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第13話
いきなり真顔で言い出したライトに、慧は面食らう。
「え……でも君は、けじめは必要だって……」
「もうデート練習も終わりだし、最後くらいいいだろう? ぶっちゃけあんたといるときは、肩の力抜いてたいってのが本音なんだ。できれば膝枕とかしてもらってさ」
相手の軽口に、別れのタイミングを計っていた慧の緊張も、からまっていた糸がほどけるように解ける。
残りの三十分、素のままのライトが一緒にいてくれるというのなら、もちろん慧もその方が嬉しい。物寂しい夕陽の景色が、悲しい別れの記憶から楽しい思い出に変わるかもしれない。
「うん、そうだね。じゃ、残りの時間は自然体で行こう」
慧も精一杯明るい笑顔を作り、持ってきていたレジ袋を思い切って差し出した。
「膝枕はしてあげられないけど、よかったらこれ……」
『好きな人と食べて』という母のメッセージが頭に残り、つい持参してきてしまったとうもろこしだった。だが考えてみれば美食に慣れているライトが、新鮮とはいえこんな土くさい野菜を喜んでくれるとは思えず出しかねていたのだ。
ところが予想に反して、袋を覗き込んだ相手は大きな瞳を輝かせる。
「おっ、とうもろこし! うまそうだな」
嬉しそうなその様子は、どうやら営業用のリップサービスではないらしい。
「実家の母が送ってきたんだ。うちの畑で採れたもので、君の口には合わないかもしれないけど……」
そっと窺い見ると、ライトは声を立てて笑った
。
「何だよ、それ。実は俺、気取った味にはもう飽き飽きしてるんだ。もらっていいのか?」
「どうぞ。それ、そのまま食べられる種類なんだよ」
「へぇ。じゃ、早速味見だ。いただきます」
一本取り出すなり、ライトはいきなり黄色い実にかぶりつく。食べ方は豪快で、カフェで上品にステーキを切り分けていた洗練されたホストと同じ人物とは思えない。
「甘い! すごいうまいよ、これ。ほら、慧さんも食えよ」
「あ……うん」
まだ試食していなかったとうもろこしを袋から取り出すと、慧も一口齧ってみる。温かい甘さが口いっぱいに広がった瞬間、瀬戸際で押し留めていた切なさが一気に溢れてきた。
――母さん、今僕は大好きな人と一緒に、母さんのとうもろこしを食べてるよ。
誰かと幸せになるどころか、誰かを好きになることも自分の人生にはないと思っていた。けれど、まるで奇跡に恵まれるように、ライトと出会った。
最初は、動かないただの画像の容姿に惹きつけられた。実際に会って、笑ったりしゃべったりする姿を見てさらに好きになった。会うごとに彼との思い出が増え、生まれて初めてのときめきに胸がいっぱいになった。
――本当にいいのか? 終わりにしてしまっても……。
今さらのように湧いた小さな疑問がどんどん膨れ上がり、募ってくる焦りは鼓動を速めていく。寄せてくる胸苦しさを無理矢理飲み下し、慧は頭を真っ白にしようと努める。もう余計なことは一切考えず、残り少ない恋人同士のひとときを記憶に刻んでおきたい。
会話が途切れたタイミングを見計らったかのように、ゴーッという低音がはるか上空から近づいてきた。
「おっ」
早くも食べ終えたライトが立ち上がり、彼方を通過していく飛行機を手びさしで見送る。
「ここからだと、さすがにどこの会社かわからないか」
「北海道に行く飛行機だといいな……」
慧が無意識に口にした願望に、ライトは振り向いて微かに笑う。
「ケイさん、最後だから、俺の秘密聞いてくれるか?」
オレンジ色の空に消えていく機影に視線を戻し、ライトが唐突に言った。
「秘密……?」
「ああ。前に俺、大学院生だって言っただろう? あれは嘘だ。金稼ぐために、働いてる」
「え……」
「俺な、航空機の整備士になるのがガキの頃からの夢なんだよ。それで、専門学校に行く金貯めてるんだ」
思いがけない告白に驚き、慧は大きな背中をみつめ瞬く。
「けど、最近はもう忘れかけてた。本職とこのバイトで毎日ヘロヘロになって、叶うかもわからない地味な夢のためにしゃかりき働くなんて馬鹿らしいって思い始めてたんだ」
沈みゆく夕陽を見ているライトの表情は、慧のところからは見えない。だがおそらく今の彼は、慧が好きだった飾らない本当の笑顔になっているのだろう。
「でもあんたと会ってから、ケイさんはどう言うだろうって考るようになった。笑っちまうようなガキの頃の夢だけど、あんたなら笑わないで聞いてくれるんじゃないかって思ったんだ」
純粋な一言一言が胸に染み入るのを感じながら、大勢の客の中で自分だけに明かされたライトの秘密を慧は胸に刻む。そして、こみ上げてくるものが瞳を霞ませそうになるのを耐え、迷いなく断言する。
「笑うわけないだろう。すごく素敵なことだと思うよ」
