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第11話
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限られた時間の中で恋人同士のように振る舞い楽しくデートして、大切な思い出を作れればそれでいいと最初は思っていた。それ以上は何も望んでいないはずだったのに、もしかしたらいつのまにか分不相応な夢を見てしまっていたのかもしれない。
カフェの前で仕事中のライトと鉢合わせした後は、二次会で誰と何をしゃべったのかもほとんど憶えていない。あれからもう一週間経つのに、ライトと客の女性との仲睦まじい姿は慧の脳裏から消えてくれなかった。
二回のデートの中で、少しだけ互いの距離が近づいた瞬間があった気がした。だがそれもすべて、ひとりよがりの錯覚だったのだろう。あじさい園で向けられた熱い眼差しも、観覧車でかわされた慧だけが特別だと匂わせるような会話も、本当は他のゲストにも日常的にしている営業用のものだったのかもしれないと思うと、胸がチクチクと痛んだ。
『アイリス』からはあの夜以来何度かメールが届いている。ライトが会いたがっているが予約の方はどうするか、という内容のそれに、慧は返事を保留していた。
二度のデートで思い出は十分できた。最後にもう一度会ったところで、彼の笑顔にも、優しさにも、他の客の影を感じてしまいそうでつらい。
――やはりもう、このまま終わりにした方がいいのかもしれない。
悩みに悩み抜いた末にやっと決心し、帰宅したらすぐ『アイリス』に断りのメールを送ろうと、慧は家路を急いでいた。七月に入り梅雨も終盤を迎え、雨が名残を惜しむかのようにしとしとと降り続いている。庭園の東屋でライトに肩を抱かれ、小降りになるまで雨を眺めていたときのことを思い出し、胸がまた淡い痛みに包まれる。
帰ってメールを一通送ったら、夢心地の恋愛体験も終わりだ。また以前と同じように、平穏な日常を変化など求めず着実に生きていこう。心の奥にしまった綺麗な思い出を、飽くことなく何度も取り出し、思い返しながら。
宅配ボックスを覗くと母からの小包が届いていた。そして、その上に今日も変わらず乗せられていた一輪のかすみ草に、慧はわずかに目を瞠る。荷物が届くとは思っていなかったので今日はあじさいを入れておかなかったし、たとえ予定していたとしてもメッセージに悩んで結局書けなかっただろう。
それなのに彼は、いつもどおりに花を置いていってくれたのだ。
ふいに、荷物を届けにくる配達員を待ち伏せて捕まえ、その正体を確かめたいという衝動にかられたが、理性がすぐにその愚かな考えを消し去る。そこまで自分を追い詰め情けない真似をして、たとえ彼が本当にライトだったところで何が得られるというのだろう。ただのストーカーになり果て、面倒な客と疎まれるだけだ。
諦めの悪さを自嘲しつつ花と小包を抱え、慧はいつものように「ただいま」とドアを開けた。誰も応える者のないガランとした部屋が、今日はやけに寒々しく感じる。不思議だ。以前までは寂しい部屋だなどと思ったことはなかったのに、ライトともう会うまいと決めた今、なんだか急に自分が孤独だということが意識されてくる。
迷いを払うように首を振りかすみ草を一輪挿しに生けると、メール送信を先送りにして母からの小包の封をはがした。中に入っていたのはとうもろこしだ。収穫時期になると家の裏の畑に見事なとうもろこしがたくさん実ったのを思い出し、胸が淡い懐かしさに包まれた。
瑞々しい野菜と一緒に、珍しく母からのメッセージカードが入っていた。
『慧さん、元気ですか? 畑で採れたとうもろこしを送ります。調理せずこのままで食べられますよ。多めに送るので好きな 人と一緒に食べてください。こちらはみんな変わりありません。たまには連絡くださいね』
傷んでいた胸がじんとぬくもりで満たされた。勘当されてからは敷居が高く電話の一本もかけられないでいた慧を、変わらず気にかけてくれる母。慧が誰かを好きになるとしたら相手は同性だとわかっているのに、『好きな人と一緒に』と書くことで不肖の息子を許してくれているそのメッセージを、慧はそっと胸に抱いた。
――母さん、僕にも好きな人ができました。
心の中で報告すると、自然にライトの顔が浮かんできた。もう会わないのだと思ったら、胸が握りつぶされそうに苦しくなってくる。
蘇ったその笑顔が次第に崩れ、カフェで鉢合わせしたときの強張ったような表情に変わっていき、慧は首を振った。
――やっぱり、あれを最後にはしたくない。
気まずいままで終わりにはしたくない。最後はちゃんと感謝の気持ちを伝え、笑顔で別れたい。期間限定の擬似恋愛でも一緒にいた時間はとても楽しかったと、後の日に互いに思い返せるように。たとえ、ライトにとって無数のゲストとの記憶の中に、印象の薄い慧のことなど紛れて消えてしまったとしても。
思い出作りから始まった夢のような恋。綺麗に終わらせるために、あと一回だけ機会が残されていた。
――ライトに会いたい。
本当は会いたかったことを認めてしまったら、堰を切ったように想いが溢れ出した。会いたい、会いたい、と全身が脈打って、閉じた瞼が自然に熱くなる。
見えない何かに背を押されるように、慧はパソコンを振り向いた。
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