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第8話 あなたの知らない世界
そこに広がるのは僕の知っている星空じゃなかった。
まるで別の夜空でも見ているみたい。
自分がこんな星空の下にいたことを知らなかったなんて。
仕事を終えて帰宅する頃はヘトヘトだったり、その翌日のことを考えながら歩いていた。視線を向けるのは足元くらいだった。だって、僕の頭上に広がる深い深い紺桔梗色の空に星は数えるほどしかなかったもの。
「おーい、首痛くない?」
「ぇ? あれ? 河野さん?」
どのくらいそこで空を見上げていたんだろう。
でも、そのほとんど動くこともなく、ただただ深い青色の空に散らばった光の粒はいくら眺めていても飽きなくて。
いくらでも見ていたくて。
「腹、減らない?」
「河野さん?」
「さすがに川の近くはなんかあったら危ないから……この辺、かな」
河野さんは周りをぐるりと確認して、位置を定めると、手に持っていたライトを大きめの石の上に置いた。そして、背中に抱えていたリュックをそのライトの灯り手前に置いた。
「本当はキャンプファイヤーでもやれたらいいんだけど、まぁ、今日は急遽だったからさ」
「?」
ゴソゴソと鞄の中から取り出したのは。
「……コン、ロ?」
「そ。携帯式の手軽でいいんだよ。使い勝手が」
小さなコンロだった。それから、ミルクパンも。すごい。確かに大きめなリュックだったけれど、そこからそんなものが出てくるなんて。
リュックの口を大きく広げて、河野さんが手をそこに入れる度に一つ一つ飛び出すそれに僕は驚いてジッと見つめてしまう。
わ。すごい。大きな水筒まで入っていた。
次にはお箸まで出てきた。
まるで魔法のカバンだ。おまじないでも唱えたら、なんで出てきそうな気がしてくる。
そして――。
「今日のディナー、な」
最後に飛び出したのは袋に入った即席ラーメンだった。
「でも、蒲田みたいなお坊ちゃんはあんま食わないか。インスタントラーメンなんて」
「た、食べますよっ河野さんこそ、インスタントとか食べるんですか?」
「しょっちゅうでしょ。この仕事してたら、徹夜はなくても、晩飯食い損ねることなんてよくあることじゃん。エリートなんて言われてても、激務だからさ」
話をしながら、蒲田さんはまるで魔法使いのように手際良くインスタントラーメンを作っていく。お水は水筒の中に入っていた。そして、カチカチと、まるで火打ち石でも叩いたような音が僕らしかいない川に響いたと思った瞬間、青白い炎が僕と河野さんの間を照らす。
「ほら、蒲田には特別美味いほう」
「わ。ありがとうございます」
「どーぞ」
はんぶんこ。
なのに僕の方が特別美味しいだなんて言って、笑っている。
一つのお鍋に二人分。即席と謳っているだけのことはあって、すぐさま出来上がったラーメンを今度は大きめのマグカップに取り分けてくれた。
「熱いから気をつけな」
「は、はいっ」
こぼすことのないようにと両手でしっかりと掴むと、その様子に河野さんが笑ったのがガスコンロの炎に照らされた。
「い、いただきます」
「召し上がれ」
寒さがすごいんだろう。ラーメンからはたくさんの白い湯気が立ち込めていた。
それをふぅと吐息でどかして、一口――。
「はぁ、うま……」
これは、なんだろう。
こんな、だったっけ?
何度も何度も食べたことがあるけれど、インスタントラーメンってこんなに。
「……美味しい」
こんなに美味しかったっけ。
そう自然と口からぽろりと言葉が出た。本当に、自然に、まるで雨粒が葉っぱの先から溢れて落ちたみたいに。
「美味しいです」
「なら、よかった」
インスタントラーメンなんてよく食べてるはずなのに。河野さんも言っていたけれど、手軽ですぐに食べられて、手間をかけずにお腹を満たすことができるから。そう、お腹を満たすために、食べてた……のに。
「……すごいです」
「? コンロ? 簡単に、って時にはちょうどいいんだよ。別に大所帯でキャンプするわけじゃないし」
「……」
「あ、今、こいつ、ぼっちだなって思っただろ」
「お、思ってません! …………ちょっとだけ……思いましたけど」
小さく本音を呟くと、あはははって、正直だなって、河野さんが笑った。笑った声がとてもよく響く川岸に僕らは、二人っきりで、ぽつん、って。
バーベキューとかキャンプとか、って大人数でするものだと思っていた。たくさんの人たちと一緒にするべきものだと。
「でも、こういうの、いい……です」
「……」
たくさんの人たちと一緒にするものなんだと思っていた。
「すごく」
インスタントラーメンは「ごちそう」ではないって思っていた。
「いいと思います」
キャンプってこんな自由気ままにしていいなんて知らなかった。
インスタントラーメンがこんなに美味しいなんて知らなかった。
夜空にこんなにたくさんの星が散りばめられてるなんて知らなかった。
「……なら、よかった」
河野さんが。
河野さんが、こんなふうに笑う人だなんて。
「……蒲田」
「?」
「鼻水出てる」
「え? え、スミマセ、」
「嘘。あはははは、すげぇ慌ててる」
「ちょっ、からかわないでください!」
こんなに無邪気に笑う人だなんて、知らなかった。
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