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第8話 体温

 ゆっくり、ゆらゆら体が揺れる。同時に背中をぽんぽん、と一定のリズムで優しく叩かれている。 あったかくて気持ちが良い。  次から次へと涙が止まらなくて、俺はただ目の前の壁に頬を摺り寄せた。 「武彦」  壁が喋った。 ふわふわとして輪郭のなかった俺の体がゆっくりと形を取り戻す。右手が温かい。  ぎゅっと握れば弱い力で握り返される。誰かの指が手の甲を包むように覆っていて、ひどく安心した。 俺より大きくて、ごつごつしてる長い指。 何か夢を見てた気がするのに、思い出せない。何がこんなに悲しかったのかも。 「武彦、そろそろ起きて飯食わないと一日持たないだろ」  うるさい。俺はまだ起きないぞ。 「馬鹿、抵抗は無駄だ。このまま抱えてまた屋敷内練り歩くぞ。それでも良いのか」 「はっ!?」  結論から言えば、壁だと思っていたのは梅漸だった。 俺は梅漸の膝の上を跨ぐように乗っていて、俺がすり寄っていたのは完全に肩と首。俺の右手は梅漸と恋人同士かのように指を絡めあって繋いでいて、もう片方の手で背中をぽんぽんされている。  なんだこの状況!? 「言っておくが、先に手繋いで来たのはお前だからな」 「は??」 「寝言言いながらうなされてたからあやしてやってる」  いやなんだそれマジで赤ちゃんじゃん。 「俺、なんて言ってた?」 「……」 「え、何なんで黙った。俺そんなひどいこと言ってた?」 「いや、バージェがどうのって言ってたぞ」 「バージェ?」 「……心当たりは?」 「うーん。何となくしっくり来るような、そうでないような」  外国人に知り合いなんて居たっけ?待てよ、なんか思い出せそうな気が…。 ぐりぐりと梅漸の肩で涙を拭いていると襖が開いた。 「武彦、今日は食堂の方で食べま、すよ…」 「「あ」」  アンジュが目を細め、ごゆっくりと言いながら開いたばかりの襖が閉じられた。ごゆっくりって何?! 「ち、違う!違うう!!」 「暴れるな危ないだろ」 「うわー!膝だっこされてんの見られた!!」 「膝抱っこ」 「何笑ってんだ!…あれ?」 「ん?」 「俺、手が自由だ。力ちゃんと入る」 「今頃気付いたのかよ」  ふぅ、とため息を吐いて膝から降ろされた。うん、暴れるよりも先に降りておくべきだったな。 でもなんで突然力が抜けて、今は大丈夫なんだ? 「まさかまた急に力が抜けたりとかは」 「そんな話は聞いたことないから大丈夫だ。飯行くぞ」 「え、ナニコレ」 「着物も知らねぇのか」 「知ってるわ!じゃなくて、着替えろってこと?これに?」 「制服はクリーニングの方に出しましたので着替えがそれしかないんですよ」 「なんで襖越しにそれを?」 「目の前でいちゃつかれますと、ねぇ?」 「い、いちゃついてない!」 「大胆に指まで絡ませておいて?」 「お前まで乗るな!ひぇ!手撫でんな!」  着付けなんてもちろん出来ない現代っ子俺はアンジュと梅漸に着せてもらって食堂に出た。昨日は俺が全身ぐでんぐでんしてたから食堂に来られなかったらしい。今後はここで食べろとのこと。 「いい匂い」 「この家だと和食が基本になりますが、食べられますか?」 「大丈夫だと思う」  炊き立てっぽいほかほかのご飯に味噌汁、焼き魚におひたし、卵焼きが並ぶ。 「なんか定番の和食って感じ」 「好き嫌いが把握出来ていないのでとにかく無難なものを、ということになりました。普段朝ごはんはどのようなものを?」 「えーと、朝はパン派だからこういうの初めてかもしれない」 「では次からはそうしましょう。