋食定食もあるんですけど、朝食べない人も多いみたいだし。俺も先生と来たときはこれだったから、どんな内容か詳しくなくて」  淡々と話している割に、目線は合わせようとしなかったのが気にかかる。最近振られたのなら、話題に出すことさえつらいだろう。 「……そうなんだ」  それ以上の追及はできず、聡生は焼きおにぎりを手に取り頬張る。しっかりと中まで暖かく、しょうゆの香ばしさも相まっておいしく感じられた。聡生が食べ始めたのを見て、寛明もようやっと腰を下ろし、コップに口をつけた。 「あ、そうだ。布団ありがとう。かけてくれて」 「さすがに寒そうだったんで。……ありがとうございます」 「ん?」  聡生が首を傾げれば、少しだけ寛明の眉が寄ったのが見える。何か不機嫌にさせてしまったのかと、聡生は焦り始める。 「ベッドも貸してくれたし、昨日、いろいろ……」  口ごもりながらも、寛明は一瞬聡生の方を見る。未だ首をかしげている聡生を見て、少しだけほほが赤くなっていた。すぐに視線をそらし、焼きおにぎりにかじりつく。 「迷惑かけたなって」 「何も気にしてないさ。僕も取り乱しちゃったしね」  昨日の慌てぶりとは違い、休みだからか心に余裕があるのだろう。聡生は時折笑みをこぼしながら話し続ける。 「一人で家に帰っていたら、鬱々した気持ちで眠っていただろうからね。助かったよ」 「……仕事、大変なんですね」 「うーん。僕より忙しそうにしている人もいるからさ。はは……」  大手の会社であればなおのこと、多くの人間が働いている。その中には家庭を持つ者も多く、家事や育児などをしながら会社で働く人たちは人一倍気を使ったりすることもあるだろう。 「一人暮らしは気楽だけど、誰もいないってわかっている部屋に帰るのも、つまらなくてね」  親元から離れ十年は経つが、慣れないものもあるのだと聡生は乾いた笑いを漏らす。寛明はそれを聞きながら、ずっと黙っていた。 「……恋人、とかは」  言いづらそうに言葉を詰まらせた、寛明の心遣いに感心しながら、聡生は横に首を振った。 「いないよ。生まれてこの方。……いやあ、こればかりは縁だから」  ラブホテルを使わないカップルもいるだろうが、恋人すらいたことがないというのには、寛明は驚かされた。 「……すいません」 「ん? 寛明くんが謝ることはないよ。親とかには心配もされるけれど、縁あってのこと。急くことはないよ」  仕事は安定しているが、昨日異動を仄めかされた身としては、そう簡単に恋人を作ろうと考える余裕はない。日頃の忙しさからも、街コンなどに行く余裕はなかった。 「恋人を作ったところで、ちゃんと向き合えるかどうか分からない。中途半端なことはしたくないんだ」  焼きおにぎりの最後の一口を食べ終わったところで、コップに注がれた緑茶を飲み干した。聡生の口元には満足感から笑みが浮かんでいるが、寛明は対照的に表情が曇り俯く。 「……誠実な方なんですね」 「僕が? あ、ありがとう……。そう言われるのは、うれしいよ」  聡生の声色が明るくなり、言われ慣れていないのか照れた様子を見せる。 「寛明くんも、ちゃんとお礼も言えるし、気遣いもできる。優しい人だと思うよ」  俯いていた寛明の顔が、驚きの表情と共に上がってくる。意外そうにしている寛明に、聡生も驚いた。 「え、そうだろう? あ、むしろ僕が気を使わせているかな……!」 「そんなことは……」  言葉を詰まらせ、寛明は口を閉ざす。思い当たる節があるわけではなさそうだが、それ以上彼の口から続く言葉は出なかった。重い沈黙に耐えきれず、聡生が切り出す。 「そ、そうだ!これも何かの縁だ。何かあったら連絡してくれ。……なんだか、怪しいかな」  カバンからスマートフォンを取り出せば、聡生はメッセージアプリの画面を立ち上げる。操作をしながら、寛明の「ありがとうございます」という、少し小さな声が頭上に降ってきた。それと同時に、寛明もスマートフォンを取り出す動作が、視界の端に映る。スマートフォンを操作する寛明の表情は芳しくなく、険しい表情を浮かべている。唇を噛み締め、タップする動作もどこか荒々しい。 「大丈夫かい……?」  聡生の問いかけにも、寛明は気づいていないようだ。寛明の画面に映っている通知はすべて、仁井野との関係を知り、『自分とも相手をしてくれ』や仁井野からもらっただろうデータを送りつけてきているなど、からかい半分で連絡を続けてくる同級生や後輩たちだった。