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第4話 白瀬
「鮎川ー!体育祭の種目決めありがとな〜!」
テニスコートとグラウンドを隔てる金網越しから、白瀬は大きな声で話しかけた。
ちょうど準備体操をしていた鮎川が顔を上げる。
チラリとグラウンドを見渡すと陸上部員が五人、それぞれのペースで走っているのが見えた。今日の放課後の練習は全員そろっているようだ。
鮎川は屈伸運動をしていた手を止めて立ち上がると、白瀬の方へゆっくりと近づいてきて言った。
「別に・・お前がうるさいから出るだけだから。でも変に周りを囃し立てるなよ。やりずれぇ・・」
鮎川は上目遣いでキッと睨みつける。威嚇してくる猫のようだ。
「・・鮎川って、俺といる時微妙に口悪いよなぁ〜。さっきの藤野と話してる時とは口調が大違いじゃん」
「当たり前だろ。藤野は今日初めて話したんだから気も使うわ。気を使わなくていいお前とは違うに決まってる」
「へ〜・・今日初めて話したんだ〜。で、昼に何を頼んだんだっけ?」
「だから・・藤野に俺の競技数が多くならないように頼んだんだよ・・お前は何にも考えずに俺を使いそうだったから」
「信用ないね〜。俺だって考えてるっつーの」
「どうだか・・もう練習始めるから。じゃぁ」
鮎川はそう言うと、踵を返してグラウンドの中央の方へ走って行った。
部長の八木や他の部員に軽く挨拶をして鮎川が一人黙々と走り始めるのを、白瀬は金網越しに見つめる。
大丈夫そうなのか、平気なふりしているだけなのか・・
鮎川とは部活の外周りの練習中に仲良くなった。
仲良くなったと思っているのはこちらだけかもしれないが、少なくとも他の人間よりも心を許してくているとは思っている。
鮎川は初めて見た時から、明らかに『他人と馴れ合う気はない』というような雰囲気を出していた。
鮎川は走り方が綺麗で、ペースも速い。同じように走れれば、自分の足も少しは速くなるかと思い外回りの時は鮎川に付いて走るようになった。
鮎川は最初、白瀬の存在など完全に無視して走っていた。しかし白瀬にとってはどんな人間でも対応の仕方は変わらない。
話しかけていればそのうち話してくれるようになるだろうと思い、無視されても気にせず話続けた。
そうしたら案の定、鮎川は口は悪いが話してくれるようになった。
やはり、人と仲良くなるのは簡単なものだ。
それが・・・
まさかあそこまで発展するとは思わなかった。
春休み中、白瀬は部活には行かず地元の運動公園で中学時代の同級生とばかりテニスをしていた。
久しぶりに地元の友達と遊びたいのもあったが、なによりあの公園にいれば彼を見かける機会が増えるからだ。
実際に何度か一人で歩いている姿や、妹達と出かけている姿を見かけた。
しかし、さすがに一回も出てこない事にマネージャーの美鶴から怒りの電話がかかってきた。
「白瀬!なんで来ないの!?もしかして彼女とばっかり遊んでるんじゃないでしょうね!?チャラいのもいい加減にしてよ!みんなあんたがくるの待ってんだから!」
電話の受話口から早口の甲高い声が聞こえる。
「はぁ?何言ってんだよ、彼女は今いませーん」
「じゃあなんで部活こないのよ!?彼女はいなくても女友達と遊びまくってるんじゃないの?ねぇ!どうなのよ!白瀬!」
「だーかーらー、そんなんじゃないって」
美鶴はその後もキーキーと騒ぎ続ける。
あまりにもうるさいので、白瀬はとりあえず顔を出しにいくことにした。
しかし行ったら行ったで、今度は直接美鶴に怒られるだけだった。
しかも、なぜか一人だけ最後に部室の掃除までさせられる羽目になった。
確かに、一回も部活に出なかったのは悪かったかもしれない。
それにこの部室内が散らかっていて汚れいているのも本当だ。
白瀬は小さく息を吐くと、できる範囲で片付け始めた。
「うっし。こんなもんかな」
一時間ほどして片付け終わると、白瀬は部室の鍵をかけて帰る事にした。
テニス部の部室から少し歩いたところに陸上部の部室がある。
その時、そのタイミングで前を通ったのは偶然だった。
中から鮎川の声が聞こえた。
普段、大きな声など出さない鮎川の声だ。
白瀬は珍しいこともあるものだと思い扉越しに声をかけた。
それがまさか、あんな現場に居合わせることになるとは思わなかった。
