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第16話

日も随分高くなってから、磯城は目覚めた。体はまだ幾分気怠さが残るが、このまま寝ているわけにはいかないと、起きて身を整える。  磯城は、怠惰に過ごすことは性分に合わない。磯城の凛とした佇まいは、外見だけでなく内面からも醸し出されているのだ。  今日は朝議の予定はない。葛城は表で執務だろうか? 少し気にはなったが、暖かな日差しに誘われ庭へ出た。  気怠く、淀んだ体に外の新鮮な気を入れ、少しでも浄化させたいとも思った。  春の庭は、目に優しく磯城の心を和ませた。しばらく散策した磯城は、大きな石に腰を下ろした。色とりどりの花が美しい。  花を眺めている磯城の脳裏に、昔の情景が蘇った。まだ葛城が幼いころ、二人して庭で遊んだ情景。 『にいさまきれい、花よりもにいさまの方がきれい』  葛城の幼い声も蘇ってきた。磯城の脳裏はあの頃の情景で埋め尽くされる。  磯城は目を閉じて、思い出の余韻に浸った。  いつの間にか、磯城の眼には自分でも知らず涙が溢れる。零れた涙が手に落ち、磯城は、自分が泣いていることに気付いた。  己は弱くなった。昔を思い出して泣くなどと……。  しかし、あの長閑な優しかった日々を思い出すと、無性に帰りたかった。もう二度と戻ることは叶わぬのか? 磯城は叶うはずのないことを思った。  なぜ、こんなことになってしまったのか? 己の何が間違っていた? 磯城は自問した。  しかし、答えはでなかった。ふと、冷静になった磯城は、泣き顔を人に見られてはいけないと思った。  冷静さは東宮後見としての矜持を、磯城に戻した。誰にも会わないうちにと、磯城は自分の対屋へと急ぐ。    葛城は、朝から執務に励んでいた。今日は磯城を休ませてやらねばと、自分一人頑張る心持ちでいた。  昨夜限界を超えて磯城を責めた。それを悔いる気持ちはないが、今日は労わってやりたい。葛城なりの愛情だった。  葛城は、磯城を狂おしいばかりに愛している故の独占力の強さ、支配力の強さが、昨晩のような行為につながる。しかし、磯城を大切にしたいという気持ちも本当だった。  執務に疲れた体を休ませようと庭に向かう途中で、足早に歩く磯城を認める。何を急いでいるのか? と思い呼び止めた。  今一番会いたくない人に声掛けられた磯城は、一瞬立ち止まりそうになるものの、聞こえないふりで先を急ぐ。  葛城は、そんな磯城を不審に思い追いかけ、すぐに追いついた。 「どうされた? 何故にそんなに急いでいるのです?」 「別に急いでいるわけでは……」  顔を見られたくない磯城は、下を向いて話す。葛城は、益々不振に思い、強引に磯城を向き合わて驚く。磯城の顔に涙の跡が残っていたからだ。 「泣いていたのか? 何があったのじゃ? どうされたのか?」 「何もありません。お放しくだされ。対屋に戻るのです」  葛城は磯城の腕を取ると、強引にそのまま磯城の対屋までつれて行き、問い掛ける。 「そのような泣き顔をして、何もないことはなかろう。どうされた? 話すのじゃ」  葛城は、自分では散々磯城を泣かすのに、磯城の涙に弱い。自分のことはきれいに棚に上げ、磯城を泣かす者は成敗せねばと思うのだ。  もっとも、自分が泣かすのは快楽からくるもので、悲しみからくる涙とは思っていないからだが……。  葛城の真剣な眼差しに、磯城はこのまま言い逃れは出来ないと思った。 「少し……昔を思い出して……懐かしくなったら自然に涙が……だから本当に何もないのです。心配かけてすまない……」 「昔の? おじいさまの思い出か?」 「いいえ……東宮様です。花を眺めていたら、幼き頃の東宮様を思い出したのです」 「私を思い出して涙が……」  それは、つまり磯城の涙は己故ということか? 