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第3話
髪の毛がすべて入るようにしてキャップを目深に被り、マスクをする。変装はこれだけで十分。サングラスまでかけてしまうと、逆に怪しさがまして目立ってしまうことが多い。弟と2人、エレベーターに乗り込むと俺は自然に手を繋いだ。
小さな手が一瞬、びくりと震える。しまった。妹の子どもたちの世話が染み付いて自然に手を繋いでしまった。
俺は小さな手を優しく握りなおす。
「迷子になったら困るだろ? だからこうして手を繋ぐんだよ」
弟は俺の目を見ると、わかったというようにこっくりと頷いた。それが可愛くて思わず笑ってしまう。もともと子どもは好きだった。
こんなに可愛い子どもが、インフェリアというだけでネグレクトと虐待を受けていたなんて、許せることではない。
インフェリアとは、最低ランクのアルファの名称だ。
俺が転生したこの世界の第二の性には、いくつかの階級がある。
ベータには階級はないが、アルファとオメガはそれぞれ3つのクラスにわけられている。
最強と言われ、アルファの0.3%しか存在しない「アルティメット」。大半を占めるノーマル、その下に、インフェリアと呼ばれる劣性のアルファがいる。インフェリアもアルファ人口の中では0.5%と言われている。
インフェリアは見た目の美しさだけはアルファの特徴を備えているのだが、能力はベータと同等か、それより劣る場合が多い。中には金成のように身体、精神ともに成長が著しく遅い者も存在する。
金成はインフェリアの中でも、特に劣等という評価を下されていた。言葉を話すことができない上に、もう何年も身体の成長もとまったままだった。
本来はもう15~16歳になってもいい年齢のはずである。
けれど、知能も身体も、一向に成長する兆しは見えなかった。
一方、オメガは至高のオメガであるシュプリーム、そしてスタンダード、それからローの3つに分類される。ほとんどのオメガがスタンダードに属する。オメガ人口の0.1%ほどしか存在しないと言われるシュプリームは、他のオメガとは何もかもが違っている。
なによりの違いは、シュプリームを番にできるのは、アルティメットだけだということ。それ以外の階級のアルファに犯されたとしても妊娠することはできない。さらに相手がアルティメットであっても運命の番でない限り、噛まれても番にすることはできない。
フェロモンも、アルティメットにしか感知することを許さない。
そのため、それ以外のクラスのアルファやベータを誘惑してしまうこともないのだ。
運命の最強のアルティメットアルファだけが支配することを許された性、それがシュプリームオメガなのだ。
最強かつ最高のアルファを誘うために、容姿も頭脳も非常に優れており、シュプリームのほとんどが社会的にも高い地位を得ている。他の階級のオメガたちのように、差別されたり蔑みの目で見られることもない。
有名な女優だった金成の母親は、俺と同じシュプリームオメガだった。誰が藻が振り返るほど美しいシュプリームたちは、その容姿を生かして芸能界などの華やかな世界で活躍していることが多い。
金成の実の父親はハリウッドで人気のあった若手のスターで、金成と同じ髪と目を持つアルティメットアルファだった。
確か、撮影中の事故で金成が生まれてすぐに死亡したという話だった。
最愛の夫の死、さらに生まれた子どもがインフェリアという事実。度重なる強いショックとストレスから、金成は母親からも虐待やネグレクトを受ていたらしい。
だから金成は飛鳥との同居でどんなにひどい仕打ちを受けても、いつも大人しく受け入れていたのだろう。広くて豪華な、芸能人らしいマンションの中に、金成のためのものはほとんどなかった。
マンション近辺には高級スーパーや百貨店が軒を連ねていたが、ど庶民の俺は気後れしてしまい、郊外にある大型の会員制倉庫型ショップまで足を伸ばすことにした。
体に悪そうなブルーやピンクのクリームで覆われたケーキやバカみたいに多なぬいぐるみ……それらを見つけるたびに、2人で大はしゃぎした。
広いショップの中を探索しているうちに、表情に乏しかった弟の顔は、さまざまな感情を写すようになった気がする。
帰りの車の中、金成は久しぶりの外出で疲れたのか、ぐっすりと眠ってしまった。マンションの地下駐車場に到着しても、起きる気配はない。
起こさないように小さな体をそっと胸に抱き、自宅階のボタンを押した。
アウターを脱がせると、ソファに体を横たえ、ブランケットをかけてやる。
何時に起きるか予想がつかないので、温め直しても美味しいものを作ることにした。
買ってきた食材を冷蔵庫に詰める。食材でパンパンになった冷蔵庫を眺めていると、なぜだから心が元気になる。料理は前世からの趣味だ。
