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第16話 チョコをちょこっと

 すごくすごく仕事を頑張って終わらせた。バレンタインだからと仕事が遠慮をしてくれるわけもなくて、遅いお昼を終えて戻ると、すでにデスクの上にはいくつかの書類が整然と並べられ、パソコンには返信待ちのメールが並んでいた。それを終わらせるため、お昼に力を蓄えようと思って食べた唐揚げのパワーを借りて、仕事をテキパキ終わらせて。  今の時間は夜の十八時半。  この仕事をしていたら、とても早い時間に仕事を終えられた。 「あ、蒲田さん、お疲れ様です」 「! お疲れ様です。お先に失礼いたします」  頭をペコリと下げて、足早に。 「おっとっと」  でも、廊下を走ってはダメだから、そこはゆっくり。  焦りつつ、でも、走らずに。  歩いているけれど、でもスピードだけなら小走りの人には勝ててしまいそうな速さで。事務局のあるビルを出るとタクシーに飛び乗って、河野さんのお仕事場へと急いだ。  一応、就業時間外なら彼の迷惑にはあまりならないと思う。  それからただ渡すだけなのでアポイトメントは取らない。大袈裟だな、となるかもしれないから。  着いたら連絡しようと思った。  電話で、失礼しますって。  もうどんなふうに切り出すのかは唐揚げ定食を食べながら考えてある。  ――お仕事中に大変申し訳ございません。今、少しお時間ありますでしょうか? この間、胡蝶蘭を持ち帰る時、車に乗せていただきましたし、アウトドアに関してたくさんアドバイスいただき増田。そのお礼に。 「あ、間違えた。お礼を渡したくて、だ」  ここ、何度も間違えてしまう。ちょっと注意をしないと。本番はもっと慌てているだろうから、きっと間違える。間違えることのないように。先生のスピーチみたいに澱みなく。もう一度。 「すぐに帰りますので、少しだけお時間いただけますか?」  そう言うんだから。  何度も何度も頭の中で言い方を練習した。少し長くなってしまったけれど、説明が足りなくならないように失礼のないように、熟考した。 「あ、運転手さん、あそこの建物の手前で」  そして見えてきたビルの手前でタクシーを止めてもらい、外へ。  建物の目前でタクシーを停めるのは、仕事で赴いてる訳ではないから。なんだか気が引けてしまって、その手前で止めてもらうことにした。プライベートだなんて誰にも分からないことだけれど、でも、なんとなく。 「ありがとうございました」  タクシーが再び走り出したのとほとんど同時。さぁ、電話をかけようと思い、コートの内ポケットに入れていたスマホを出そうとした、その時。 「!」 「あれ? 蒲田じゃん」 「!」  か。 「何? 用事? 先生のお使いとか? 寒いのにご苦労さん」  かわ。  河。  わ。 「お疲れ」  河野。 「あ」  河野、さん……だ。  河野さんが、濃紺のビシッとしたコートの襟を立てて寒さに顔をキュッと顰めた。その一連の様子がとてもカッコよくて見惚れて……しまってるわけにはいかないんだった。 「ぁ」  えっと。  えっとえっと。電話をかける時を想定してセリフを考えていたから、だから、「お仕事中に申し訳ございません」が使えなくなってしまった。今、どう見てもお仕事中ではないし、デスクにいる彼へ電話をかけることを想定していたから、今ここで遭遇してしまうと、全てが予想外で。とにかく、どこかへ行く途中のようだから、引き止めてしまって申し訳ございません? かな。でも引き留めてはいないし、足を止めてくだありありがとうございますっていうのも変だし。えっと、そしたら、その次のせリフは――。 「今っ」 「おーい! 河野、早く行くぞー!」 「あぁ」  河野さんと一緒に出てきた、多分同僚の方なんだろう。その人が早く食いに行こうぜって、言っていた。 「今から、晩飯。今日は何時に帰れんだか。最近忙しくて。今度一人寿退社するから余計ね……そういや、久我山見なかったな。あいつ、しれっと仕事終わらせて帰るからな。上手な奴だよ。ホント」  そのようですね。ここで晩御飯だけ済ませて、それからまたお仕事、なのでしょうか。お疲れ様です。 「それじゃあ、寒いから蒲田も気をつけて」  僕はバレンタインのチョコレートを貴方に渡そうと思ってこちらに来たのですが。今。 「あ、あのっ」  今、ちょっとだけよろしいですか? 「今、ちょっと忙しいけど、またそのうちキャンプでも一緒にする?」 「!」  わ、やった、また一緒にどこかへ行けるのでしょうか。是非とも。お願いしたいです。  突然、そんな嬉しいお誘いをいただけて、胸のところがぴょこんと飛び跳ねてしまう。  なんてはしゃいでいる場合ではなくて。  あのですね、チョコレートを。  渡したいんです。  お礼なんです。  今、ほら、渡さないと。  ほら、早く、チョコレートを。  お礼を兼ねて、アウトドアのことと、この間の胡蝶蘭のことと、それからえっと。でも、彼は僕へと手を振ってしまう。行ってしまう。急に「ほらほら」と足元を一気に冷やして、先を急がせる北風に肩をすくめながら。 「あ、あのっ」  そして河野さんは待っていてくださった同僚の方のところへと小走りで向かっていってしまった。 「あの……お時間……」  行って……しまった。 「チョコ……」  渡せなかった。

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