要するに、磯城にとって己の存在は涙につながる憂い事なのか……。 「幼き頃の私に戻って欲しいと?」  磯城は顔を逸らし下を向く。肯定したも同然と葛城は思う。  確かに、現状の磯城の立場、まして昨夜の行為を思うと、磯城の思いも無理はないか……と葛城も思えた。  磯城にとっては、全てが不本意ではあろう。心はまだ吾に寄せてないのだから……。  だからと言って、磯城を解放してやる思いは全く無かった。  せっかくこうして捉えて、側近くにおけるようになった現状を手放すなど考えられない。  必ずいずれは、心も寄せてくれる。そうなれば、心からの笑顔を吾に向けてくれるだろう。  葛城は、そう思っていた。大変な自信家だ。しかし、これも帝王の資質といえるのかもしれない。 「あなたが、幼い頃の私を懐かしく思い出すのは分かります。私はあなたに懐き、あなたは私を可愛がってくだされた」  葛城は、静かに話し出した。葛城の脳裏にも懐かしい思いが蘇る。 「あなたにとって私は、単に弟のような存在だったかもしれないが、私にとってあなたは、幼い頃より唯一無二の人だった。私はあなたの姿だけを常に追っていた」  葛城は、磯城を見つめながら話す。その眼差しは熱を帯びていた。 「あなたは常に美しく、私の憧れだった。そして、いつの頃か私は、絶対にあなたを自分の者にすると自分自身に誓った。あなた以外に吾が妃はいないと思い定めた。その思いを貫いた結果が今の状況だ。決して変えるつもりはない」  そこまで強い思いなのか……しかし、磯城は聞いた。無駄と分かっても抗いたかったのかもしれない。 「私よりも美しい……心ひく女はいませんでしたか?」 「いない。妃候補だと何人もの王女や、姫に会ったが誰一人私の気を引くものはいなかった。あなたより美しい人はいなかった。今も二宮の王女のもとに通うのは子を成すため。それさえなければ私はあなた一人で満足じゃ」  ほんの少しの沈黙後、葛城は続ける。 「あなた一人で満足というより、あなたがいなければだめなのだ。あなたは私の全てなのだ。私の半身というべき存在なのだ。あなたがいなければ、私はこの身を引き裂かれることになる」  磯城は、葛城の言葉に瞠目した。これほど真摯な、熱を帯びた告白があろうかと思う。  これほどの思いを告げられて、心の動かない人間はいるのだろうか。  どうしてここまで深く思われるのか? それは磯城には、理解できないが葛城の思いは十分に伝わった。  ここまでの思いを告げられて、葛城から離れるわけにはいかない、側にいなければならないと磯城は強く思った。  葛城のこの磯城への思いの吐露は、磯城を強力な力で縛ることになる。磯城は身動き出来ないほどの力で縛られる。  磯城は、葛城の圧倒的に強く、大きすぎる愛に囚われたといってよい。  昨夜受けた磯城にとって地獄のような責め苦、二度と味わいたくないと思った責め苦、それよりも強力な縛めとなる。  では、磯城が葛城への愛を自覚したのか? そうではなかった。磯城が葛城に心を寄せたとまではいえなかった。  ならば、同情したのか? それも違った。余りにも深く強い思いに、ただ、ただ慄いたと言える。  磯城が、葛城への愛を自覚したとまでは言えなかったが、葛城の圧倒的に強大な愛を示され、今の状態を受け入れるよりほかなかった。  この時以降磯城は、この東宮の宮での妃としての立場を受け入れることになる。そうせざる負えなくなった。  それには、当然ながら男は勿論女にも触れないということだった。葛城が、吾が妃に望む操を貫くということだった。  全て合わせて、表では東宮後見、奥では東宮妃が磯城の立場になった。  しかし、それを知る者は淡水と、奥仕えのごく僅かの者たちだった。つまり、磯城の妃の立場は、東宮の宮の秘密だった。

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