その中に、仁井野本人のものは一切ない。寛明がスマートフォンをしまおうとした時、不意に視界に映った聡生を見て、本来の目的を思い出した。 「あ……、連絡先」 「ごめんね、急に言い出して。……大丈夫かい」 「大丈夫です。本当に」  短くつぶやき、自身のアカウントを教える。聡生がIDで検索をすれば、梅の花が美しい写真のアイコンに『ヒロ』とだけ書かれたハンドルネームが表示された。 「わぁ、綺麗な梅だね。……これ、盛山公園かい?」  北の方にある梅の名所として名高い公園の名を挙げれば、寛明はコクリとうなずいた。 「……高校に入る前に撮った写真です。両親と、行ったときに」 「親御さんと行ったんだね。綺麗に良く撮れている。機材は?」 「え、スマホです、けど……」 「すごいね、スマホでもこんな綺麗に撮れるんだ……」  まじまじとアイコンの画像を見ていれば、友達登録をしていないことに気づき、慌てて申請をする。短い文章を送れば、寛明のスマートフォンから通知音が聞こえる。確認したのだろう、寛明からも返信が届く。 「ごめんね、つい仕事柄、映りを気にしてしまったよ」 「……お仕事、カメラマンなんですか?」 「いや、僕は営業さ。いくつかの写真館を運営している総まとめの会社でね。結婚式とか、会社のパンフレットとかいろいろ。……これで登録できた、んだよね?」 「はい。大丈夫です。……へへっ」  寛明の口から笑い声が漏れたことに、聡生は驚き、どうしたのと尋ねてみる。 「連絡、来るのがうれしいって思ったの、久々で」  寛明の表情は先程と打って変わり、頬が緩むほどに笑みを浮かべ、目尻も下がっている。それほどまでに喜ばしいことならばと、聡生も胸をなでおろす。半面、先ほどの連絡は全て『うれしくないもの』であったことが聡生にも分かってしまった。言及するつもりはないが、別れた『先生』からの連絡ではないことを願うばかりだ。 (……そういえば、朝からなんでか敬語だな。寛明君は気づいていないけれど)  元々は敬語で話す子なのかもしれないと、聡生はあえて口にはしなかった。寛明は変わらず、まだ二言しか載っていない、聡生とのメッセージ画面を楽しそうに眺めていた。その表情を、柔らかく可愛らしいと思い、聡生はとっさに口元を抑える。 (いやいやいや、男の子に対して可愛いは……いや、今はそういうのよくない時代だ。でも、この感情はなんだ!?)  自然と瞬きが多くなり、聡生は視線をスマートフォンに戻す。時刻はすでに8時を回っていて、土曜の朝ではあるが電車も人も動き出す時間帯だ。思い出したように、聡生は話を切り出した。 「そうだ、チェックアウトって何時だい?」 「俺たちが入ったのが日付越えてからなんで……昼に出れば問題ないですよ」 「そんな長く居られるのか……」 「……そろそろ、帰ります?」  寛明の声は小さく、少しだけ寂しさが混じっているように聞こえた。当初は一人で寂しいからと聡生を呼び止めたのだから、名残惜しさがあるのだろう。聡生もそのことを思い出し、即答はできなかった。 「うーん、その、先生が荷物を持っていくときに君はいなくてもいいのかい?」 「先生は鍵も持っているし、別に」 「そうか……。鉢合わせると寛明君もつらいよね。そうだ、焼きおにぎりだけで朝食は足りるかい? チェックアウトしたら、喫茶店でモーニングを食べようか。……お金は降ろしてくるし」  どこまでも自分に優しい男だと、寛明はちくりと胸が痛む思いを感じた。いつまでも、甘えるわけにはいかないと首を横に振った。 「十分、おなかいっぱいです」 「そうかい?」  首をかしげる聡生に、寛明は頷いて返した。実際腹はまだ膨れていないが、聡生から受ける行為に、胸の方がいっぱいだった。 「俺、帰ります。朝早く、先生も来ないだろうし。……服、昨日のままなんで」 「ああ、そういえば僕もシャツを洗わないと……」  いうや否や、二人は帰り支度を整え、部屋のドアノブに手をかける。チェックアウトの際に支払うシステムで、クレジットを取り出そうと聡生が動き出す前に、寛明が先に現金で支払いを済ませてしまった。 「クレジット、使えたのに」 「俺が連れてきたんで、ちゃんと払いますよ」 「うう……年上形無しだな……ありがとう……」  財布を片手に項垂れる聡生を、寛明は口元に笑みを浮かべながら見上げていた。

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