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第13話

磯城は、橘の宮を訪れた。生まれ育った宮の懐かしい香りが磯城を迎えた。  この宮で、父上と母上との三人で暮らした時を無性に懐かしく思い出す。もうあの時代は二度と戻ってこないのか……。  今一度、あの頃のように心穏やかな暮らしに戻りたい。今の自分には過ぎた望みなのか……。 「母上、ご無沙汰して申し訳ございません。お元気でいらっしゃいましたか」  母は昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれる。それが磯城の気持ちを軽くする。 「ほほほっ、そなたが東宮の後見として忙しゅうしとるのは存じておるゆえ、気にすることなぞない。われはこのように元気じゃ。そなたも元気であったか? 少しやせたのではないか?」 「そうですか? 自分では感じませんが……おかげさまで元気に過ごしております。母上が何かとお心遣いくださり、ありがたく思っております」 「ほほほっ、先日の唐菓子もそなたの好物ゆえ届けさせたのじゃ。そうじゃ、嵯峨の兄上が大層そなたを褒めておった。東宮は勿論のこと。大王もそなたを頼りにしておると。そういう兄上もじゃ、嵯峨氏の命運を握るのはそなたじゃと、期待しておった」 「そのような……過分なお言葉でしょう」 「いいや、真の評価であるぞとわれも安堵しておる。亡き大王様のお考えはやはり正しかった。聡明であるが大王になるより、朝廷で重鎮の立場になる方が、そなたのためめになると、われにも言い残された」  先の大王の考えは磯城も知っていた。もとより、磯城には大王になる野心はない。それどころか、朝廷の重鎮になる気持ちもなかった。東宮の後見も望んでなったわけではない。後見などになったがため、葛城に囚われてしまった。  母や、大王、嵯峨氏、磯城の周りの自分への高評価と期待が、何重もの足かせにもなっていくのを感じていた。後見の立場を引かなければ、あの宮からは逃れられない。もう抗えないのだろうか……。  磯城は、がんじがらめになる己の身を思い嘆息した。それを、母である大后が知ることはなかった。磯城も母には知られたくないと思っている。  大后は、三宮の件は、自身の兄である嵯峨の大臣から聞き知っていたため、磯城の来訪の目的は速やかになされた。  来訪の目的を済ませ安堵した磯城は、暫し母との会話を楽しんだ。母の期待が、足かせになっていることは事実だが、優しい母との取り留めも無い会話に、磯城の心は和んだ。  時を忘れて話しに高じているうちに日が暮れていた。夜道は危ないと止める大后に、磯城も一晩泊まって帰ることにした。  久しぶりの橘の宮での夜は、磯城にとって深い安息をもたらした。  そして昨晩、葛城に思いのまま蹂躙された体にも優しいものになった。  東宮の宮でも二晩続けて渡があることは少ないが、渡があるかも? と恐れなくていいのは、磯城にとってとても気楽なことだった。  この時の磯城は、夜になっても戻らぬ磯城を葛城が心配しているとは、全く思ってもいなかった。 翌日名残り惜しく橘の宮を辞した磯城は、幸玉宮への道を馬でゆっくりと歩いていた。急ぐ必要もなかったため、のんびり季節の花を眺めながらの散策を兼ねた帰途だった。  少し先に、やはり馬に乗った人の姿が見える。誰だろうと思ったら、三宮だった。三宮も磯城に気付いたようで、近づいて馬を降りる。磯城は、会いたくない人に会ってしまったと思ったが、馬を降りて礼をした。 「誰かと思えば八宮ではないか」 「三宮の兄上でしたか、ごきげんよう。ご無沙汰しており申し訳ございません。お元気でいらっしゃいましたか?」 「ははっ、わしはこの通り元気じゃ。大王や東宮にはあいにくじゃろうがな」  なんとも相槌のうちにくい言葉に、苦笑する磯城に続けて言う。 「わしは、女の所からの帰りじゃ。そなたもか」  女のところ? 高松の屋敷とは方向が違うな。 「私は、橘の宮からの帰りです」 「帰りとは、そなたの家は橘の宮ではなかったのか?」 「そうですが、今は幸玉宮にも対屋を賜っておりますので」 「そうじゃったの、それはさぞ窮屈じゃろて。だからこうして外で憂さを晴らしておるのか?」  あまりに失礼な言い草だった。さすがに温厚な磯城もむっとする。そんな磯城に、三宮は更に畳みかけた。 「そなた妃は亡くなったんじゃの、新たには迎えんのか。幸玉宮にいたら無理じゃろうがな」  そう言って、三宮は磯城の手を取った。いきなりの事に、磯城は嫌悪で身が固まる。大王の時もそうだったが、葛城とのことがあった後、大人の男に体を触れられると怯えを感じるようになった。と言っても磯城のような身分の人に触れる男は、葛城を別にすると大王に、今の三宮が二人目ではあったが。  三宮には、磯城の怯えが生娘のように感じた。 『生娘のような奴じゃな。しかもこやつ久しぶりに会ったら匂い立つような色気があるな、まさか大王が……』  男女共に経験のある三宮には、磯城の色気が受け入れる身から醸し出されるものと感じた。まさか相手が年若い東宮とは思わず、大王ではないかと思った。  元来直情的な三宮は、磯城の妖艶な魅力に抗えない。相手が大王ならと一瞬躊躇もしたが、むしろ搔っ攫ってやるかと不穏な気持ちになる。  三宮は、磯城の掴んだ手を強引に引き寄せる。  磯城は益々おびえて動けない。足が震えて崩れ落ちそうになる。そんな磯城を、三宮は抱き上げるようにして引き上げる。 「叔父上~」  葛城だった。息を切らして必死な形相で近づいてくる。三宮は一瞬びくっとするが、磯城を抱く手は離さない。  葛城は、二人に近づくと三宮から磯城の体を奪い取った。磯城に手を出すことは許すまじという鬼の形相だった。さすがに三宮も葛城の気迫にたじろぐ。 「何をされているのです」 「いや、わしは偶然八宮と会ったゆえ、話をしておっただけじゃ」  抱きしめておいて何が話をしておっただけかと思ったが、三宮の事は無視して磯城に話しかける。 「叔父上、お帰りが遅いのでお迎えに参りました。大王も心配されております。さあ、宮へ戻りましょう」  引き立てるように、磯城を連れ去った。呆然と見送った三宮は、磯城に大王の手が付いていると確信した。葛城の態度は自分の者に対する妬心ではなく、父の大王に対する忠誠と勘違いしたからだ。  三宮にはこうした、情勢を見誤るところがあった。そこを、先の大王も三宮は大王になる器ではないと、大王の次は葛城と定めた訳でもあった。

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