振り向いたライトは微かに瞳を見開いた。
「飛行機を見るときの君の目はとても生き生きしてる。本当に好きなのがよくわかるよ。だからきっと、その夢は叶う」
「ケイさん……」
「諦めないでがんばって。離れていても、僕は応援してるから」
エールを送る慧を、じっとみつめていたライトの顔が一瞬歪んだが、すぐに「サンキュ」と、屈託のない笑顔に輝いた。
「夢が叶ったら、俺の整備した飛行機にあんたを乗せてやるよ。世界一安全だぞ」
口を開けば涙声になってしまいそうで、もう答えられない。眩しい笑顔をみつめていられなくて、慧は思わず顔を背ける。
――駄目だ……もう、これ以上は無理だ。
自分をごまかすのもいい加減限界だった。
彼が夢を叶えるのを、本当はこれからも隣で応援したい。こうして並んで夕陽を眺めて、母が送ってきたとうもろこしを一緒に食べて、気持ちの赴くままに募る想いを告げて、お互いの夢を応援し合って……そういう、どこにでもいる普通の恋人同士になりたい。
思い出だけでいいなんて、そんなのは嘘だ。本当は自分だけに微笑んでほしい。優しい言葉をかけてほしい。金で繋がる関係ではなく、ライトの心が欲しい。そのすべてが欲しい。
それが余計なものをすべて取り去った、今の慧の本心だった。
「ケイさん?」
とうもろこしを傍らに置き、顔を隠すように手で額を押さえた慧の肩に、ライトの手が乗せられる。
「やっぱり、無理だよ……笑って別れるなんて……」
「えっ?」
ライトの声は困惑している。当然だろう。ついさっきまで物分りのよさそうな顔で穏やかに微笑んでいた慧が、急に取り乱し始めたのだから。
今の自分がどんなにみっともないことになりかけているか、慧にもよくわかっていた。けれど、もう抑えられない。
「嘘をついてたのは、君だけじゃない。僕もだ。本当の僕は強欲なくせに見栄っ張りで、プライドが高いわりには傷つくのが怖い臆病者なんだよ」
感情が昂ぶり、心のままに言葉が零れてきてしまう。
「おい、何言ってるんだ? こっち向けよ」
動揺し苛立つ声。顔を隠す手をどけられそうになるが、慧は必死で抗う。やめろという理性の声を聞かず、溢れる言葉は堰を切ったように止まらない。
「君と会う前は、僕はずっとひとりだった。寂しいなんて思ったことなかったのに、今はまたひとりに戻るのが怖い。本当は、このまま君といたい! お金を払ったらいてくれるというのなら、全財産を投げ打ってでもそうしたいよ!」
「ケイさんっ」
強引に手をどけられ顎を捉えられ、涙で潤んだ瞳をまともに覗かれる。さぞ情けない顔をしているのだろう。ライトの目が驚きに見開かれた。
「まさか……彼女の話は、嘘か……?」
呆然としたつぶやきに、頬がカッと熱くなる。抑えられない感情に流されて、すべてをぶち壊しにしてしまった。冷静さを失い取り乱して、墓場まで持っていくつもりだった哀れな想いをぶつけてしまった。
「どうなんだよ! 嘘なのか?」
今までになく鋭い口調で問い詰められ、慧は萎縮し視線を逸らそうとするがライトはそれを許さない。
「ライト、放して……」
「あんた馬鹿だろうっ」
震え声で訴える慧を、ライトは初めて聞く切なげな声で詰り、逃げようとする背を捉える。次の瞬間には唇を奪われていた。
キスされていると認識した瞬間、不安や動揺を凌駕する勢いで、甘やかな感覚が全身を駆け抜けた。
ライトの唇は熱く、慧の怯える唇を情熱的に翻弄する。これまで誰にも許したことのなかった口腔に舌が強引に分け入ろうとするのを、なすすべもなく受け入れてしまいそうになる。
「んっ……や、ライト……っ」
「ケイさん……」
離れた唇でやめてほしいと訴えると、熱のこもった声で名を呼ばれ体が震えた。
「本当のこと言ってくれ。あんたの本心、もっとぶつけてくれよ……っ」
苛立たしげな一言とともに、震える唇を再び覆われる。大波のように寄せてくる陶酔に飲み込まれてしまいそうで怖くなり、慧は残っていたすべての理性を総動員してライトを突き放した。そのままベンチから飛び退くように立ち上がる。
ライトはまじろぎもせず慧をみつめてくる。その澄んだまっすぐな瞳に嘘をついていたことを責められているように感じて、慧は急に怖くなる。
「ごめん、さっきのは……忘れて」
混乱した慧は首を振り背を向けると、そのまま駆け出した。
「ケイさん! 待てよ!」
追ってくる足音を聞きながら、警報が鳴り降りかけている遮断機をくぐって踏み切りを駆け抜ける。間一髪で通り過ぎた電車が、ライトの声をかき消した。
そのまま行く当てもなく闇雲に走り、息も絶え絶えになって振り向いたときには、ライトの姿はもう全く見えなくなっていた。
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