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第3話 河野は……変

 ちょっとだけ、ちょっとだけではあるけれど。  ―― あれ、久我山さんに、とかじゃないですから。  言えた。  ―― だから、これは次の恋のためのお守りです。次、誰かのことを好きになったら、ちゃんと言おうって思ったんです。貴方みたいに。  自分のことを少しだけでも言えた。  ―― その時に勇気が出るように神頼みしただけです。  あぁ、でもどうなんだろう。あれはあれで、なんだ、好きと言ってもすぐに諦めてしまうくらいのもの、その程度だったのかと、それなのに恋路の邪魔をしただなんて、なんて迷惑な人なんだって、思われたかもしれない。もしかしたら、惚れっぽいだけの人間だと思われたかも。  そんなことないのだけれど、そんなの彼にはわからないことでしょう?  あぁぁ、ちょっと、もうちょっと上手に言えばよかったかもしれない。  はぁぁ、どうしてこう僕は上手に。  ―― 大丈夫だよ。蒲田さん、可愛いし。 「かわ…………いいわけ、ないじゃないですか……」 「はぁ? 俺は河野だぞ! カワイじゃない!」 「ちょっ、はにふふんへふか!」  思いっきり鼻を摘まれて、日本語がおかしくなってしまった。 「んもぉ! 河野さん! ちゃんとしてください! ここタクシーの中なんですよ! 暴れないで!」 「暴れてない! 身体が勝手に揺れてるんだぁ、あ、ぁ」 「んもぉ……ちょっ、ちょちょちょ、ちょっと重いですっ! 寄りかかるならっ」  久我山さんと聡衣君の愛の巣にお邪魔して数時間、ライフゲームを初体験した。久我山さんたちには放っておけと言われたけれどそうもいかないから、タクシー相乗りしたけれど。  したけれど。 「河野さん!」  背後のシートに寄りかかってください! と注意をしようとしたところで、胸ポケットに入れておいたスマホが軽やかな電子音を奏でた。  先生からだ。 「ちょ、ちょちょ……は、はいっ」  突き放すとそのまま今の河野さんじゃ車の窓ガラスに頭を強打でもしてしまいそうで、寄り掛かられたまま。とても、とっても面倒な体勢のまま電話に出る。 「もしもしっ」 『あぁ、休暇中にすまないね』 「い、いえ! とんでもないです! 大丈夫です! 何かございましたか?」 『いや、明日なんだが娘と婚約者の大輔君がうちに来るというのでね、レストランを予約し」 「はい! 予約、わたくしがしましょうか?」 『いや、もうしたよ。君がこの前探してくれたお店、とてもよかったからね。あそこに連れて行こうかと思って』 「い、言って、いただけたら」  そこで車が角を曲がって、その拍子にぐーんと河野さんが僕の方へとやる気のないパンダのごとくもう全力で寄りかかってきた。 (か、わ、の! さん!)  先生に聞こえないようにと小さな声でもう少しちゃんとしてくださいって言おうと思ったのに、また、今度も角を曲がったタクシーに酔っ払い河野さんは「う、うーん」とうなっている。 「ちょっ、ちょ……はい! あの! 言っていただけたら予約を!」 『大丈夫だ。もうしてあるよ?』 「ああ! 申し訳ないです! そうでした!」  もう! 河野さんのせいで先生の話が聞こえない! 『もしも君がまた一人で正月を過ごすようなら、一緒にどうかなと思ったんだが』 「うーん」  そこでそんな大きな唸り声をあげられると先生に聞こえてしまいます! ってば! 『大丈夫そうだ。楽しそうにしているんだね』 「へ? え? いえ。あの」 『いいんだ。プライベートの邪魔をしてしまって申し訳ない。良いお正月を』 「こ、こちらこそっ」  先生は失礼すると穏やかな声で告げて、電話を切ってしまった。 「う、うーん」 「河野さん! しっかりしてください! ピッ!」 「ピー……」  そうじゃなくて。  鳥の鳴き声の真似ではなくて。  ホイッスルの、敬礼の時のホイッスルを真似たんですってば。  どうにかこうにか彼を腕で押し退けて起きあがらせると、今度は逆側にタクシーが曲がって、その拍子に、酔っ払ってしまった河野さんはゆらっと起き上がり。 「わ……あの、河野さん?」  ゆらゆらと揺れて、揺れて、シートにもたれた。 「……」  今度は動かない。  死んでしまった? と、なんだか、急にピタリと止まった彼の呼吸を確認しようとしたら、急に大きな地響きのようないびきをかき始めたので、耳が、耳、鼓膜が破れてしまうかと思った。 「はぁ」  一つ、溜め息をついて、彼の腹部にとりあえずで僕のマフラーをかけてあげた。エアコンが効いているとはいえ、一月なんだ。酔っ払っているし。風邪を引いてしまったら大変だもの。 「お客さん、着きましたよ」 「あ、はい! えっと」  僕の住まいではないけれど、この状態だ。ここで下ろしてもそこで寝転がってしまうかもしれない。ご近所迷惑甚だしい。 「はい。ここで大丈、」 「釣りはいらん。お疲れ」 「へ? あの……」  びっくりした。  仕方がない。僕もここで降りるしかないか、そう思ったところだった。  ゆらゆらしていたかと思ったら、死んだように眠って、眠っていたと思ったら、嘘みたいにシャッキリと目を覚ました。今、仕事中、みたいな顔をした河野さんが一万円をパーンと置いて。 「…………なんなんだ」  タクシーを降りて行ってしまった。 「変な人だな」  そして、そのまま、もうふらつくこともなく真っ直ぐにマンションへと向かって歩いていく。 「……」  エントランスが自動で開いて、そのエントランスの大きな扉の向こうへと歩いて行ってしまったと同時、こちらへ振り返り手を振っていた。  酔ってるのかな。  酔っていないのかな。  でももうその足取りはしっかりとしていて。 「…………変な人だ」  ―― 楽しそうにしているんだね。  そうですね。 「あ、すみません。お待たせしました。出してください」  変な人でした。  とても変で、面白い人でした。

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