あの先輩が鮎川に何をしようとしていたかなんて一目瞭然だった。
しかし、鮎川はなかったことにしてしまった。
部活動の問題に発展することを避けたい気持ちはわかる。
鮎川がどれだけ真剣に陸上と向き合っていたのかも知っている。
けれど、それでは鮎川の傷はどうやって癒すつもりなのか。
人一倍プライドが高そうなやつなのに。
しかしその方法は、あっという間に鮎川から提示された。
『上書き』というやつだろうか。
あの先輩よりかは、俺に触られた方がまだ良いと。
・・そういう事にしておこう。
男を抱くのは初めてだったが知識はあった。
今までの彼女との行為とそう変わらない。
そう思っていたが、やはり体の柔らかさや感触は違った。
今まで想像してきたものが少しだけ現実味を帯びる。
けれど、「彼」ではない。
鮎川に対して酷いことをしているのではないか。抱きながらも迷いが走った。
それでも、その時の快楽を抑えられないのだから思春期の男なんて情けないものだ。
鮎川を助ける行為だと自分に言い聞かせて、快楽を肯定することで自分の欲を吐き出した。
ことが終わった後、鮎川は「忘れて欲しい」と言った。
その言葉を聞いて白瀬は密かにホッと胸を撫で下ろす。
たとえ、鮎川からの熱に気づいてしまっていても、知らないふりをし続けられるということだ。
白瀬は今までと何も変わらない顔で、明るく鮎川に話しかけることにした。
けれど、まさか二年生になって鮎川と、そして世南と同じクラスになるとは思わなかった。
鮎川があの事を話すことはないとわかっている。
それでも、鮎川と世南が接触しているのを見るとスッと血の気が引いたような気分になる。
世南になにか気づかれてしまうのではないかと。
白瀬は鮎川がグラウンドを一周するのを見届けると、テニスコートの方へ戻る事にした。
その時、チクリと視線を感じてそちらに目をやる。
陸上部部長の八木と目があった。
しかし八木はすぐにフイッと視線を逸らすと、ゆっくりと走り始めた。
バラされるかもと心配しているのだろうか・・
別に、そんな目で見なくたって俺は何も言わないよ・・
俺だって・・
「・・・」
白瀬はクルリとグラウンドに背を向けると、テニスコートまで走って戻っていった。
——
一日の終わりを知らせるチャイムが響く。
いつもと変わらない一日だったはずなのに、今日はやけに長く感じた。
「大嶋〜俺今日体育祭委員で決めることあるから、部活休みって言っといて」
白瀬はちょうど立ちあがろうとしていた大嶋に声をかける。
「わかった。けどそんな時間かかんの?早く終わったらちょっとは顔出せよー」
大嶋はつまらなそうに口を尖らして答えた。
「はいよ〜」
白瀬は適当に相槌を打って手を振る。
それからゆっくり席を立つと、斜め前方の方へ目をやった。
世南が自分の席から帰ろうとしている小森に手を振っている。
小森がいなくなるのを見届けると、白瀬は後ろから世南に声をかけた。
「藤野、はじめようぜ」
「あぁ、うん」
振り返った世南が明るく返事をする。
白瀬は世南の前の席に座ると、体育祭の資料を出した。
「昨日さぁ、部活の後に体育科寄ったんだよ。それで藤堂先生にうちのクラスのタイムの紙もらってきた」
「タイムの紙?」
「測ったじゃん、100メートル走。これ見て決めればスムーズじゃん?」
「あぁ・・藤堂先生、こういうの貸してくれるんだな」
世南が驚いたように紙をマジマジと見る。
「藤堂さん、言えば意外となんでもやってくれるよ〜。みんな怖がりすぎなんだよなぁ」
「いや、藤堂先生に気軽に話に行くの白瀬くらいだろ・・」
世南は苦笑いを浮かべながら、筆箱からシャープペンシルを取り出した。
「じゃぁ、どんどん決めちゃおう。手分けした方が早いよね?騎馬戦のグループとかは白瀬が決めた方がいいと思うし」
「なんで?別に藤野が決めてもいいけど?」
「白瀬の方がクラスのみんなのことよく分かってるじゃん?俺、誰と誰が仲良いかとかわかってないし」
「ふーん。じゃぁ、まぁとりあえず適当に考えてみるわ」
「うん、よろしく」
順調な空気だ。
この間、責めてしまったことを挽回したい。
嫌な言い方をしてしまったことは自覚している。
もっと、自然に明るく言えばいいだけのことだ。
白瀬は小さく唇を舐めると、ゆっくり口を開いた。
「藤野さ・・」
「うん?」
世南は下を向いて文字を書きながら応える。
