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第8話 冬馬

ドサっと鞄を投げるように置くと、冬馬は自分のベッドへダイブするように倒れた。 一日中外にいたのだ。 出番は少なくとも体育祭は疲れるものだなと改めて思った。 今日は土曜日だ。 家族が観に来れるようにと土曜日に体育祭をやったのだろうが、我が家は誰も来ていない。 当たり前だ。 土曜日といったら旅館は大忙しなのだ。わざわざ高校生の息子の、しかも留年した息子の行事なんて見には来ないだろう。 なんなら今日が体育祭だったことも知らないかもしれない。 両親と最後にまともに会話をしたのはいつだろう。 じっくりと顔を突き合わせて話しをしたのは、留年した時の話し合いが最後かもしれない。 あの時も父親はすぐに席を立った。 昔から、父親はそうだ。 冬馬とまともに向き合ってくれたことはない。 その理由はわかっている。 フゥと長いため息を吐くと、冬馬は勢いよく立ち上がり風呂へと向かった。 汗でベタベタな体をとりあえず綺麗にしたい。 「あれ?お兄ちゃん帰ってたの?」 一階に降りたところで妹の薫子が肩の出たラベンダー色のワンピース姿で立っていた。 「・・おう」 冬馬はぶっきらぼうに答える。 「今日体育祭だったって、さっきお手伝いさんに聞いたよー。言いなよね、そういうのは」 薫子は首を傾げてへの字口で言う。 「お母さん達も驚いてたよ。早めに言えば見に行ったのにって」 「・・どうだかなぁ」 冬馬はボソリと言うと、スタスタと風呂の方へ進んだ。 しかし何故だか後ろを薫子が付いてくる。 「?なんだよ。お前も風呂入るのか?」 「ちーがーうー。なんか、お兄ちゃん最近変じゃない?」 「変?」 冬馬はピタリと止まると薫子の方へ向き直った。 「うん。なんか、うまく言えないけどさ、元気ないって言うか・・」 薫子はジッと冬馬を見つめる。 バンドを辞めたことはまだ家族には言えていない。 あれだけ啖呵を切って続けさせてくれと言ったものなだけに、なかなか言い出せずにいた。 「別に、そんなことないけど・・」 冬馬は悟られないように横に顔を背ける。 「えー。そりゃお兄ちゃんなんて普段から無愛想だけどさ。でもバンド始めてから楽しそうに見えたから。夢中になれるものって大事なんだなって思ったよ。 「・・・」 夢中になれるもの。 それがあればどれだけ救われるのか。自分だって痛いほどにわかっている。 「でも最近、また昔に戻っちゃったみたい。ほら、いつだったかなぁ。お兄ちゃんが中学生の頃、すごい暗かった時期あったよね。今はあの頃みたいな元気のなさだよ」 薫子なりに心配して言っているのだろう。 しかし冬馬はその時のことには触れてほしくなく、クルリと背を向けて言った。 「・・心配するほどのことじゃないから。あんまりお袋達にも言うなよ」 それからサッサと風呂場へ向かうとバタンと扉を閉めた。 薫子はしっかりしていて周りをよく見ている。 責任感もあり真面目だ。 母親と父親に愛され、高級旅館経営者のお嬢様として恥ずかしくないように育っている。 自分と正反対だ。 けれどそれは、薫子が知らないからだ。 この家の、兄の、ヒッソリと蓋をされてきた秘密に。 振替休日の月曜日を終えて、火曜日。 相変わらず朝が起きられず、2限目終わりに学校へ登校すると、クラスはすっかり日常風景に戻っていた。 体育祭の名残は後ろに飾られた優勝したクラスに配られる表彰状だけだ。 「おはよ、冬馬君!」 小森が元気な声でやってきた。 「おう」 冬馬は小さな声で返事をする。小森にもまだバンドをやめたことは言えていない。 体育祭が終わったら言おうと決めていたので、今日のお昼休みにでも伝えようかと思う。 冬馬はちらりと教室を見渡し、世南がいないことに気がついた。 「あれ、世南は?」 「あぁ、藤野は体育祭の片付け行ってるよ」 「今?中休み、あと十分くらいで終わるだろ」 冬馬はチラリと教室の時計を見る。 