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第2話

***  職員が五人しかいない区役所の支所の小さな区民センターに勤めている慧は、残業はほとんどない。住民票や印鑑証明、戸籍の届出の受付が終わる五時には退庁し、スーパーで夕食の材料を買ってまっすぐアパートに帰る。食べたいものを気ままに作りひとりで食べ、その後は読書や映画鑑賞などでのんびりと過ごす。  判で押したような単調な毎日をつまらないと感じたことは一度もないし、変化を求めたこともない。人づき合いの苦手な慧はひとりでいる方が気楽だったし、刺激はないが平穏な日々に満足していた。  だがここ数週間は気持ちが妙に浮き立ち、帰宅する足取りも心なしか弾んでいた。もちろん、ライトのせいだ。 「ただいま」  アパートのゲートをくぐりながら答える人もいないのに挨拶し、いつものようにまず宅急便の受け取りボックスを開ける。ネット通販のヘビーユーザーにも関わらず昼間留守にしている慧には、このボックスの存在はありがたい。  中を覗くと三十センチ四方の箱と、一輪のあじさいの切り花が見えた。取り出した箱はずっしりと重量感があり、差出人は田舎の母で品名は『野菜』となっている。    慧の実家は東北の小さな村の旧家で、古くからの農家だ。跡は兄が継いでいるが、次男の慧も地元の大学卒業と同時に村の有力者の娘との見合いを強要された。思春期の頃から恋愛対象は同性だった慧にとって、受ける気のない見合いをするのは耐え難く、とはいえ古い村のしがらみや圧力には抗しきれずに、思い切って両親に本当のことを打ち明けた。  笑って受け入れてもらえるとは思っていなかったが、結果は予想以上に悲惨だった。昔気質の父は烈火のごとく怒り、さんざん罵倒した挙句慧を家から叩き出したのだ。  勘当されひとり上京し就職した慧を母は気遣い、父に内緒で畑で採れたものなどをこうして定期的に送ってくれる。もう実家には帰れず頼れる家族を失ってしまった慧には、そのささやかな心遣いが温かく嬉しかった。    小包の上に乗っていた切り花の方は、慧が朝入れたものだ。『ご苦労様。いつもありがとうございます』と書いた添付のカードは、宅急便の配達人宛のメッセージだ。  田舎からの送品や通販などで、宅配には毎日のように世話になっている。荷物が届きそうな日にたまに、アパートの花壇で育てている花を礼の代わりに入れておくことにしているのだが、なかなかもらっていってくれない。客からは金品を受け取ってはならないという決まりでもあるのかもしれない。  まだ会ったことのない配送業者がその花を見て、せめて目だけでも楽しんでいってくれていることを願いながら、慧は小包と花を抱えたまま器用に部屋の扉を開けた。無人の部屋に向かって、もう一度「ただいま」と挨拶する。  花をコップに生けてから、まっすぐにパソコンに向かい電源を入れた。待っていたメールが来ているのを見て、唇は思わず微笑を刻む。  差出人は出張ホストクラブ『アイリス』。今週の土曜日にライトが指名を受けてくれたという知らせを確認すると、抑えきれない嬉しさがこみ上げてきた。もう何度となく見たリンク先のホームページを開き、ホスト一覧画像の中ちょっと気取った微笑を浮かべているライトに「ありがとう」と礼を言った。    数週間前、ネットをさまよっていてそのクラブに行き当たったのは、本当に偶然だった。高齢の大家に替わりアパート裏花壇の花の世話をしている慧は、その夜アイリスの花の育て方を調べていた。花の名で検索して上から順に開いていき、何ページめかで妖しげな紫色の扉の画像に当たった。年齢確認を認証して先に進んだのは、単純に何のサイトかと好奇心が湧いたからだ。  トップページの上方に『あなたに夢のひとときを』のキャッチコピー、その下にはそれぞれに個性的な美しい青年達の画像が笑いかけていた。『出張ホスト』というサービスらしいとはわかっても画面を閉じることができなかったのは、その中のひとりに思わず目を奪われたからだ。  その青年は、並み居る美形の中目立って造作がいいというわけではなかった。だが、全体的に作り込まれた美しさの中にあってナチュラルな笑顔が光り、爽やかで明るい雰囲気なのにほのかな色気のあるような、不思議な魅力を放っていた。    それが、ライトだった。    理屈抜きで好きな顔だと思った。二十人中八位という順位は高い方ではないだろう。しかし慧の目には上位ランクで気取った笑みを見せている人気ホスト達の誰よりも、ライトが魅力的に映った。  どうかしてしまったのではないかと心配になるくらい胸が高鳴り、瞳はライトの画像に釘づけになった。彼がしゃべったり笑ったりするところを間近で見てみたいと思った。平穏で静かな毎日の中にいきなり訪れたときめきに、慧は喜びに浸るよりまず狼狽し、あわてて画面を閉じてしまった。    だが、忘れてしまおうと思っても無理だった。その後も慧は、パソコンを開くたびに震える指で『アイリス』の扉を叩き、ライトの画像を見にいった。彼の写真を見るたびに甘やかな幸福感が全身を包み、今慧の知らないどこかで生き生きと動いているのだろう生身の彼を思い浮かべた。そのときめきは、本や映画で知る『一目惚れ』というものにとてもよく似ていた。    二十六歳というこの年まで、慧は誰ともつき合ったことがない。父親に口汚く罵倒されたのがトラウマとなり、自分は胸を張って歩けない異常者なのだという意識が植えつけられたからかもしれない。かといって、恋の相手がいなくてもとり立てて不自由はなかったし、同性愛者である自分にそう都合よく出会いがあるとも思っていなかった。  けれどライトの画像を見ているうちに、気持ちに変化が起こってきた。ほんのひとときでいい。つかのまの甘いときめきと幸福感を味わい、素敵な思い出を作ることができたら、それはとても得難い宝物になるのではないか。そう思い始めたのだ。  幸運なことに、ライトはそれを仕事としている人間だった。対価さえ支払えばいくらでも相手をしてくれ、コミュニケーション下手な慧にも笑顔で会話に応じてくれるはずだった。    ――もしも彼と話ができたら、それだけで一生の思い出になるかもしれない……。  何度も逡巡した挙句、ライトを知って十日目に、慧は震える指でキーボードを叩き『アイリス』に登録していた。いい年をした男が画像でしか知らないホストに夢中になり、恋人同士のようなひとときを過ごして思い出を作りたいなどと願うのは、傍から見ればさぞ滑稽だろう。だが、慧は真剣だった。  そしてその望みは、今叶い始めている。  前回は顔合わせだけだったので、次からがデートの本番だ。そう思うと今から緊張してくる。   ――ライトはどんな場所が好きだろう。  朝刊の折り込みで入ってきた地域情報紙を、慧はマガジンラックからそっと引き抜く。目立たない一番下に掲載された、色とりどりのあじさいが綺麗に咲いている庭園の写真を、慧はそっと指でなぞった。『あじさいの咲く庭』と書かれたその庭園に、花の中でも特にあじさいが好きな慧は、とても心惹かれていたのだ。    ――ライトと、観に行けないかな。  想像しただけで胸がときめいたが、若者のデートコースとしてはどう考えても地味な気がする。やはり場所は、プロである彼に任せた方がいいだろう。  慧は『アイリス』にお礼の返信をすべく、胸を躍らせながらパソコンに向かった。

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