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第3話 白瀬

橋を渡ると学区が違う。同じ町に住んでいるのに、小さな頃は川の向こう側はなんとなく遠い場所に思えていた。 そんな川の向こう側にある運動公園で、週一回のテニススクールが始まると教えられたのは小学五年の春。先生は父親の友人だった。そんな繋がりのせいで、特に興味があったわけではないのに半ば強制的にテニススクールに入れられた。 あまり乗り気ではなかったものの、行ってみると同じ年の生徒が数人いた。全員橋を渡った地区に住んでいるので小学校は違う。しかし人見知りのない白瀬はすぐに仲良くなった。 同じ年頃の人間がいればテニススクールも楽しいものだ。先生も知り合いだし遊び半分の気持ちで週に一回通っていた。 スクールが始まって2ヶ月ほどたった頃、レッスン中に友人の一人が「あっ!」と声を上げた。 それから「おーい!」と大きな声で運動公園の外側に手を振る。 白瀬がそちらを見ると二人の少年が歩いていた。一人は自転車に乗り、一人は歩きだ。 声をかけられた少年達もこちらに気がつくと大きく手を振る。 「おー!習い事ー??」 徒歩の少年が大きな声で聞いてきた。 「そうー!!お前らどこ行くのー?」 友人が答える。 「今からがんちゃんのところー!ゲーム!」 今度は自転車の少年が叫んだ。 「いいなぁー!今度誘えよー!」 「おー!じゃぁなー!」 そう言うと二人は再び手を振り行ってしまった。 「今のクラスメイト!」 友人がラケットをプラプラとさせながら言った。 「藤野のやつさ、あっ、自転車乗ってなかった方のやつね。あいつ、自転車に乗れないんだって」 「へー、珍しいなぁ。ここら辺みんな乗ってんのに」 「だろ?でもさ、どっか行く時自転車の方が早いじゃん?だからうちの使わなくなったやつやるから練習しようって言ったらさ、乗るのがこわいとか言ってて。なにが怖いんだろうなぁ?」 「バランス取るのが難しいとか?めっちゃ運動音痴とか?!」 白瀬もラケットをクルクルとさせながら答えた。 「そうなんかなぁ。俺、3歳から乗れてたらしいから乗れない感じ忘れたわー」 友人がそう言ったところでホイッスルが鳴る。 集合の合図だ。皆先生の近くに集まって歩きだした。 白瀬はふと先ほどの少年達が歩いて行った方に目をやる。そして、確かに自分も自転車に乗れなかった頃のことなど思い出せないな、などと考えながら先生の元へと向かった。 それからも時々、テニススクールに行く道すがら自転車の少年と徒歩の少年が歩いている姿を見かけた。顔を覚えていたわけでない。ただなんとなく、一人が自転車で一人が歩きというのは珍しいなと思い目についたのだ。 そうやって『自転車に乗れない少年』の存在を認識して一年が経った頃、テニススクールの友人が言った。 「そういやさ、友達の親がさ、再婚したんだって!」 「再婚?」 白瀬は唐突な話に首を傾げる。 「そう。しかもできちゃった婚?とか言ってさぁ〜。うちの母親が騒いでた!」 「へー・・『複雑な家庭の子』ってやつ?」 「あー。どうだろ?もともとお母さんが小さい頃からいなくてお父さんと二人暮らしって言ってたけどなぁ。別に本人気にしてなさそうにケロッとしてたし!」 「ふーん」 白瀬は知らない人間の噂話にあまり興味を持てず軽く聞き流す。 「あっ、ほら!前に話した自転車乗れない藤野!あいつだよ、覚えてる?」 「あぁ・・」 白瀬はぼんやりと顔を思い出した。何回か見かけているうちに顔を覚えたのだ。 しかしいつも見る時はにこにこと笑っている。確かに複雑な家庭の子という雰囲気はない。 