「なんか早めに終わらせちゃいたいからって言ってたけど?」 小森は何も気にする様子もなく言う。 「ふーん」 冬馬は相槌を打ちながら、前方の方へ目をやった。 同じ体育祭委員の白瀬は大嶋の席で笑いながら数人で話しいる。 一人で仕事に行ったのか? 冬馬は不審に思いながら、談笑する白瀬をジッと見つめた。 「え?あぁ、本当は昼休みにやる予定だったんだけどさ。昼はゆっくりしたかったから先にやりに行っちゃった」 お昼休み、小さなおにぎりを頬張りながら世南はケロッと言った。 「うちのクラスはカラーコーン片付けるだけだったから、俺一人でも十分だったし」 世南がそう言ったところで「藤野」と世南の後ろから声が聞こえた。 白瀬が肩で息をしながら立っている。 「今、グランド行ったらもうカラーコーンの片付け終わってたんだけど・・藤野がやったのか?」 「うん、お昼はゆっくり食べたいからさ。中休みの間にやっちゃったんだ。白瀬に言うの忘れててごめん」 世南はニコリと笑って白瀬に答える。 「・・一人じゃ大変だっただろ?声かけてよ」 白瀬は眉を顰めて怪訝そうに言った。 「カラーコーン少なかったし、そんなに大変じゃなかったよ。勝手にやっちゃったのはごめん。でもこれで体育祭委員の仕事も終わったし、色々ありがとうな、白瀬」 世南は笑顔を崩さずそう言うと、正面に向き直り再びおにぎりを食べ始める。 「・・・」 白瀬は一瞬何か言いたそうに世南を見つめたが、声を出すことなくそのまま自分の席へと戻っていった。 「おいー・・藤野、なんかあったのか?白瀬君、今絶対怒ってたぞ・・」 二人のやりとりを黙って見ていた小森が、心配そうに小声で聞いてきた。 「別に何もないって。本当に早く終わらせたかっただけ。委員の仕事が残ってるの嫌だしさ」 世南は何も気にしていないと言った顔でケロっとしている。 「そりゃ、そうだけどさぁ。あっちのグループのやつ怒らせたら怖いじゃん〜。よりによって白瀬だし〜」 「小森が気にしてどうするんだよ?大丈夫だって」 「えー・・冬馬君もなんか言ってよ。なんか怖い雰囲気だったよね?」 縋るような視線を小森に向けられ、冬馬はフゥと小さく息を吐いた。 「前も言ったけど、同じ高校生だぞ。小森は気にしすぎだ」 「えぇー。冬馬君は気にしなさ過ぎなんだよぉ」 小森はそう言うと、眉毛を下げながらモソモソとお手製のおにぎりを食べ始めた。 世南は「大丈夫だって」とポンポンと小森の肩を叩く。 そんな二人のやりとりを見ながら、冬馬も菓子パンを大口で食べ始めた。 確かに・・小森が言った通り、先ほどの世南と白瀬の雰囲気からは何かがあったようにしか思えなかった。 というよりも、一方的に世南が白瀬を避けているようだった。 体育祭で何かあったのだろうか? 冬馬はチラリと世南を見つめる。 世南は楽しそうに小森を揶揄いながらご飯を食べて笑っている。 それは作り笑顔でも気を遣った笑いでもない。いつもの世南だ。 「・・・」 世南が笑っているならいい。 もともと白瀬とは普段そんなに関わらないのだ。 それこそ体育祭が終わった今、一緒にやらなくてはいけない用事ももうないだろう。 気を使うような相手のことをいちいち気にする必要なんてない。 「そういえばさ」 小森が気を取り直したように口を開いた。 「美希ちゃんが冬馬君のライブすごい楽しかったって。また見たいって言ってたよ」 「え・・」 バンドの話をされてパンを持つ手が止まる。 そうだ、今日は小森に話そうと決めていたのだ。今がいいチャンスだろう。 「悪い、小森。俺バンドのメンバーから抜けたんだわ。今のところ新しいバンドを組む気もない」 「え、えぇぇ!何それ!?聞いてない!?」 小森は心底驚いたように目を丸める。 それから詰め寄るように、前屈みになって冬馬に言った。 「なんで!?えっ!なんで!?」 「俺はもともと、抜けてたメンバーが戻ってくるまでの仮メンバーだっただけ。で、そのメンバーが戻ってきたから俺の役目は終わったってこと」 冬馬はパクリとパンを頬張りながら答える。 