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第19話 愛が重い

 果たして、幼い頃からの夢を叶える人間というのはこの世に何%存在するのだろうか。 自身の若い頃を振り返り、菊漸は小さく息を吐く。まさかこんなことになるなどと、あの日の自分は考えても居なかった。 「お嫁さんにしたい子が居る」  ボロボロの少年が放ったその一言に、食堂はにわかにざわめいた。好きな子をお嫁さんにするためにはどうしたら良いのか。という純粋な疑問に一同たじろぐ他ない。 というのも、“漸”の屋敷に住んでいる者は皆独身である。  屋敷は異能持ちにしか出入り出来ず、また女性に異能は顕現しないため、所帯を持つとなれば自然屋敷を出るのだ。その場に居る誰にも少年への答えはわからなかった。  無難に、けれど真剣に、しかし微笑ましさを持って助言する。 「やっぱ金だろ。金のねぇ男は苦労をかけるだろ?そうするとどうだ、日々の大変さに圧し潰されちまうと愛ってやつも潰れちまう」 「となると地位が居るな。上に居れば必然入って来るもんも変わる」 「あとは人望だな。周りが褒めたてりゃそりゃ良い男に見えるってもんさ」 「でっかい男になれよ。立派な大人ならそれなりにモテるもんだ」  初恋なんてものを覚えて、大切に抱え続ける人間が一体どれほどいるだろう。増してやそのために努力をひたすら続けられる人間が、居るだろうか。 俺たちにはわからなかった。実際に目の当たりにするまでは。 「アイツ本当にやったな」 「ああ全くだ。今じゃ立派なよ」  あの時の少年は、大人たちの言うことを鵜吞みにした。立派な大人になること、人望を得ること、地位を確立すること。これらの要素をどうしたら実現出来るか常に考え、効率良く、そして完璧に成し遂げた。 「菊漸」 「若」 「灰蛮を見張れ。武彦には近付けるな」  今や俺も、若の側近の一人だ。  まさか日々血に塗れるほどの努力が、大人でも眉を顰める程の苦痛が、目を覆いたくなるほどの激務が、一人の人間を手に入れるためのものだとは思わなかった。 いや、未だに誰も思っていないだろう。あの日あの食堂で決意を固めた少年の目を見、側近として傍でその行動の全てを見て来た俺以外は。  「武彦」と名前を呼びながら腕に抱え歩く若の、うっとりとした表情を初めて見た者たちは普段とのあまりの差に恐れ戦いていた。 何せ石膏で出来ているのかというくらい表情の動かない男だ。瞬きをし、口元を動かして喋るからこそ彫像の類ではないと相手を安心させるような若である。 「別人?」 「いやあんな顔整った男が何人も居てたまるか」 「それは確かに」  若い衆がざわめきながら移動するのを薄目で見送る。確かに武彦の坊ちゃんが来てからというもの、若はもう別人と言われても納得するような有様だ。  声も高さこそそのままだが坊ちゃんの前では甘ったるい。砂糖をまぶして煮詰めて上から蜜を垂らしたような甘さだ。 表情も氷が溶けるような温かさ。いや生温さ。熱い視線、を通り越しわずかに見え隠れするうなじを見つめる目は最早獰猛である。 「あと二年」  こう呟いていたときの恐怖を誰かと分かち合いたかった。坊ちゃんの年齢は今年、いや今月で十六。二年ってもうお嫁さん決行する気でしかない。武彦坊ちゃんの意思は。  それからあと二年と言っているにも関わらず坊ちゃんの首にぽつぽつとある吸い痕はなんなのか。もう手を出している。二年って何が二年。何の二年。  スッと胸元から出した写真もうそれ何なのだろう。何なんだろうか若。二年という単位をブツブツ繰り返しながらジッと坊ちゃんの写真を見つめている。目見開いたまま。  俺からすれば武彦の坊ちゃんは、随分と幼く見える。本人に言えば怒られるだろうが、まだ中学生と言っても差し支えのない見た目である。 それをこの、手の速さ。正気の沙汰とは思えないが、仮に坊ちゃんが今よりはるかに背が高くゴリゴリのゴリラのような筋肉を身に纏っていても若にとっては無関係なのだろうと思う。むしろこれだけ体格が良ければ良いだろうと判断し自室で軟禁していたに違いない。  あくまで見た目が幼いから手加減されているのだ。いや、伸びろ太れと餌付けされているのは手加減の内に入るのだろうか。もう美味しくいただこうとしているとしか思えないのだが。 下準備が長期スパン前提なので育てるところから始まっているのが目を逸らしたくなるくらいに恐ろしい。  ただ極めつけは。 「タケ…タケが足りない…」  流行っているのか?懐に坊ちゃんの写真を忍ばせるのは。 今朝同じ光景を見たばかりだというのに、灰蛮もこれだとあまりにも鬱陶しい。  腕の辺りにざわざわと鳥肌が立ったので速やかに灰蛮の腕へ手刀を落とし取り落とした写真を手早くその辺にあった本の下に入れる。 「あ、おい!」 「返して欲しかったらとっとと書類を書き終えろ。暇じゃねぇんだこっちも」  若と坊ちゃんはコイツの調査に乗り出したと聞くが、俺が思うに「どうやってここに来た?」と坊ちゃんが手でも捕まえながら小首を傾げれば一発だ。聞いてないことまで饒舌にぺらぺらと喋るだろう。 「てか書類が多過ぎるだろ、転居届も転校の手続きももう終わったはずだぞ」 「残念だが“漸”関係の書類だ。侵入なんかするからだ馬鹿め」 「ぐっ」 「真城居るー?」 「タケッ!!」  襖を開けた坊ちゃんの声にパッと明るく顔を上げた灰蛮が、すぐにゴン、と頭を机に打ち付けた。 「タケの…!!甚平…!膝小僧ッッッ」 「さっきから気色が悪くて鳥肌が止まらん」 「…いや悪いな、菊漸」  アンタも大概なんだがな、若。  んん、と呻きを零しながら手で口元を抑え、なおもスマホのシャッターを切る灰蛮に満場一致で引いたが、なんとなく状況に慣れて来たらしい坊ちゃんが「見てくれよここに柄入っててさ」とくるりと振り返り小さく入れられたワンポイントを強調する。灰蛮は再び机に頭を打ち付けた。  俺は二年後、若と灰蛮の間で激化するであろう戦いと、知らないうちに囲い込まれている坊ちゃんの困惑を案じつつ、それを本人へ忠告する度胸はないのだった。

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