「あっ・・いや、春休み中さ、久しぶりに運動場でテニスしてたんだけどさ」
「運動場って、うちの近くの?」
「あぁ、そう。あそこの運動場。そこで中学の時のテニス部のやつらで集まってやったんだけど、みんな上手くなっててさー。やっぱり練習量の違いかね」
白瀬はそう言いながらチラリと世南に目をやった。しかし世南は下を向いたままだ。
「白瀬も朝練とかやってるじゃん。練習量そんなに違う?」
「量じゃなかったら質かな〜。うちのテニス部のモットー仲良く楽しくだから」
「そうなんだ?確かにテニス部楽しそうだもんな」
世南はクスクスと笑う。それでも視線は合わない。
白瀬はその様子に少し苛立つ。
「なっ!藤野!」
思わず出た大きな声に、世南が肩をびくりとさせて上を向いた。
やっと視線があった世南の瞳は不安げに揺れている。
それを見て白瀬はゴクリと唾を飲んだ。
大丈夫、今度は失敗はしない。
「今度さ、また昔みたいに遊ばない?」
なるべく明るく、なんて事ないといった口調を心がけたが少し声が掠れてしまった。
「え・・・」
世南は何を言われたのかわからないといった顔で白瀬を見つめる。
それから微かに口元を動かそうとしたが、白瀬は世南が何か言う前に話しを続けた。
「ほら、前に一度だけ電車乗って出かけた事あったよな。中1の春休みにさ。俺の買い物付き合ってもらって。覚えてる?」
「・・・覚えてるよ。財布買ったんだよね」
世南はぎこちなく笑いながら言う。
「そう、楽しかったよな?初めて大人なしで街に出てさ。道にも迷ったけど」
「あったね。白瀬が大丈夫だっていうから信用したのにさ、全然違う方向行っちゃって」
「何回か親と行ってたから道覚えてると思ったんだよ!」
「まぁ、無事に帰って来れてよかったんじゃない?」
世南はふふッと笑ってそう言うと、再び下を向いて文字を書き出す。
先ほどの質問の答えは返ってきていない。
もう一度言うべきか・・
けれど、さっきだってかなりの覚悟で言ったのだ。
それを意図的にスルーされてしまったのなら、もう聞くことはできない。
人間関係なんて簡単なものだ。
そう思っているのに・・なぜだか彼相手にはうまくいかない・・
「・・・ふじ・・」
白瀬はもう一度、意を決して名前を呼びかけようとした。
しかしその途中で「あっ!」と世南が何かを思い出したかのように声を上げる。
「そうだ、白瀬。騎馬戦のグループなんだけど、俺と竹ノ内君一緒にできる?」
「え・・騎馬戦?」
急に体育祭の話になり、白瀬は戸惑いの表情を浮かべた。
「そう。ほら!竹ノ内君、人数足りてなかった騎馬戦に入ってくれたじゃん。で、できれば俺と同じグループがいいなって」
世南は顎を指で掻きながら言う。
「・・・なんで?」
「えっ?」
「なんで藤野と一緒がいいの?」
「なんでって・・騎馬戦の他のメンバーと俺達、普段あんまり関わりないしさ。冬馬君も人見知りなところあるから、俺と一緒の方がいいかなって・・」
「・・・」
白瀬は手のひらをグッと握りしめて下に視線を向けた。
イライラする。さっきまで昔の話をしていたのに。
こっちの質問にも答えず急に『冬馬君』の話にすり替えて。
『俺達』?なんだよそれは。
それがさっきの俺の話より大切なことなのか。
「白瀬?」
じっと黙り込む白瀬を世南が不安そうに覗き込む。
「あの、ごめん、無理そうだったらいいんだけど・・」
「・・いいよ」
白瀬は小さな声でボソリと言った。
「藤野と竹ノ内、一緒にしとく・・」
「本当?よかった。ありがとう!」
世南は安心したような顔で胸に手を当てた。
「それで?」
「え・・?」
ホッとした顔のまま世南が白瀬に視線を向ける。
「それで、藤野さっきの答えは?」
白瀬は真剣な瞳で世南を睨むように見つめ返す。
「さっきの・・」
「言ったよね俺。また昔みたいに遊びたいって」
「・・あっ・・」
世南は小さく声を漏らすと、視線を下にずらした。
「その・・いいなって、思うけど・・でも・・」
「でも?なに?」
白瀬の瞳はジッと世南を捕える。
「昔みたいに・・遊びにいくのは。ほら、予定とか合わせるの大変じゃん。白瀬、部活やってるし!」
世南はわざとらしい笑顔で明るく言った。しかし白瀬の方を見ようとはしない。
「別に。部活なんてどうでもいいよ。藤野が休めって言えばすぐに休むし」
「いやいや、ダメでしょ。ちゃんとやりなよ!俺も家の手伝いだってたくさんあるし—」