飛鳥はまったく料理をしなかったらしく、高そうな器具は揃っているものの、キッチンを使用した形跡は一切なかった。もったいなさすぎる。
とりあえずカレーを作ることにして、必要な食材を冷蔵庫から取り出し、下準備を始めていく。
多めに作っておけば、俺が仕事に行っている間も困らないだろう。その他にもいろいろな作り置きを準備する。
ほうれん草のツナあえ、にんじんのラペ、小松菜やもやし、ブロッコリーなどのナムル、鶏そぼろなど……。
部屋の中に野菜や肉が煮える音や匂いが満ちてくる頃、弟が目を覚ました。
「もうすぐ飯できるからな」
俺の呼びかけに頷くと、キッチンにやってきて俺の周りをうろうろしている。
「手伝いたいのか?」
そう聞くと、また頷く。それならばとランチョンマットやカトラリーの準備を頼むと、ダイニングテーブルとキッチンを何往復もして、一生懸命テーブルに並べてくれた。
だだっ広いテーブルには、買ったばかりのランチョンマットが敷かれている。俺のは青で、弟のは黒。これは金成が選んだ。
ランチョンマットには俺の十八番である豚こまのカレー、コールスローサラダ、ソーセージとブロッコリー、コーンの入ったコンソメスープが並んでいる。
「食うか!」
2人向かい合って夕飯を食べる。飛鳥と金成が食卓を囲むなんて初めてかもしれない。家族が一緒に住んでたときさえ、こんなふうに飯を食ったことは記憶にない。
食べ終わったあとは、ソファに並んでアイスクリームを食べながらテレビを見る。
「なんかめちゃくちゃ平和だな」
お笑い番組を見ながら、しみじみしてしまう。
ダラダラしていると、突然画面に俺の顔が映し出された。
「あ、いま撮ってるドラマだ……明日、朝から撮影か~」
今回の役は、同世代の人気俳優とダブル主演のバディものだ。飛鳥は性格は最悪だけど、顔と演技力は確かにすごい。自分だけど自分じゃないような、なんだか不思議な感覚に陥る。
ふと、今日の放送回ではゲスト出演の女優とキスシーンがあった気がする。と思っていたら、そのシーンが始まった。
そこまで激しいものではないが、明らかに子ども向けではない。チャンネルを変えようとすると、さっとリモコンを奪われた。
「あ、おい! 子どもが見るもんじゃないぞ」
けれど弟はふいっと顔を背けると、画面の中の俺と女優のイチャイチャやキスシーンを身を乗り出して凝視していた。
まだまだ小さいと思っていたけど、やっぱり男なんだなあ。妙なところで感心していると、突然テレビの電源が切られる。
「なんだよ、もういいのか?」
弟は首を縦に振ると、ふわぁと欠伸をしてみせた。
「あ、眠いのか? 俺も早朝から仕事だし……ちょっと早いけど、風呂入って寝るか」
風呂が沸くと、バスタオルを2枚持って俺を引っ張る。
「なんだよ…あ、もしかして一緒に入りたいのか?」
コクンと頷く様子が可愛い。それになぜか妙に機嫌がいい気がする。
甥っ子ともこうして一緒に風呂に入ったっけ……。
「よし! じゃあ一緒に入るか」
俺は弟を抱き上げて浴室へ向かった。
体と髪を洗い、大きなバスタブに浸かる。しかもジャグジーまでついている。
「うあ~~。最高だわ……」
気持ちよくておっさんのような声が出てしまう。足の間に弟を挟んで、大の字になって、しばらく風呂を堪能する。
「……ん?」
違和感に気づき、バスタブの中に目をやる。弟の小さくて柔らかい尻が、俺の大事な場所に僅かだが触れていた。
何かを感じるわけではないが、ちょっとこれはまずい気がする。
俺は少し体を動かして、距離を取った。
しかし気づくとまた弟の尻と接触している。何度かこのやりとりを繰り返し、ふと思った。愛情が足りない子どもは身体のどこかが触れていないと不安になるのかもしれない。
抱き上げて膝に乗せてやると、なぜか少しだけ不満そうだったが、大人しくしていた。
風呂から出た後は、まず弟の髪を乾かしてやる。その後で自分の髪を乾かしていると、なんだか眠くなってくる。
「歯も磨いたし寝るかぁ。おやすみ。明日早いから朝いなくても心配すんなよ。なんかあれば、今日買ったスマホから連絡すること。わかったか?」
弟はこくりと頷く。
「じゃあな。おやすみ」
2人でリビングを出る。俺たちの部屋は隣同士になっている。ドアの前で声をかける。けれど弟はなぜかドアの前から動かない。
「どうした?」
何も言わずに、俺のことを見上げている。
「もしかして、一緒に寝たいのか? 明日早いから起こしちまうかもしれねえぞ? やめといた方がよくねえか?」
弟はイヤイヤをするように首を左右に振り、俺のボトムスを掴んだ。
こんな風にワガママを言ってくれるのが可愛い。それに今まで自分がしてきた仕打ちを考えると、断る気にはなれなかった。
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