前よりかはだいぶ冷静に自分の状況を言えるようになった。 「えぇ!そうだったの!?俺そんなの知らなかったよ!?」 俺もわかってなかったよ・・ 心の中で相槌を打ちつつ、冬馬はフッと小さく笑って言った。 「だから小森の彼女にはライブ見せられない。悪いな」 「・・そっかぁ。えー・・そっかぁ。残念だなぁ」 小森はブツブツと言いながら頬杖をつく。 するとそれまで黙って聞いていた世南がポンと手のひらを叩いて言った。 「今度さ、小森のバイト先のお店行かせてよ!冬馬君も時間できたしさ!確か小森の店、冬馬君の地元の駅の近くでしょ?」 「え、まぁそうだけど・・でも観光客用の和食の店だぜ?お前ら好きかな?」 「俺、冬馬君の地元の温泉行ったことなんだよ!近いけど行く機会今までなかったしさ。期末終わったら遊びに行かせてよ!」 世南はそう言って冬馬と小森を交互に見つめた。 「・・まぁ、いいけど」 冬馬はボソリと答える。 「おっし!じゃあお前らが来る日は俺がめいっぱいもてなしてやるよ!」 小森はグッと力瘤を見せて明るく言った。 地元はあまり好きではない。 けれど世南が遊びに来ると言うのなら、一応国内でも有名な観光地だ。 案内はしてあげたい。 冬馬は少し心が弾むのを感じながら、パンにかぶりついた。 それから季節はあっという間に梅雨の時期に入り、ジメジメとした空気の中生徒達は期末テストの勉強に追われていた。 「マジでやばい!!藤野!日本史のノート見せて!」 小森がそう言うと、世南は「はい」と言って鞄の中のノートを取り出した。 「明日から期末って嘘だろ?!俺この1週間何してたんだ?!」 「バイトだろ」 小森の叫びに冬馬が間髪入れずに突っ込む。 「だから小森のために昼休みも潰して勉強してるんでしょ。ほら、ここ。試験範囲のところ赤印つけて」 世南は小森の教科書を見ながらトントンと指で叩く。 「わぁー。ヤバいよこれ。俺今日寝れないかも・・」 肩を落とす小森を世南が笑いながら励まして言った。 「俺も今日は遅くまで勉強してるから!わかんないところあったら連絡しあおうよ!でも寝落ちてたらごめんな」 「えぇー一緒に徹夜しようぜぇー」 小森がドスンと世南の肩にもたれかかる。 勉強中だというのに賑やかだ。 冬馬は二人の話し声を聞きながら教科書に目を落とす。 つい先日、両親にバンドをやめたことがバレてしまった。 ずっと夜遅くに帰宅していた冬馬が、夕食前には家にいることを不審に思ったのだろう。 妹の薫子は眉を顰めながらこう聞いてきた。 「お兄ちゃん、最近ずっと帰り早いよね?バンドはどうしたの?」 仕方なくバンドを辞めたことを言うとそれはあっという間に両親にまで伝わってしまったのだ。 母親は大きなため息をついたが「バンドをやめたなら、ちゃんと勉強してこれからは卒業後のことを考えなさい」と一言だけ言っていってしまった。 父親は何も言わなかった。それは予想していた通りだ。 バンドをやめたことでテストの点数は気にしなくても良くなったが、だからと言ってここであまりに点数を落とすのもよくないだろう。 下手な点数を取ればそれはそれで母が怒るのが目に見えている。 楽器に触れないまま、一ヶ月が過ぎようとしていた。手持ち無沙汰を自分の部屋で勉強することで紛らわしてきた。 時々休憩をするタイミングで、旅館から持ってきたフリーペーパーの観光ガイドをパラパラとめくる。 世南をどこに案内しようか考えているのだ。 本当は立ち寄りたくはないが、うちの旅館は日帰り入浴もできる。 冬馬がいれば無料で入らせてくれるだろう。 温泉には行ったことがないと言っていたから喜ぶかもしれない。 そのためにも、母親の心象を悪くしないためテストはそこそこに頑張るつもりだ。 「ちょっと冬馬くーん!!藤野が日付変わったら寝るとか言ってるんだけどー!!」 目の前ではまだ小森と世南がわいわいと話している。 「俺勉強するから。お前らもちゃんとやれよ」 冬馬は手に持ったシャープペンシルをクルクル回すと、勉強に集中する事にした。 