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第7話

***  止むことなく降り続く雨の中、慧は家路を急ぐ。最近は寄り道せず即行で帰宅し、まずパソコンを開けメール確認をするのが習慣になっていた。  楽しみがあると毎日が輝き始める。ライトとの次のデートまであと何日と数えながら過ごす日々は、かつての平穏な生活からは考えられないくらい新鮮なときめきに満ちていた。  恋をすると世界の色が変わって見えるというのは本当だ。陰鬱な雨に煙る景色ですら今の慧の目には美しく映り、梅雨という季節を好きになれそうな気さえする。 「吉沢さんおかえり! いつも花の世話ありがとうね」  足早にアパートに向かう途中で、三軒隣りに住む大家の老婦人が庭先から声をかけてきた。 「大家さん、こんにちは。いえ、世話は僕がやりたくてやらせてもらっているので」 「あんたが見てくれるおかげであじさいが今年も綺麗に咲いて。もうじき梅雨が終わると散ってしまうのが残念だねぇ」 「また来年のお楽しみですね」  笑顔で応えながら、来年の今頃にはもうライトとは会っていないのだと気づき、なんとなく寂しくなる。これから毎年この季節にあじさいを見るたびに、彼のことを思い出して切なくなってしまいそうだった。 「それにしても吉沢さん、最近何かいいことあったんじゃないの?」  老いても女性特有の勘のよさは健在なのか。大家は含んだような笑いで、垣根越しに慧の方に身を乗り出してくる。 「なんか明るくなったよ。彼女でもできた?」 「えっ、いえ、あの……わかりますか……?」 『色に出にけり』というやつだろうか。もう五年近くつき合っている実の祖母のような大家には、やはり隠しておけないらしい。どぎまぎと聞き返す慧を見て、大家は豪快に笑う。 「やっぱり! まぁなんでこんないい男がいつまでもひとりなんだろうって不思議だったけど、見る目がある子はいるもんだね。今度うちに連れておいでよ。ご馳走するから」  慧は火照る頬を意識しながら曖昧に「はい」と頷く。照れくさいながらも嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。  ライトを恋人だと大家に紹介し、三人でご馳走の並んだ食卓を囲む図を想像してみると、なんだかとても温かい気持ちになった。絶対に叶わない空想だから、なおさら綺麗な画像が浮かぶのかもしれない。    大家に手を振り、アパートの方に向かいかけた足がふと止まった。  雨に霞む視界の中、アパートのゲートの少し先に街中でよく見かける車が停まっている。トレードマークの白い猫のロゴは、いつも来てくれる白猫宅急便だ。ネット通販会社から今日荷物が届くことになっていたのだが、この地区の配達は午前中が多く夕方の今時間見かけるのは初めてだった。  作業着風のユニフォームを着た青年がアパートから出て来て、雨を避けるように車の方へ駆けていく後ろ姿が見えた。その右手には、慧がボックスに入れておいた一輪のあじさいが握られている。    ――気づいてくれたんだ。  心をこめて育てた花と感謝のメッセージを、やっと受け取ってもらえたことが素直に嬉しかった。 「ご苦労様! いつもありがとうございます」  思わず声をかけると、青年の肩がビクリと撥ね足が止まった。立ちすくんだ彼のそのすらりとしたシルエットに既視感を覚え、慧の鼓動はひとつ大きく打つ。    ――まさか、ライト……?  キャップをかぶっているので髪型はわからないが、背の高さや体格がライトに酷似している気がする。  まさか、そんなはずはない。きっと毎日ライトのことばかり考えているから、ちょっと姿形が似通っているだけでそんなふうに感じてしまうのだ。  慧はあわてて首を振り妄想を打ち消したが、胸の高鳴りは治まらない。  雨の中、もう一度目をこらす。やはり似ている。正面に回って顔を見てみたい衝動にかられたが、なぜか足が動かない。  その場に突っ立ったままの二人の間に、妙に張り詰めた空気が流れる。青年は立ち止まったはいいが振り向いて何か言うどころか、背を向けたまま微動だにしない。もしかしたら花を持ってきてしまったことを、咎められるとでも思っているのだろうか。 「あの……」  思い切って声をかけると、それを合図のように青年が動いた。慧を一顧だにしないまま、キャップを目深にかぶり直して車の方に駆けていく。 「あ……雨だから、運転気をつけて!」  あわててかけた声にも応えずに、配達員はまるで逃げるように車に乗り込むと、そのまま発進し雨の中に消えていってしまった。  一気に肩の力が抜け、慧は深く息をついた。  もしも彼がライトだったのなら、声で慧だとわかったはずだ。応えてくれなかったということは、やはり単なる他人の空似で別人なのだ。大体そんな偶然、あろうはずがない。  それにしても、ちょっと背格好が似ていただけでライトではないかと思ってしまうなんて、これはかなりの重症だ。   ――いくらなんでも、少し舞い上がりすぎてるか……。  慧は妄想を振り切るように首を振って苦笑し、「ただいま」とゲートをくぐると宅配ボックスを開けた。 「っ……」  ネット通販のダンボールの上に何か乗っている。慧は手を伸ばし、その一輪の可憐な白い花をそっと取り上げる。かすみ草だ。もちろん慧が準備したものではない。入れた人間は、たった一人しかいない。  とっさにアパートから駆け出て、車が走り去っていった方を見やった。車影はもう完全に見えなくなっている。 「ライト……?」  君じゃなのか、と心の中で思わず問いかけると、胸がキュッと音を立てて締めつけられた。あり得ないと思いながらも、突拍子もない空想に微かな真実味が出てきた気がして甘い困惑が全身を包む。  小さな可愛らしい花がより集まった純白の清楚なかすみ草を、慧は混乱を静めるようにそっと胸に抱いた。

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