世南が言い終わらないうちに白瀬は思わずグイッと世南の腕を掴んだ。
「・・そんなに?そんなに嫌だったのか?」
「えっ・・白瀬・・」
世南は驚いたように目を丸くさせて白瀬を見つめた。
「あの時、あんなことしなければ・・友達のままでいられたのか?」
白瀬は悔しそうに顔を歪ませる。
「・・・」
世南がヒュッと息をのむのがわかった。それからフッと息を吐くと、ポソりと言った。
「・・わかんない」
「・・・」
「ずっと、白瀬が何考えてるのかわからない。だから、俺もどうしたらいいのかなんてわからない」
「・・俺は・・」
世南の腕を掴む手のひらからジワリと汗が滲む。
あの時、友達以上のことがしたくて・・
だから、俺は・・
「・・・」
黙り込む白瀬を世南はジッと見つめる。それからゆっくり口を開いた。
「俺は・・白瀬のこと友達だって思ってた・・」
「・・・」
その言葉にピクリと白瀬の腕が反応する。
「でも・・他の友達とは違う、特別な友達だって・・思ってた・・」
「・・・」
白瀬は掴んでいた世南の腕をゆっくりと離した。
それから、下を向きフゥーと長く息を吐く。
少しの間、教室に沈黙が流れた。
世南は白瀬が何か言うのをただ黙って待っている。
白瀬は頭をポリポリとかく仕草をすると、スッと顔を上げて笑って言った。
「なるほどね!やっと、藤野の気持ち聞けたわ!あの頃、俺のことそう思ってたわけだ!『特別な』友達ってね!」
「え・・・」
「それをあれだ!俺が勘違いしたわけだ!まじかぁ。さすがにはずいなぁ〜」
「・・・」
そう言ってアハハと笑う白瀬を見て、世南は戸惑いの表情を浮かべる。
「それじゃあ、あんなこと友達としたら気まずくもなるよな!無理もないわ。ごめんごめん!俺がわかってなかった」
「し・・白瀬・・」
「体育祭のこれもさ、あと俺が家で決めとくわ!大丈夫だから!もう解散!」
白瀬はそう言うと、世南の手元にあった紙を奪うように引っ張った。
「ちょ、ちょっと待って。俺・・別に・・」
世南はその紙を取り返そうと手を伸ばすが、白瀬はトンと世南の体を押す。
「もういいって。ありがとな」
白瀬はそう言うと、机の上の資料をかき集め鞄に突っ込んだ。
そして世南の方には目を向けず、急足で教室を飛び出す。
「白瀬!」
後方で世南が名前を呼ぶ声が聞こえた。
ずっと焦がれていたものだ。もう一度呼んでほしいと。
けれど、白瀬は振り向かなかった。
振り向けなかった。
勝手な勘違いだったのだ。
あの頃、二人は同じ気持ちだと思っていた。
ただ、こちらがその気持ちを先取りしてしまって壊れたのだと思っていた。
だから、いつかは直せる。元に戻せるなんて思っていた。
でも・・
「そもそも、好かれてなかったってか・・」
白瀬はポツリと呟く。
靴に履き替え俯き加減で歩いていると、グラウンドを走る陸上部の姿が見えた。
今日も鮎川と八木はちゃんと練習に出ている。
ぼーっと見ていると、鮎川が気がついて近づいてきた。
「おい、部活どうしたんだよ?」
鮎川が眉間に皺を寄せて聞いてくる。綺麗な顔が台無しだ。
「今日はサボりー。委員のお仕事です」
「委員の仕事?藤野君は?」
鮎川がキョロりと周りを見渡す。
「・・・藤野は、置いてきた」
「・・は?なんで?」
「・・・」
黙る白瀬を鮎川が怪訝な顔で伺う。
白瀬はフッと息を吐くと、眉毛を下げて自分を嘲るようにして言った。
「俺ね、昔、鮎川の先輩と同じことしちゃったことあるんだよね〜」
「・・え」
「まぁ、そんな最低なところも、俺にあるんですよって話。じゃ」
白瀬はそう言うと、鮎川に背を向けて歩き出す。
「あっ!おい!白瀬!」
鮎川の怒ったような声が聞こえたが、白瀬は言い逃げるように足早に校門へと向かった。
自暴自棄の極みだな。
鮎川は何も悪くないのに。
あまりにも最低な気分すぎて周りが見えていない。
一度落ち着かなくては・・
でも・・
これからどうすればいいだろう。
再び近づけるチャンスを得て、今まで持て余してきた気持ちの決着を、つけられるのではと思った。
けれど、いざ答えが見えそうになったら逃げてしまった。
『あの日』をもう一度やり直せたら・・・
答えは変えられたのだろうか。
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