ーー 「いただきまーす!」 目の前に運ばれてきた唐揚げ定食に目を輝かせながら、世南は両手を合わせて大きな声で言った。 「ご飯大盛りにしてもらったから!残さず食べろよな」 腰にエプロンを巻き頭にバンダナを付けた小森が得意げに言いながら、厨房の方へと戻っていった。 今日は期末テスト後の試験休みだ。 平日だがランチ時なこともあり店内は賑わっている。 「いただきます」 冬馬は自分の前に置かれたとり天の定食を見つめながら言った。 家から歩いて十五分ほどの店だが入ったのは初めてだ。 駅から温泉旅館の並ぶエリアまでは商店街になっており、観光客用にたくさんの飲食店やお土産屋さんなどがある。 普段からここで暮らす冬馬にとっては、特に立ち寄る理由はない場所ばかりだ。 しかし初めて来た世南は、この小森の店に来るまでも町並みやお店を目を輝かせながら楽しそうに見て回っていた。 「さすが有名な温泉地だね!町も綺麗だしお店もたくさんあるし!」 世南は唐揚げに息を吹きかけて冷ましながら言った。 「そりゃ、この町は観光客でもってるようなもんだからな。綺麗にしとかなきゃ客も寄ってこないよ」 冬馬は勢いよくとり天にかぶりつく。少し熱かったが食べられないほどではない。 「冬馬君のところの温泉も楽しみだな!でも本当に無料でいいの?俺、お金払えるよ?」 「大丈夫だって。自分の家の風呂に入るようなものだから。子どもの頃は学校から帰ったらそのまま入りに行ったりしてたこともあったし」 「それじゃ、お言葉に甘えるけど・・冬馬君のご両親に今日お礼言えるかな?」 世南はやっと冷めたらしい唐揚げを一口でパクりと口に放り込みながら言った。 「さぁな。今日も朝起きたらもう居なかったし。近々友達を旅館の温泉に連れていく話はして許可もとってあるから別に問題はないよ」 「そっかぁ。でもじゃぁ会えたらお礼言わせてね」 「・・うん」 正直、あまり両親には会わせたくない。 あの人達のことだからニコニコと接客するように対応するだろう。 けれどその笑顔も言葉も全部嘘まみれじゃないかと、そういう二人を見るたびに心の中で毒づく自分がいるのだ。 なるべく気づかれないように、そっと裏から入ろう。 冬馬はそう思いながら目の前の定食を食べすすめた。 「あー!美味しかった!」 「うん、美味かったな」 小森の店を満足そうな顔で出ると、冬馬と世南は徒歩で旅館へと向かった。 真っ直ぐ舗装された綺麗な道を歩いて行くと、少しずつ坂道になっていく。 緩やかな坂を上がっていく途中で自分のを通り過ぎたが、世南にはそれは言わなかった。 程なくして坂のてっぺんに大きな建物が見えてきた。 「あ、あそこ?!」 世南が少し興奮気味に聞く。 「そう・・」 「うわー!すごい立派な建物!かっけー!」 建物の前に着くと、緑の茂みの中にひっそりと置かれた大きな岩に「風の宿 たけうち」と書かれている。 それがこの旅館の看板なのだ。 「こっち。こっちの従業員口から入るから」 冬馬はそう言うと、メインロビーに繋がる大きな自動扉を避けて横道の方へと世南を引っ張っていった。 「あら。冬馬さん、こんにちわ」 「冬馬ぼっちゃん、久しぶりですね」 従業員口から中に入り温泉までの道を歩いていると、何人もの旅館の従業員に声をかけられた。 その度に世南もペコリとお辞儀をする。 そしてまじまじと冬馬を見つめながら「すごい、ドラマで見るみたいなやつだ」と驚いていた。 それがかなり気恥ずかしく、冬馬は急足で温泉へと向かった。 「たけうち」は一つ一つの部屋に個室露天風呂が付いている宿だが、大浴場も用意されている。 そちらはどちらかといえば日帰り入浴をする観光客用のものになっており、利用できるのは朝から夕方までの時間と決まっている。 「冬馬君、俺トイレ行ってくるから先に入ってて!」 「わかった」 冬馬は一足早く脱衣所で服を脱ぐとガラリと大浴場の扉を開けた。 数人の男性がゆったりと湯船に浸かっている。 今日は空いている方かな・・と思いながら、冬馬は体を洗い始めた。 