まぁ、別に知らない奴だしな・・ 白瀬はとくに気に留めることもなくその話題を流すと、テニスの練習を始めた。 それから、そんな話を聞いたことなどすっかり忘れた秋の初め、友人の家で夢中で遊び帰るのが遅くなった白瀬に母親が開口一番に言った。 「もう!こんな時間までなにやってたの?!さっきの子を見習ってほしいわ本当!」 家に入るなり急に怒られ白瀬は眉を顰める。 「なんだよ!?確かに遅くなったけど夕飯には間に合ったじゃん!」 「なに言ってんの!ちょうど夕飯の時間よ!こんな時間まで遊んで!宿題も終わってないでしょ!」 母はプンプンと怒りながら食卓に夕飯を並べていく。 「今日ね!あんたくらいの子が夕方一人で買い物に来たのよ!何買って行ったと思う?!オムツよ!オムツ!それも2パックも!」 「おむつー?」 白瀬は手を洗いながら聞き返す。 「そう!赤ちゃんが生まれたからお使いにきたんですって。どれを買っていいか迷ってたから声かけたのよ。えらいわよねぇ。それでお会計してる時「もう宿題は終わったの?」って聞いたら「終わりました!」って。宿題してお使いもして、本当あんたも見習ってほしいわ!」 「はぁー?そんなんそいつの家の都合じゃーん。俺ん家には赤ちゃんいませーん。うるさい兄貴しかいませーん」 白瀬がおちゃらけて言うと母はハァとため息をついた。 「まったく、あんたと同じ年くらいだったけどえらい違いねぇ・・」 白瀬はフンと鼻を鳴らすとさっさと食卓に座った。 兄はまだ帰って来ていない。この夏から塾に通い始めたのだ。どうやら来年東京の大学の受験を考えているらしい。 うるさい兄がいないのはこちらとしては願ったりだ。 白瀬は「いただきまーす」と手を合わせると勢いよく目の前の食事を掻き込み始めた。 自分だってやるべきことをやっている。宿題だってこの後やるつもりだ。 いきなり知らない人間と比べられても面白くない。 けれど自分と同じ年くらいか。同級生で赤ちゃんが産まれたなんて話は聞いていない。誰のことだろう? しかしそんな疑問はすぐに解消された。 川原で友人達と遊んでいる時、オムツを抱えて橋を歩く『自転車に乗れない少年』を見かけたのだ。 そう言えば、親ができちゃった婚で再婚したとか言ってたな・・ 白瀬は友人の話を思い出した。 あぁ、そうか。母親が言っていたのは彼のことだったのか。名前はたしか・・ 「あぁ、藤野ね!」 テニススクールでその話をしたところ、友人はコクコクと大きく頷いた。 「そうそう!あいつんち赤ちゃん産まれたとかでさ、急に付き合い悪くなったんだよー!家の手伝いをしなくちゃいけないとか言ってさ」 「へー。やっぱり真面目な感じのやつなの?」 白瀬は素振りの練習をしながら聞く。 「あぁ〜、まぁいい子ちゃんって感じ。悪口言いませんみたいなさ。先生の愚痴ぐらい言ったっていいだろって思うけどさぁ〜。あいつそういうのにもノってこないんだよな」 「ふーん・・」 「あとだいたい笑ってる。いっつもケロッとした顔してるから何考えてんのか時々わかんねーかも」 「それは・・長所じゃね?いつでも笑ってられるなんて尊敬するわ」 白瀬はそう言うと自分も作り笑顔をしてみる。 いつでも笑ってる、か。 あの時、橋を歩いている『藤野』は・・暗く見えたけどな。 その印象の違いが気になり、白瀬は世南が歩いている姿を見かけると、ジッと観察するようになった。 世南のお使いは学校から帰って夕方までが多い。 友人とすぐに遊びに行く白瀬は店で遭遇することはなかったが、遊んだ帰り道や途中で見かけることは多々あった。 こちらが勝手に意識して見ているだけなので世南は気づいていない。 一人で一生懸命買い物袋を持って歩く背中はどこか沈んでいくみたいに丸まって見え、白瀬は頼りなさを感じた。 