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第7話 悪夢

『バージェ!バージェ!!』  小さな男の子の声がして、何気なくそちらを向いた。 見れば幼児が少年にしがみ付きながら何かをせがんでいる。 『だっこ!だっこして!』  バージェと呼ばれた少年はにっこり笑って距離を取った。「追いつけたらね」なんて言いながら手を広げる。足の長さからして追いつくわけもないのに、よたよた小さい手足が懸命に少年の後に続く。 「嘘吐き」  無意識に自分の口から出た言葉に納得する。少年を追いかける幼児。 あれは、俺だ。 『タケヒコは足が速いな。もう追いつかれちゃった』  えへへ、なんてだらしなく笑いながら俺は少年に抱き上げられた。ご機嫌にはしゃぐ俺と、それを見てほほ笑む少年。 小さな手をした俺が、少年の額を撫でる。よく見るとそこにはガーゼが貼ってあった。 『どうかした?』 『バージェ、いたい?』 『タケヒコが撫でてくれたから、痛くないよ』  まだ丸くてぷにぷにとした頬が指で突かれて、俺は不満そうに両頬を膨らませた。 バージェ、少年の顔は朧気で、表情はわかるのに記憶に残らない。 仕方ない。昔の話だ。どんな顔か見てみたかった気もするが、俺の中にはきっと何も残らなかったのだ。 『ちゅっちゅっちゅっ』 『わ、くすぐったいよタケヒコ』  小さな俺は少年の頬や額にキスし始めた。少年はそれを楽しそうに受け入れて、止めもしない。俺は慌てた。昔の話だと諦めたことさえ忘れて、二人を引き剝がしたくなる。 「や、やめろ!」  俺の声が聞こえたはずもないが満足した小さな俺は大きく鼻から息を吐き出す。すると今度は少年が俺にキスを返し始めた。今すぐ誰か止めてくれ。 『バージェ、ここにも、ちゅー!』  小さな俺はなんと口にまでそれをせがんだ。まさかしないよな!? 少年が困っているのがわかる。そりゃそうだ。きっぱり断って俺のファーストキスを守ってくれ。 『駄目だよ、タケヒコ。そこは好きな人とするんだ』 『バージェしゅき!しゅき!ここにもちゅー!』 『…そう?』  断れって!!!!!!!!!!!!何悩んでるんだ!? 『じゃあ、予約しておこうか。大きくなったらそこにしてあげる』 『今!今が良いの!』 『大きくなって、それでも俺のことが好きって言ってくれたらもっとすごいことをしてあげる。それとも、今終わりにする?』 『つごい。けっこ!けっここ!』 『そう、結婚。それまで我慢出来る?』  話がぶっ飛んだ。今を回避するからって呆れた大胆さである。俺が今でも好きだったら突撃して言質取ったんだからなと結婚を迫ってるところだぞ。なんて無責任な奴なんだ。 『がま、しゅる、から、バージェ、けっここ?』 『うん。結婚しよう。大きくなったらお嫁においで』  お れ が よ め 泣きじゃくり始めた小さな俺の背中をよしよしと撫でる少年を睨む。小さくて何もわかってない俺になんてことを。 小さな俺も否定しろ、なるならお婿さんだろうが! (それにしても、俺海外に知り合いなんていたっけ)  バージェ、というからには日本人ではなさそうだ。それともキラキラネームってやつか? 仮に海外出身と仮定して、そこでは同性婚が許されてるから俺が嫁ってことになったのかもしれない。  でもこうして何度も聞いているとバージェという名前、響きには覚えがある。どうして今まで忘れていたんだろうってくらいしっくりと来て馴染み深い。 (…俺の舌、回ってないよな)  もしかするとバージェというのは正確な発音ではないのかもしれない。なんだっけ、最近聞いたことがある気がするが思い出せない。  俺が考え込んでる間に夢の中の時間は過ぎて行って、誰かが少年を呼んだ。相手の顔は俺からは見えないが、着物を着ていることだけわかる。 少年は名残惜し気に俺を地面に立たせ、ジッと見下ろした。  ちく。  何かが痛む。胸の奥の方で。ずっとずっと抱えてた痛みがする。 俺は思わず胸を抑えた。 『ごめんね、タケヒコ。もう行かなくちゃ』  小さな俺の頭を撫ぜる。俺はいやいやと必死で首を振っていた。  待って。  俺の声だ。小さな俺の声。泣いているからうぇうぇとしか言えてないけど、確かに言っている。 待って、待って。 『バイバイ、タケヒコ』  待って。行かないで。 バージェ、俺を置いて行かないで。  一人にしないでくれ、小さな俺を。 その後俺は一人きりになるんだ。家族は皆、俺を捨てたんだ。  だから、バージェ、俺を抱き上げてくれるのはお前だけなんだ。 「痛い」  これは小さな俺の痛みだ。だから今見ているのも夢なんかじゃなくて、記憶だ。 『バージェ、ばぁじぇぇぇえ』  大きな泣き声がする。バージェと呼んでいるのにアイツは振り返らない。決して戻っては来ない。今の俺が一人なのだから、結末は良く知っている。わかっている。 泣き叫んでももう抱き上げてくれない。  アイツは俺の父親でも兄でもないのだから。 「嫌だ」  それでも嫌だ。小さな俺は泣いているじゃないか。どうして戻って来てくれないんだ。ごめんって何なんだ。 「バージェ!行くな…!」  渾身の力で叫んだ。ふざけんな、夢くらい良いもん見せろ。現実も最悪なのにどうして都合の良いもん見せてくれないんだ。 「バージェ、バージェ!」  こっちを向け。  小さい俺を置いて走り出す。どこぞへ向かう背中を追いかけてやった。 行かなくちゃって、それって大事な用事なのか?今泣いてる俺よりも? 『きらい』  心の底から声がする。震えを帯びているそれに振り返った。 なぁ、泣くなよ。忘れるんだ。いつか忘れてしまったんだ、俺たちは。 でもお前は一人でも生きていける。だって今俺が生きているんだから。大丈夫だ。泣くな。 『バージェなんてきらい』  待ってろ、それでも今のこれは夢だから。お前にアイツを返してやる。帰って来るよ。 大丈夫だからもう泣くな。 『きらい!!』  ああそうだな、俺もだ。俺も。  手を伸ばす。背には届かない。 今の俺の方が背も高いし、足も長いけど。手も腕もあの頃よりずっとずっと大きくなったから、お前に抱き上げられることも、もうないんだろうな。 「バージェ、行かないで」  あの頃の俺にはそれでも、お前しか居なかったんだ。  次第に景色が滲む。 振り向かないからアイツは気付かない。見たら驚くだろう。俺たちはお前のせいで泣いているんだから。 (こっちを見て、バージェ)  そしたらきっとお前は駆け戻ってくる。そういう奴だから。  どれだけ伸ばしても届かなかったはずなのに、俺の手を誰かが優しく握り返した気がした。

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