「おぉ〜!お風呂広いなぁ」 世南ののんびりとした声が聞こえて顔を上げる。 あまり焼けていない白い肌が目に入り、冬馬は思わず目を背けた。 同じ男の身体だろ・・ そう思いつつも、なぜだか心臓が痛い。 「こんなに広いお風呂、中学生の修学旅行以来だな〜」 当の本人は何も気にならないといった顔で冬馬の隣に座ると、勢いよくシャワーを出して髪を洗い始めた。 冬馬は正面の鏡だけを見ながら、急いで身体や髪を洗う。 雑に身体の汚れを流し終えると、先に外の露天風呂の方へと向かった。 その間も世南の方は見なかった。 外には大きな岩風呂が一つある。 ちょうどいいことに誰も入っていなかった。 冬馬はゆっくりと身体をお湯の中に入れると、フゥーと長いため息を吐いて頭をゴツゴツとした岩に預けるようにして上を向いた。 一体何を意識しているんだ。 今までだって体育の着替えで世南の裸は見たことがある。 全部脱いだ姿を見るのは初めてだが、だからと言って自分と同じ硬い男の身体じゃないか。 ただの友人の身体を意識して見ないようにするなんておかしな話だ。 変な風に考える必要はない。 冬馬がそう頭の中で自分自身に言い聞かせていると、ザブンと世南がお湯の中に入ってきた。 「露天風呂俺初めてだよ〜!なんか開放的な気分〜!」 「・・ぅん」 冬馬は視線を横にずらして返事をする。 「夏でもお風呂って気持ちいいんだな〜」 世南はそう言いながらプカプカと肩までお湯に浸かった。 「肩まで入ってるとすぐのぼせるぞ」 「だって気持ちいいんだもん!本当ありがとな!冬馬君」 「・・・」 ニコニコと笑ってお礼を言う世南を冬馬はチラリと横目で見た。 「ふー。たしかに肩までだともう熱い!」 そう言って世南がお風呂の中の段差になっている岩場に座る。 腰より上の焼けていない白い肌がザバっとお湯の中から現れた。 「・・っ」 冬馬は一瞬目を逸らそうとしたが、意識してはダメだと思いジッと世南を見つめた。 「・・世南、あんまり日焼けしてないよな」 なんとか平静を装って声を絞り出す。 「え?あぁー。今年は特に外で遊んだりしてないからかなぁ。前はよく妹達公園に連れて行ってたから日焼けしてたけど」 「・・妹達って、かなり歳離れてるんだよな?何して遊ぶんだ?」 「うーん、そうだなぁ。シャボン玉ブームの時はひたすらシャボン玉吹いてたけど・・あとは砂場でおままごととかかなぁ」 「・・おままごとか。俺の妹も確かに好きだったわ」 「おっ!冬馬君の妹!?あんまり話聞いたことないや。どんな感じの子なの?」 世南は興味津々と言った顔で聞いてきた。 確かにあまり家族の話はしたことがない。したくないから避けてきたのもある。世南もそれに気づいてるからなのか、詳しく聞いてくることは今までなかった。 「・・今中3で。吹奏楽部に入ってるらしい。よく言えばしっかりしてるけど、口うるさいし母親に似てるよ」 「あはは!妹に叱られてる冬馬君、なんか想像できるなぁ」 「世南だって、そのうち叱られるようになるよ」 「えー!それも可愛いけどなぁ」 本当に妹達が可愛いと思っているのだろう。世南は目元を緩めて言った。 「本当に、しっかりしたやつだよ。妹がいればこの旅館も将来安泰だろうな」 「・・そうなの?冬馬君は継がないってこと?」 「そうだなぁ。俺は・・ずっと音楽があればいいって思ってたし」 そこまで言って冬馬はハッとして黙り込んだ。 自分で口に出したことで思い出してしまったのだ。 ついこの間まで、音楽さえあればいいと思っていたことを。 そしてそれをなくしてしまったことを。 「・・バカだな俺。もう音楽はないんだった」 冬馬は自虐的に笑ってポツリと言う。 「俺、マジでただの道楽息子ってやつだよな。そろそろ気持ち切り替えて、将来のこと考えないといけないんだった」 「・・ちゃんと先のこと、考えようとしてんだね」 世南はポチャリと腕でお湯をかき混ぜながら言った。 「・・高校入ってから、好き放題やってきたからな。