声をかけてみたい。けれど急に話しかけられても変に思われるよな・・ もう少しで中学生になる。そしたらきっと同じ学校だ。もしかしたら同じクラスになれるかもしれない。 そしたら、話しかけてみよう。 ーー 「康成ー!あんた何組?」 チラチラと散る桜の向こうから母親が聞いてきた。 白瀬は校門に立っていた先生からクラス表を受け取ると、すぐにそれに目を通す。 (ふ、藤野・・藤野) 無意識に自分の名前より先に『藤野』という名前を探していた。 そしてそれはすぐに1組で見つかった。 『藤野世南』 世南?せなって読むのか? 初めて知るフルネームに心が躍る。 しかしその後改めて1組の欄を見るが自分の名前が見つからない。 隣の2組の表を上から見ていくと『白瀬康成』の名前が目に入った。 2クラスしかないのに同じクラスになれないなんて・・ 白瀬はハァとため息を吐く。その時後ろからドンと強く背中を叩かれた。 「白瀬ー!おはよ!同じクラスだったなぁ!」 「はよ!えっ!白瀬2組?」 「私1組だったー、いいなぁ〜」 同じ小学校の友人達が白瀬の周りに集まってくる。白瀬は気を取りなおすと大きな声で「よう!みんな制服かっけーじゃーん!」と笑顔で応えた。 同じクラスになれなかったのは仕方がない。けれど今日から同じ学校の生徒だ。会う機会は増えるだろう。 そんなことを思っているとちょうど向こう側から世南が歩いてくるのが見えた。 父親と二人だ。 しかし・・二人ともおめでたい日といった表情ではない。とくに世南の方は浮かない顔つきで下を向いている。 二人は少しだけ話をすると、校門の所で一枚写真を撮り、それから世南の父親は急足で帰っていってしまった。 その様子を白瀬が少し離れた所で見ていると、一人残された世南のところに同じ小学校と思われる友人が近づいてきて言った。 「あれ?藤野1人?」 「うん、妹熱出ちゃったからさ。仕方ない!」 世南は先ほどの浮かない顔とは正反対の明るい笑顔で答える。 熱?だから父親も慌てて戻っていったのか・・? けど、せめて式だけでも出てあげればいいのに・・ 白瀬はそんなことを思いながら横顔の世南を見つめた。 「おい!白瀬!教室行こうぜ!」 「あ、うん」 友人に声をかけられ白瀬はチラチラと世南の方を振り返りながら校舎へと入っていく。 どこか寂しそうな笑顔に後ろ髪を引かれる思いがした。 今度、声をかけてみよう。隣のクラスでも友達になれるはずだ。 そう思ってはみたものの、話しかけられないまま時間はどんどん過ぎていった。 意識してしまうとうまい言葉が見つからない。 人見知りは全くしない白瀬だが世南に対しては違った。 急に話しかけたら変に思われるのではないかと、自分がどう思われるか気にしてしまう。 そんなことは初めてだった。 そうこうしている間に、千載一遇のチャンスがきた。 入学して約一ヶ月。ゴールデンウィークも明けて部活動も本格的に始まった頃。 家に帰るとシトシトと降り始めた雨が、世南を足止めしてくれていたのだ。 自分の家の前で、大荷物を持ってぼんやり空を見上げる世南の姿を見つけ心臓が速くなる。 しかしそれを悟られないように、白瀬はゆっくりと言葉を選んで話しかけた。 あくまで自然に。それでも確実に、世南の記憶に残るようにと。 ーーー 「白瀬は、なんでこの高校にしたの?」 校門をちょうど出たあたりで、世南がチラリと白瀬を見て聞いた。 「え?」 何から話そうか考えていた白瀬は突然の質問に答えられず気の抜けた声を出す。しかし世南は気にせず話を続けた。 「だって、白瀬中学の時部活頑張ってたじゃん?高校はもっとテニス部強いところいくのかと思った」 「あ・・あぁ〜まぁ。でもやっぱ家から近いのが一番じゃん?」 