食パンでよろしいですか?」 「うん。普通にバター塗って焼く」 「一枚で足りるのか?」 「んー、二枚目にいちごジャムとかアリ?それかチョコソースとか」 「いや全然良いだろ。帰りにその辺り見に行くか」 「武彦は甘いものがお好きなんですね」  ジャムないのに良いって言ってくれたのか。なんかアンジュも乗って来て買い出しに行くことになった。 「食事のメニューの参考ももう少し欲しいですね。武彦は何が好きですか?」 「割となんでも。ジャンクフードも普通に美味いし、お米も好きだし、パンもいけるし、チェーン店しか行ったことないけどイタリアンとか、中華とかも好きだ。…フレンチは、食べたことない」 「今度食べてみますか?」 「フレンチ!?」 「もちろん」  思わずアンジュを見つめる。誰かから何食べたい?なんて聞かれたの何年振りだろう。それに食べてみますかって、食材も一緒に買いに行ってくれるのかな。こうやって、今みたいに皆で食べるのかな。 「俺、フレンチトースト食べてみたい」 「結局パンだな」 「それしか知らないし」 「フランスパンは?」 「実は食べたことない」 「へぇ、これからの楽しみが多いわけだ」  美味そうなのは全部食べてみようぜ、なんて梅漸が笑ってご馳走様と手を合わせた。食べ終わるの早。 「おかわりどうする?」 「あ、ごはんちょっとだけ欲しい」 「ん。ついでだからよそって来てやる」 「じゃあ私のお味噌汁もお願いします」 「手が足らねぇだろうが」 「おや残念」  元々大盛りだった梅漸が食器を片付けるついでにご飯を盛って来てくれるらしい。もちろん誰かにおかわりを聞かれたのも随分昔の、遠い記憶だった。 一人暮らしってわけでもないのに誰とも囲うことのない食事。視界に入ることは許されなくて、いつも自分の部屋で黙ってジッと食べていた。 「こんぐらいで良いか」 「ちょ、多い多い。ちょっとって言ったのに」 「お前細すぎるぞ武彦。このぐらい食べたって平気だ」 「えぇ、いけるかな」  足りないってお腹が鳴っても抑えつけた。少しでも多く食べたと思われれば「卑しい」と言われる。そんな昨日が一変して、控えめな俺のおかわりはちょうど満腹くらいになって返って来た。 「武彦、お前自覚ないんだろうがわかりやす過ぎる。昨日も物足りなさそうな顔してただろ」 「うぇっ」 「そう思って昨晩より量を増やしてみたのですが、それで満腹だとすると……全くどれだけ遠慮しているのですか」 「そうだ、お前一人程度が何杯食ったところでこっちは痛くも痒くもない。見ただろ俺の膳」 「アナタは食べ過ぎなんですよ。お行儀良いフリして今日は何もしなかったですがね、この男盛りに盛ったどんぶりのお米を何杯も食べるんですよ。武彦の量はむしろ可愛すぎます」  二人があーだこーだと言い合うのを聞きながら箸を置いた。こんなに騒がしい食事、最後はいつだったっけ。 「いいか武彦、ここに思い付くだけお前の好きなの書き出せ。今晩のメニューはそこから選ぶからな。買い出し先で気になるのあったら選んで良いぞ。お前の分の食費はたんまりあるからな」 「一応歓迎のメニューですからね。腕によりをかけて作らせてもらいます」 「大丈夫だ、ちゃんと料理人連れて来るからな」 「ちょっと、何自分の好きなもの書いてるんですか」 「唐揚げは全人類好きだろうが」 「今は人類ではなく武彦の好みでしょうが」 「俺も唐揚げ大好き!」 「ほら見ろ」 「ほら見ろではなく」  なんだかふわふわして、こんな毎日なら悪くないんじゃないかって、本気で思った。

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