少しは家のことも考えないといけないのかなとは思ってる」 「・・そっか」 気がつけば普通に会話をしている。 お互い丸裸だからだろうか。心の鎧を取ったように、普段は話さないようなことが自然と口から溢れてきた。 先程まで変な意識をしていたのが嘘のようだ。 「あぁー!さすがに熱くなってきた!出ようかな!」 世南はそう言うと、勢いよく立ち上がりお風呂から上がる。 「そうだな」 冬馬も続けて立ち上がると世南の後に続いた。 大浴場の入り口前には瓶に入った牛乳やコーヒー牛乳の自動販売機が置かれている。 世南はそれを見つけるなり、嬉しそうに近づいて行った。 「おいしー!コーヒー牛乳久々に飲んだ!」 火照った顔の世南がコーヒー牛乳を美味しそうに飲んでいる。 すぐそばでは先ほどまでお風呂に入ってたいたであろう数人の客がマッサージチェアで休んでいた。 冬馬はその様子を見ながらキョロリと辺りを見渡す。 そろそろチェックインの時間になるのだろう。 従業員の人数が先ほどより増えている。 しかし両親の姿は見当たらない。 帰るなら今のうちだろう。 世南がコーヒー牛乳を飲み終えると、二人は再び従業員通路の方へと向かった。 帰る道でも同じように従業員に声をかけられる。 その度に冬馬はバツが悪そうな顔でペコリと頭を下げた。 通路を抜けて外に出ると、蝉の大きな鳴き声が耳に入った。 せっかく風呂で汗を流したのに、もう額にはジワリと新しく汗が滲んでいる。 「冬馬君本当ありがと!温泉たのしかった!旅行にきた気分!」 世南が嬉しそうな顔でお礼を言う。 「いや、別に・・」 冬馬が照れ臭そうに横に目をやった瞬間、ボソボソと誰かの話し声が聞こえた。 まだここは従業員の出入り口に続く裏道だ。 話しているのは旅館の関係者だろうか。 冬馬がそっとそちらに目をやるとよく知る二人が並んで立っていた。 父と母だ。 父はキッチリとしたスーツ姿で、母は仕事着である着物で背筋を伸ばして立っている。 いかにも仕事の合間に抜けてきたといった感じだ。 「冬馬君?」 世南が横から顔をだそうとしたので、おもわず冬馬は口に指をあてて、シッと小さな声で言った。 世南は驚いた顔で冬馬の視線の先へ目を向ける。それから何かを察したのか世南も黙って二人の様子を伺った。 母は重いため息を吐くと「どうしようかしらね」とボソリと言った。 それから首を横に振りながら言葉を続ける。 「まさか・・薫子が気づいてたなんて」 「一体、いつどうやって知ったんだ?誰かが話したのか?」 父は鋭い眼差しで母を見つめた。 「それはあの子は教えてくれなかったわ。昨日の三者面談の帰り、あの子が急に『お兄ちゃんに継がせてあげなきゃ可哀想』って言い出して」 「・・・」 その言葉に冬馬の心臓がドクンと揺れた。 それからドクドクと速くなっていくのがわかる。 冬馬はギュッと自分の胸に手をあてた。 「薫子は音楽科のある高校に行きたいらしいの。高校までは自分の行きたいところにいけばいいと思ってるから、それはいいんだけどね」 「それが、どうしてあんなことをいう流れになったんだ?」 父の眉間にはずっと皺がよったままだ。 「私が高校卒業後のことはまたその時に考えればいいって言ったら・・『お母さん達は私に旅館継がせる気でしょ?』って」 「・・・」 「それはまだわからないって言ったら、あの子ね・・『お父さんは、自分の子じゃないからお兄ちゃんに継がせたくないって思ってるんでしょ』って言ったの」 「・・っ」 横で聞いていた世南が息を飲むのがわかった。 しかし冬馬は黙ったまま二人の話を聞き続ける。 「私、驚いちゃって何も言えなくて・・」 母が重いため息をついて俯く。 そんな母を見ながら父は表情を崩すことなく言った。 「・・薫子はよくわかってるじゃないか。僕は冬馬に旅館を継がせる気はないよ」 「っ!今はそっちの話をしてるんじゃないでしょ!?薫子が冬馬のことを知ってることについての話をしてるの!」 カッとなった母は大きな声で父に詰め寄る。 しかし父は先ほどと変わらぬ表情のまま続けた。 