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第5話 河野の意外な……
車が揺れると、その度に片手に引き寄せるように胡蝶蘭の植木鉢を支えていた手に力を込めた。
ほら、蘭が車の天井ギリギリのところを掠めて、またゆらりと揺れる。
「本当にそれ持って帰るつもりだったの?」
運転席で河野さんがクスクスと笑ってる。
はい、と、後部座席から小さく返事をすると、また笑った。
「少し抜けてるとこあるよね」
「……」
「どうかした? 天井?」
「あ、いえ」
ポカンとしてしまったんだ。
「あの……なんというか意外な車に乗ってるなぁと……」
「なんだそれ」
「いえ」
だって、こうこういう職種の方にしてはワイルドだなと。なんというか、もっと、こう……高級車というか。
「俺、嫌いなんだよ、セダンって」
「セダン……」
「使い勝手が悪い。なんも入らないし」
そう、そのセダンに乗ってると思った。なのに河野さんの自家用車は背の高い、なんでも詰め込めそうな大きなものだったから。
「蒲田が抱えてるその胡蝶蘭だって入らないじゃん。使えない」
だって、河野さんって確か独身じゃなかったかな。この前、ライフゲームを一緒にやっていた時、久我山さんと聡衣君との会話の中でそんなようなことを言っていた気がする。けれど、独身男性にとっては少し大きすぎる車で。
「俺、キャンパーなの」
「きゃんぱあ」
「っぷ、そういうことにも疎いなぁ。だから、このご時世、政治家様は一般市民のことを理解してないってブーイングされるんだよ」
「す、すみません」
「まぁ、蒲田のところの大先生はマシなほうって言われてるけどな」
「マシ! じゃないです! あの方はとても立派な人です!」
背筋をピッと伸ばして、そう主張した。本当に素晴らしい方なんだと。
「あぁ、知ってる。俺の知ってる政治家の中ではまともだって。なぁ、まだ真っ直ぐでいいのか?」
「あ、はい」
車のカーステレオからは小さく音楽が流れていた。あまり、音楽にも詳しくない僕にはそれがなんていう曲で、なんていうアーティスなのかもわからないけれど、軽妙な音楽で、それに合わせているかのように胡蝶蘭が踊っている。
「でかい車じゃないとテントだなんだって、キャンプツールを運べないからさ」
僕が胡蝶蘭を見ているのを、また車の天井を眺めていると思ったらしい河野さんが、さっきの続き、どうしてこの車なのかを教えてくれる。
「あ……キャンプ……」
きゃんぱーとはキャンプをする人のこと、なんだ。なるほど、
「そ、週末、よく行くんだよ。この時期だと車中泊だけど、夏になったらテント貼って」
初夏になれは川での釣りも解禁されるから、そのくらいの時期からは暇があればキャンプをしているらしい。でも、今の冬の時期は星がとても綺麗だから、それはそれで楽しんだと……そんなことを教えてくれて。
「だから、この間も星観察つって、天体望遠鏡積み込んで山に行ってた」
人は見かけによらないものだ。もっと、こう……シティ派、って言わないか。都会派、かな。手に土でもついたら嫌な顔をしそうだし、虫なんて見るのも嫌そうというか。屋外でご飯を食べることも好きじゃなさそう。高級レストランとかで上品に食事をする方が好み、そんなイメージを勝手に持っていたから、アウトドアが好きだなんて。
「おーい、寝た?」
「! あ、いえっ、寝てません!」
「ならよかった」
静かになったことを居眠りだと思ったのか河野さんがこっちへ視線をやることなく、少し小さな、もしも、僕が本当に居眠りをしてしまっていたら聞き取れないような小さな声で僕に呼びかけて、そして、居眠りをしていないことに笑っている。
「あ……すみません、三つ目の信号で左へ」
河野さんが星を見たり、山に行ったり、川で釣りをしたり。テントなんてところで寝たりもしなそうなのに。
「なんだよ。急に黙って」
意外だった。
「あ……いえ」
「アウトドアが好きって予想外だった?」
「……まぁ」
「正直者」
「! すみません。でも意外でした」
ふーん、って、僕の感想にはそんなに興味がなさそうな返事をして、小さく、どんな曲なのかは僕にはわからないその軽妙な音楽に合わせて、トントンと指先でハンドルを弾いてる。
「……俺には親しい奴もいないだろうから一人でキャンプしてるのだろうか。とか思っただろ」
「! 思っ…………いましたけど」
「っぷは、正直すぎる」
「!」
「信号、ここだよな?」
はい、と返事をしたと同時、河野さんが少し細い道になるそこ角を上手に曲がった。
「まぁ、合ってるし」
「え?」
「無能な奴らにニコニコしてやるのは大嫌いだから、休日までそんな奴らと顔合わせるなんて時間の無駄をするなら山でのんびり一人で過ごすほうがずっと有意義だ」
「ぁ、ここで」
「はいよ」
車はスッと、その大きな車体のわりにとても優しく停車した。
そして、僕が大きな胡蝶蘭と一緒に車から出ることに手間取っていると、反対側から軽々と胡蝶蘭を持ってくれた。「わぁ、外は寒い」とでも言いたそうに、胡蝶蘭の枝先が車外の北風に大慌てで揺れている。
「それじゃあな」
「あ、あの、ありがとうございました。とても助かりました」
「どーいたしまして」
「本当に」
河野さんは車の中へと戻り、窓を下ろした。
「あの」
「今度、そうだな……来週の土曜日、もし都合合うなら星見に行く?」
「へ?」
「ちょうど新月なんだ、晴天だったら星が見られる。連絡先、これ」
「あ」
胡蝶蘭が重くて、僕では片手で持ってられず、その差し出された名刺を受け取ることもできなくて、まごついてると、小さく笑いながらその胡蝶蘭の鉢の中へと名刺を入れてくれた。
「それじゃ」
車がまたスッと優しく出発をして。
「……星」
今、空を見上げても特に星なんて見えない。いつも一つだけ、この街灯が照らす夜道でも見つけられる星があるけれど、その程度で、他のわずかでささやかな星の光はこの明るい地上からは見つけられない。その空を見上げていたら、また北風が吹いて、温かい場所にずっといた胡蝶蘭が「寒い」って、その北風に凍えてしまうかのようにその枝先を忙しなく揺らして、僕は急いでマンションの中へと帰っていった。
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