白瀬は歯切れ悪く答える。 「それに、俺はテニスは楽しくやれれば良いし!高校生のうちにいっぱい遊びたいしさ〜!」 本当の理由など言えるはずもなく、白瀬はおちゃらけた笑顔をしてみせた。 「そっか。確かに近いのが一番だよな!何かあったらすぐに帰れるし!」 「・・藤野は、今も妹達の面倒見てんのか?」 「当たり前じゃん!だって家族だし」 世南はニコリと笑う。 「今年で5歳になるんだよ!早いだろ?今一丁前にアイドルとか好きでさ!それは母さんの影響もあるんだけど!」 「アイドル?」 「そう!母さんが好きなアイドルのライブDVDを愛佳と夢佳に見せててさ。そしたら二人もハマっちゃって。やっぱりイケメンは強いよなぁ」 「・・へぇ」 世南が楽しそうに家族の話をしている。 でも、知っている。それは、世南が外に見せるために作っている兄の顔だと。 あの頃、見せてくれた本当の顔が・・もう一度見たい。 「楽しそうだな!もう家出はしないでよさそうじゃん!」 「え・・・」 白瀬の言葉を聞いて世南の表情が固まる。 「あの時は大騒ぎになっちゃったよな〜!まぁ、騒いだのは主に俺の親だけどさ!」 「・・・」 「あれ?もしかして藤野、あの時のこと覚えてない?」 「・・・」 「そんなわけないよなぁ?だって2年前のことだぜ?」 世南が何も言わずに黙っているので、思わず白瀬は煽るように言葉を続けた。 「俺が悪いってことであの場は収めたんだよね。別にいいけどさ。あれから藤野、全然目も合わせてくれなくなったし、お前の家がどうなったのか気になってたんだよな」 「・・っ!それは・・」 それまで固まったように白瀬を見ていた世南がパッと下を向く。 「だって・・白瀬が・・」 「・・・怒ってんの?」 「え・・?」 「あの時、俺がしたこと怒ってんの?それならそうだって、言ってくれればよかったじゃん」 「・・・」 世南は下を向いたまま再び黙った。 言葉を選んでいるのだろう。 しかしそんな隙を与える気はない。 「別に無理やりしたことじゃなかっただろ?藤野だって・・」 「世南!」 白瀬の言葉を遮るように後ろから声が聞こえた。 振り向くと冬馬が2人をジッと見つめている。 「・・冬馬君?どうしたの?」 世南が驚いたように目を丸くする。 「バンドの練習なくなったって連絡きてさ。でもギターの練習したいし音楽室借りれないか学校に聞きに行ってた」 「それで?どうだった?」 「ダメだった。学校の活動外のことには使わせられないって」 冬馬はポリポリと首の後ろあたりを掻きながら言った。 「あはは!たしかにそれはそうだ!」 世南が可笑しそうに笑う。 その様子を見て白瀬はチッとと小さく舌打ちをした。それからスラックスのポケットからスマホをとるとツツっと画面をなぞって言った。 「ごめん!テニス部のやつから呼び出し!やっぱり俺学校戻るわ!」 「え・・」 「明日のホームルームよろしくな藤野!竹ノ内君もじゃあね!」 白瀬はそう言うと来た道を駆け足で戻って行く。早く世南から離れたかった。 言い過すぎたことはわかっている。本当は責めるつもりはなかった。 ただ、もう一度やり直したかっただけだ。 取り戻したかっただけだ。 あの頃の何も汚れていなかった時間を。   学校を出てからあまり歩いていなかったので、すぐに校門にたどり着いた。白瀬はスゥと息を吸って呼吸を整える。 ふと足元を見ると踏み潰されて黒みがかった桜の花びら達が散乱していた。 綺麗だったモノも、落ちてしまえばこんなものか・・ もう二度と、綺麗な姿には戻れないまま枯れていくのだろう。

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