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第15話 チョコでいっぱい
「おや? 今年はお茶をくれるのかな?」
会議から戻ってきた先生へと小さな箱を手渡すと、その見覚えのあるお店の名前ににっこりと笑ってくれて。
「は、はいっ」
「ありがと」
「いえっ!」
僕はその笑顔に苦しくなるくらいの罪悪感で胸の辺りがぎゅっと締め付けられた。
なんてことだ。
「じゃあ、さっそく後で淹れていただけるとありがたい」
「もちろんですっ」
なんたる失態。
秘書として、失格どころか、もう……本当に。
「昨日はゆっくりできたかな?」
「はい! たくさん。ありがとうございます!」
「休暇も大事な仕事だよ。最善の仕事をする上でね」
「はい!」
にっこりと微笑んでくれる先生に顔向けできない、けれど、視線を逸らすなんて秘書としてあるまじき、と顔を引き攣らせながらにっこりと微笑み返した。
忘れてしまったんだ。
本当にもう大失態だ。
まさか河野さんへのチョコのことで頭がいっぱいで先生用を買い忘れるなんて。気がついたのは帰宅してコートを脱いだ時だった。きっと留守番をしていた胡蝶蘭もびっくりしてしまうくらいの大きな声で叫んでしまった。
「ぁーーーーー!」
そう叫んで、慌てて買いにまた出かけたけれど、もうどこのバレンタイン用のチョコレート売り場は品薄で。かといって、適当なチョコレートをお送りするわけにもいかないから、今年はお茶にした。先生はコーヒーよりも緑茶の方が好きで、特にここの緑茶が大のお気に入りだから。その店に行くことにした。もちろんバレンタインは関係のないお茶屋さんにはどの茶葉も欠品になることなく充分並んでいた。
「では、お茶を」
「いやいや、後でいいよ。君はまだお昼も食べていないんだろう?」
「え、いえっ」
「食べてきなさい。お茶は君が帰ってきてからゆっくりいただくから」
ペコリとお辞儀をしたところで事務室の電話が鳴り、女性スタッフがすぐさまその電話をとって応対してくれた。僕はその様子を眺めてから、もう一度会釈をして、コートだけを持つと、部屋を後にした。
少しでも秘書失格な自分を律しようとお昼を抜こうと思ったのだけれど、それを叱られてしまった。
先生に叱られる秘書なんて。
お昼、苦手ピーマンたっぷりの野菜炒めとかを頼もうかな。いや、でも、イヤイヤ食べられてもピーマンだって嫌かもしれない。そんな、先生へのチョコレートのことをすっかり忘れるようなダメダメ秘書になんて、食べられたくないかもしれない。
「はぁ……」
思わず溜め息を一つこぼしたところだった。
「? 義君だ」
僕の、プライベート用のスマホに電話が二度、入っていた。朝方と、それから、お昼頃。
なんだろう。
急用かな。
今の時間は……三時だけど、義君は仕事柄、三時のティータイムなんてないだろうし。とりあえず一度かけて、それで繋がらなければ今はお仕事中なわけで、こちらは履歴を確認しましたとわかれば。
「………………」
うん。やっぱり仕事中だった。電話、繋がらない。あとはじゃあ、どうかしたの? ってメッセージだけ残しておけば、いっ。
『佳祐!』
「わっ!」
メッセージだけ残しておけば、いっか。
そう胸の内で呟こうと思った時だった。
耳、鼓膜がおかしくなってしまうかと。
『僕は聞いてないよっ?』
「?」
何を?
そういえば仕事が忙しくて、最近、義君とちっとも話してなかったな。でも元気そうだったし。昨日、聡衣君と話していた時もちょっとだけ、ほんのちょっぴり義君のことが話題に出てきたけれど、その僅かな会話の中にも、特に大変そうなこと、変わったこと、最近の近状で注視するべきことはなかった気がする。
『聡衣君が君に会ったって』
それのことか。
だって話しておくわけがないでしょう? 昨日、偶然遭遇して、僕はそのあとお茶を買いにまた外出したし、昨日は義君には全く会っていないのだから、話すタイミングなんてない。
今日、聡衣君に町で遭遇しました。チョコレートを買っているようでした、なんて。
「あ、うん。昨日、その彼は久我山さんに差し上げるチョコレートを買いに行っていたみたい。ちょうど月曜で、彼は定休日だから」
『そうじゃなくてっ』
「?」
『誰のチョコレートなの?』
「!」
その問いに、何もない廊下を歩いていた僕は何もないはずのそこで転んでしまいそうだった。
『佳祐?』
「……ぁ」
わ。
「……えっと」
喉奥が熱い。頬も熱い。スマホを握っている手も熱くて、じんわりと汗ばんでしまう。
『…………ま、まさか……』
吐息が緊張に震えた。
こんなで今日、渡せるかな。
帰りに少しだけ立ち寄らせていただいて、渡すだけしたいんだ。ちょっとの時間でいいので、すぐに済むのでって言って、その場でパッと渡して帰るだけだから。そのくらいなら彼の邪魔にはならないでしょう? アポイントメントを取ってしまうと、改まっていて、もしかして気を使わせてしまうかもしれないから。
「……うん」
だから、さっと渡そうと思ったんだ。
「ちょっとだけ……」
河野さんにしてみたらなんてことはないただの「お礼」だろうけれど。
「チョコレートを渡したい人が」
僕にとっては大きな一歩。ものすごい大きな一歩だ。
「……いるんだ」
ただの義君に告げるだけで声が震えてしまうほど緊張しているけれど。
でも――。
義君、驚いたかな。
電話切る時、返事がどことなく「はぁ」「へぇ」「あぁ」みたいな力のない感じだったから、きっと驚いてるんだと思う。
好きな人がいる。
そう言ってしまった。
言っちゃった。
何度もそんなことを噛み締めながら、お昼過ぎでもランチを出してくれるお店の中でスマホの連絡先を眺めてた。ランチ頼みたいのだけれど、忙しい時間ではないから七日、店員さんがあまり出歩いていなくて、声をかけるタイミングが掴めない。
手の中の画面には河野さんの電話番号が並んでいる。
もちろん、まだ電話はかけないけれど。
夜、かけられそうならって、その時のことを考えて、最初のセリフをどうしようか考えてみたりして。
「……」
できるかな。
でも、渡すだけだもの。
受け取ってもらえたらそれでいいんだもの。
「…………あ」
受け取ってもらえたら、もうそれで充分。
「義君の分のチョコレートも忘れてた」
だから、帰りに少し寄ってみようと、また一つ深呼吸をして、ランチタイムギリギリ、僕は少しでもパワーがつくようにと、通りかかった店員さんをやっと呼び止めて、大好物の唐揚げ定食を頼むことにした。
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