「いつまでも秘密になんてできないさ。当時のことをよく知ってるスタッフだって残っているんだから。それより、僕は薫子の進路の方が心配だよ」 「・・それは、まだいいでしょ・・」 「いいや。冬馬はバンドに夢中で旅館に興味がないから大丈夫だと思っていたんだ。それが急にバンドをやめたって?もしそれでやっぱり旅館を継ぐなんて言い出したらどうする気だい?僕は嫌だからね・・そのために薫子にはしっかりしてもらわなくちゃ」 「・・・」 「わかっているよね?あの子は君の過ちなんだから」 「・・わかってる。私だって冬馬を継がせる気はないわ。あの子に継がせたら、周りからなんて言われるか・・」 冬馬の父と母は二人で黙り込む。 それから父は腕時計で時間を確認すると「この話はまた後で」と母の背中を押した。 二人は旅館の正面ロビーの方へと静かに歩いていく。 冬馬と世南は二人の姿が見えなくなるまでジッとそこで様子を伺った。 それから二人の姿が消えると、冬馬はハァァと長いため息をついた。 世南はそんな冬馬から視線を逸らし俯きながら言った。 「・・冬馬君、大丈夫?」 「・・別に・・・それより、早くここから出ようぜ」 冬馬はそう言うと、早足で「たけうち」の敷地外へと歩いていく。 世南はその後をひょこひょことついて歩いてきた。 「たけうち」から続く坂道を半分ほど降りかけたところで、冬馬はピタリと足を止めた。急に止まったので世南はバンと冬馬の背中にぶつかり「わっ」と小さな声をあげる。 そこはちょうど冬馬の家の前だ。 緑の木が家を囲うように周りに生えている。 正面からは家の大きさがあまりわからないようになっているのだ。 一見静かに、そして遠慮がちに建ってはいるが、一歩中に入ればそこは見栄と体裁だけにこだわった品のない空間が広がっている。 「・・冬馬君?」 冬馬が足を止めて動かないので、世南は不安そうに顔を覗き込んだ。 「・・・別にたいした話じゃないけど・・」 冬馬は自分の家を見つめたまま静かに口を開いた。 「俺は母親の浮気でできた子どもなんだよ。しかも父親と婚約したばっかりの頃にだぜ。本当呆れるよな」 「・・え」 世南の丸い瞳が驚いたように開いて揺れる。 「父親は元々うちの旅館で働く優秀な従業員だったんだって。それで、当時女将だった祖母が娘の婿にって縁談をまとめて、すんなり婚約までしたんだ。けど・・やっぱり親の決めた相手ってのがつまらなかったのか、俺のお袋はある晩にこっそり家を抜け出して、観光にきていた男とやっちゃって。それでできたのが俺ってわけ」 「・・・」 「妊娠がわかった時期と籍を入れた時期が近かったから、世間的には父親の子だと俺は思われてるけど。でも一部の人間はこの話知ってるよ。俺も中学の時、古い従業員のおっさんに聞かされたからな。親のこんな話、本当恥ずかしいよ・・」 冬馬は自虐的な顔をして笑った。 笑いでもしないとやっていられない。 あの日までは・・自分の出生の秘密を知るまでは、自分はただの何の問題もない人間だと思っていた。 父親は昔から自分に無関心で妹のことばかり気にかけていたが、それはやはり娘が可愛いからだろうと何故だか納得していたのだ。 むしろ口うるさくない父親を持ってラッキーだとすら思っていた。 それが・・ 中学一年生の夏休み。 母親から小遣いをもらう代わりにと旅館の清掃の手伝いを始めた。その時清掃の仕方を教えてくれたのが昔から働くベテランのおじさんだった。 おじさんの年齢は六十代半ばといったところだろうか。気さくで明るく祖母とも昔馴染みのようだった。 祖母の若い頃の話や母が子どもだった頃の話も沢山してくれた。 厳しく怖い母親の、幼い頃の一面を聞くのは楽しいものだ。 興味本位で色々なことを聞いてくるものだから、そのおじさんも口が緩んでしまったのだろう。 「坊ちゃんのね、本当のお父さんは違う人なんだよ」 その言葉を言われた時の、頭が真っ白になる感覚は一生忘れられない。 けれどそれと同時に、今まで自分なりに納得し考えないでいた、父親の自分への態度の理由。 