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第3話
ようやくそこで、マテウスの手が離された。他意はないとはいえ、マテウスに肩を抱かれている間、少しばかりドキマギしてしまった。
よく知った相手であるとはいえ、学院時代よりさらにマテウスが魅力的になっているからだろう。横に並べば、かつてあった身長差がさらに開いたことも実感する。
そういえば、大戦の功労者であるというのに、マテウスに一度も慰労の言葉をかけていなかった。今後会う機会はあるのかわからないし、この場で言っておこう。
そう思ってカイがマテウスへと視線を向ければ、当のマテウスは目の前にあるエレベーターの上のボタンを押していた。
「え?」
ホテルのエントランスは勿論一階だ。てっきりこのまま帰ると思っていたカイが意外に思って声を出せば。
「せっかく久しぶりに会えたんだ。もう少し話をしていかないか?」
マテウスの言葉に、カイは元々大きめなその目をさらに見開いた。
「……急ぎの用事でもあるか?」
すぐに返答をしなければ、重ねるようにマテウスが問いかけてきた。
深い海を思わせる青色の瞳は、カイの様子を窺うようにこちらを見ている。
「いや、ないよ。そうだね、僕もマテウスと話したいと思ってた」
その言葉に嘘はなかったが、かといって心からの本音というわけでもなかった。
マテウスと話したいという気持ちはカイにはあったが、マテウスが自分と話したがるとは思いもしなかったからだ。
「よかった。上の階に、いいラウンジがあるんだ」
カイの言葉に、ホッとしたようにマテウスが口元を緩めた。こんな表情をマテウスから向けられたことなどなかったため、カイの胸は高鳴った。
最上階で止まったエレベーターを降りれば、エレベーターに乗ろうとした初老の紳士が目ざとくマテウスに気づいた。
「マテウスじゃないか」
呼び止められたマテウスが足を止め、紳士の方に顔を向ける。
「ああ、お久しぶりです。ブルックナーさん」
「はは、国の英雄に対し気やすすぎたかな。フォークナー大佐とお呼びすべきだろうか?」
「揶揄わないでください。マテウスでいいですよ」
気難しそうに見えた紳士は、気さくな様子でマテウスに微笑みかけ、顔の皺をより深くした。
紳士が名を呼んだことで、通りがかった人間もマテウスの存在に気づいたのだろう。失礼にならない程度に、ちらちらと視線が向けられていた。
……学院時代を思い出すな。
学院時代から、マテウスの存在は多くの学生から注目を浴びていた。注目を浴びるだけではなく、人気もあった。学院内で見かけた時には、いつも他の生徒たちに囲まれていたように思う。
そんなマテウスは、今や学院内だけではなく国中の注目を浴びている。
「ああ、お連れがいたんだね。時間をとってしまって、悪かったね」
いくつかの会話のやり取りをした後、紳士は少し離れた場所で待っていたカイの存在にようやく気づいたようだ。視線を受け、目礼をすれば、穏やかな微笑みを返された。
その後、紳士にこっそりと耳打ちをされたマテウスは、「まあ、そんなところです」と、珍しく照れたような反応を見せていた。
「悪い、家族ぐるみで古い付き合いのある人だから、素っ気なくするわけにもいかなくて」
紳士がエレベーターに乗ったのを見送ると、少し申し訳なさそうにマテウスが言った。
「それはいいんだけど」
家族ぐるみ、ということはおそらくマテウスの父の事業が関係しているのだろう。
紳士は貴族ではないようだったが、着ているものはかなり上等なものだった。
「そういえば、実家の事業はマテウスが継ぐの?」
「いや、それはもう弟に任せた」
歩きながら、目的地であるラウンジへ向かう。赤と黒を基調にしたアンティークなバーラウンジの中は、人がまばらにしかいなかった。けれど、かえってそれが贅沢な空間を作り出していた。
ウエイターに、王都の夜景が一望できる窓際の席へと案内される。
「カクテルでいいか?」
マテウスに聞かれ、目の前に用意されているメニュー表を眺めてみる。知識として名前は知っていても、飲んだことがない酒ばかりだ。