それがはっきりとした輪郭を持って現れたのを感じた。 父親のそれは無関心ではなく嫌悪からくるものだったのだ。 たとえ無関心でも、父親のことを親として慕い接していた、それまでの自分が恥ずかしくなった。 家にいることが嫌になり、学校が始まると放課後ギリギリまで学校に残っていた。 それからクラスの友人に誘われるがままに軽音学部に入り、ますます家にいる時間は少なくなった。 それでも他に考えることがあるのは良いことだ。 薫子も言っていた通り、軽音学部に入ってからは気持ちも軽くなった。 自分には音楽がある。 家のことなんてどうでもいい。 そう思うことで考えないように蓋をしていていたのだ。 自分の存在が一点の汚れであることを。 でも・・ 「母親も、俺のことそういうふうに思ってたんだなぁ・・」 冬馬はボソリと呟く。 「え・・・」 世南は心配そうな顔で冬馬を見つめた。 両親に、自分からこの話を問いただしたことはない。 知らないふりをしてやればいい。そうして大人になったら、何も知らなかったという顔でこの家から距離を置けばきっと丸く収まるのだろう。 そうしようと思ってはいたけれど、母親のことは少し気がかりだった。 母親だけは、自分が居なくなることを惜しんでくれるのではないかと思ったからだ。 父親は自分に無関心だったが、母親は昔から厳しかった。 とにかく口うるさく、時には過保護なのではと思うほどに手をかけてくれた。 それを煩わしく思いながらも、同時に母親は自分の味方でいてくれているとも思えていたのだ。 けれど・・ 『・・わかってる。私だって冬馬を継がせる気はないわ。あの子に継がせたら、周りからなんて言われるか・・』 あれが母親の本音なのだろう。 俺の存在は・・母親の、この家の、汚点なのだ。 「・・冬馬君?」 世南の温かい手のひらがふわりと冬馬の頬に触れた。 気がつくと小さな雫が頬を静かに伝って落ちてきている。 それを、世南の指が優しく掬ってくれた。 「・・今まで、考えないようにしてきた。俺には、音楽が・・あるし」 冬馬は詰まる喉から必死に声を搾り出す。 「でも・・その音楽もなくなって。もっと・・しっかりしなきゃって、今まで向き合ってこなかった家のことを考えようって思い始めてた。けど・・」 冬馬はズッと小さく鼻を啜る。 それからトンと自分より低い位置にある世南の肩に頭を預けて項垂れながら言った。 「俺には・・もう、なにもないんだな・・」 言葉に出してしまったら、急にそれが現実になって襲いかかってきたような気がして、ボロボロと涙が溢れてきた。 声は出したくなくて、世南の肩に強く瞼を押し付ける。 世南はそんな冬馬の背中を静かにポンポンと叩いた。 それから優しい声で、冬馬を宥めるように言った。 「大丈夫。何かがなくなったってことは、新しい何かを入れる場所ができたってことだよ。大切なものは、きっと一つじゃない」 「・・・」 冬馬は鼻を啜りながら世南の言葉を頭で反芻する。 大切なものとはなんだろう。 家族は、生まれた時からそこに居た。 母親からの愛を、履き違えながらも味方だと思い甘えていた。 でも、それはもう違う。 音楽は、いつの間にか大切なものになった。 やってみたら楽しくて、バンドメンバーに入れてもらえてからはさらに楽しくなった。夢中になって、勝手に居場所だと思っていた。 でも、それも・・思い違いだった。 大切なものを見つけるなんて簡単には出来ない。 だってそれは・・作ろうと思って出来るものではないから。 頭を上げて、そっと世南の顔を見下す。 少しだけ心配そうに瞳を揺らしながら、けれど優しく微笑む世南と目が合った。 少し前から、気づいていた。 世南が、自分にとってかけがえのない存在になっていることを。 大切なものというのなら、それは・・・ 「世南・・・」 「うん?」 「俺と・・一緒にいて欲しい。世南のことが、好きだから・・」

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