「詳しくないから、任せてもいいかな?」
「わかった。あまり強くないものにしておく」
「ありがとう」
マテウスが注文をする間、カイは目の前に広がる夜景に目を奪われていた。宝石を散りばめたような王都の夜景を、こんなに高い場所から見るのは初めてだった。
「酒はあまり好きじゃなかったか?」
ウエイターがいなくなると、マテウスがカイに声をかけてきた。
「え?」
「詳しくないって言っていたから」
確かに、貴族ともなれば夜会に招待されることも多いため、自然と酒の味は皆覚えるはずだ。
「そんなことはないんだけど。一時期、主治医からも止められてたんだ。身体になるべく負担をかけないようにって」
まあ、あんまり意味がなかったみたいだけど。
カイがそんなふうに言えば、マテウスの表情が目に見えて曇った。その顔を見れば、マテウスは自分の事情をすべて知っているのだろうと察した。
カイにだってプライドはある。同情されるのは好きではなかったが、不思議とマテウスのそういった表情は嫌な気持ちにならなかった。
「その……最近、聞いたんだ。エリックのこと……。大戦が始まってからは、ほとんど王都を離れていたから」
いつもなら、気持ちの良いくらいにはっきりと言葉を紡ぐマテウスの歯切れが、珍しく悪かった。
「気を使わなくていいよ、もう三年も前のことだし」
三年前、カイは婚約者だったエリックとの関係を解消した。
王太子の婚約破棄は、一部の貴族たちの間ではセンセーショナルな話題として伝わったが、大戦の最中だったのだ。新聞の片隅にこそ載ったものの、多くの国民の関心を受けることはなかった。
大戦が始まったのは四年前のことであるし、マテウスの耳に入っていないというのもおかしな話ではないだろう。
「だが……どうして! エリックは、お前との結婚を誰より望んでいたはずだろう?」
「うん、最後までエリックは婚約破棄に反対してくれてた。周りのことは気にしなくていい、自分が説得するからって」
「だったら……!」
「だけど、無理だよ。エリックは王太子なんだから、やっぱり子供が必要で。ヒートの来ない僕はエリックの妃として相応しくない」
カイの言葉に、マテウスが息を呑んだのがわかった。まるで自分が傷ついたようなマテウスの表情に、気まずくなる。
この国にバース性の存在が確認され、既に数百年以上が経っていた。そして第二の性とも呼べるバース性には、三つの性が存在する。
ごく一部の、知力体力ともに優れた才覚を持つものが多いアルファ。
人口の大多数を占める、所謂一般的な人々であるベータ。
そして少数派であり、定期的にヒートと呼ばれる発情期が存在するオメガ。オメガの大きな特徴として、男性でも妊娠ができるという点があった。
定期的に起きるヒートの影響で、お荷物扱いをされることも多かったオメガだが、医療の発達に伴い抑制剤が開発された今はそういった偏見は徐々に減ってきている。
むしろ、オメガは強いアルファの子を産む可能性が高いこともあり、最近ではオメガの子が生まれた場合、国が丁重に保護していた。
公爵家の三男として生まれたカイは、思春期を迎える頃にバース性がオメガだと診断され、王太子であるエリックの婚約者として選ばれた。
エリックはアルファだという診断を受けていたし、結婚の相手はオメガから、というのはエリックの母であるニケルナの願いでもあった。
家柄に問題がなかったことは勿論だが、元々エリックの学友として選ばれていたカイが、エリックに気に入られていたこともあるのだろう。エリックに恋心を抱いていたのかと聞かれれば、本音を言えば頷くことはできない。それでも、優しい幼馴染のことがカイは好きだった。
けれど、十代の後半、遅くとも成人する前には来るといわれるヒートが、カイに来ることはなかった。
ヒートがなければ、オメガであっても妊娠の可能性は著しく低くなる。
気にすることはない、二十歳を迎えてからヒートが来た事例だってある。
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