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第17話 しょんぼり花びら
今日は……金曜日、か。
河野さんは相変わらず忙しいかな。
十四日はきっとあの後、夕食だけ済ませて職場に戻ったんだろうし。同じ職場ならまだしも、渡せるわけなんてきっとなかった。
その翌日に電話をしたけれど、上手くタイミングが合わなくて。電話をかけた時には河野さんが取り込み中で、そのあと、折り返しで電話をせっかくいただけた時は、今度は僕が取り込み中で。結局電話にはお互い出られないまま一日が終わってしまって。
その翌日は一日、外出で先生に同行していたから、もう最初から渡せるとは思ってなかったし。
でも、チョコはずっとかばんの中に入っている。どのタイミングで渡せるか分からないから、一応、持ち歩いている。暖房に当たって溶けてしまわないようにできるだけ気をつけて、ずっと。
「蒲田君」
「はい! なんでしょう。先生」
今日は金曜日だ。
もうバレンタインの日から三日も経ってしまった。今更、チョコを渡すのも……おかしいかな。
「今日は金曜日だね」
「はい」
「私ももう帰るから」
「あ、では、お車を」
「いや」
先生は手をそっとご自身のお顔の前に出して、僕が車で送ろうと立ち上がったのを制した。
「大丈夫。君も毎日ご苦労様。今日くらいはもう上がりなさい」
「……」
「私は大学の時の旧友と約束があるから」
そして去年、御息女からクリスマスプレゼントにもらったと言っていたコートに袖を通した。
「金曜日なんだよ?」
そしてにっこりと笑っていた。
金曜日だもの。
いないかもしれない。もう帰られたかもしれない。
「あ、あの……ここで」
タクシーをつい数日前と同じ場所で停めた。
この前よりもずっと遅い時間だもの。もういない可能性だってあるかもしれない。友達とお酒を嗜みに出かけてしまったかもしれない。
だって金曜日だもの。
でも、お仕事が忙しいと言っていた。
今はとても忙しいけれど、また時間ができそうならアウトドアに誘ってくれると言っていた。でもまだ誘っていただいてはいないから忙しいのかもしれない。忙しいなら、まだ、残ってお仕事しているかもしれない。
「……」
電話をかけて。
そして、電話が繋がったら、「お仕事中に大変申し訳ございません」そう切り出す。
それから、今、少しお時間ありますでしょうか? って言って。
大丈夫だと言ってもらえたら。
「おい! 待ってって!」
コートの内ポケットに手を。
「おいって!」
スマホ、取り出そうとしたところで、ぴたりと止まった。
ヒールをカツカツと鳴らしながら颯爽と出てきたのは女性。お話ししたことはないけれど、お見かけしたことならある。確か……久我山さんの身辺調査の時に、少し……久我山さんに好意を……。
とても美人で、僕でも、ほぅ、と見惚れてしまうような綺麗な女性。
「お前ね……」
その彼女を追いかけるように出てきたのは。
「何よ……だって」
河野さんだった。
彼女を追いかけて、その彼女が「だって」と呟いた後は声が小さくなって聞き取れなかったけれど。
「……」
盗み聞きなんて良くない。
マナー違反だ。
お忙しいそう。
「……」
ほら、もう帰ろう。
「……たく」
そう呟いたのが聞こえた。河野さんが。
全く、そう呟いて、彼女の頭をぽんって……撫でた。
撫でて、しばらくすると二人で建物の中に戻っていった。
「……」
それを遠くからずっと見てしまった。見ていたかったわけじゃない。けれど、でも、足が動かなかったんだもの。どうしても動いてくれなくて、足裏が接着剤でくっついてしまったのかもしれないと思ったくらいに動かなかったんだもの。
渡せたらそれでよかった。
今の僕にとってはチョコレートを好きな人に渡す、ただそれだけのことでも百点満点をあげられるくらいの行動力だから。好きな人に何かをしたことなんて一度もない僕にとってはただのチョコレートでも、お礼って名称に変換していたとしても、とても大きなことだったんだ。
渡せたら、それだけでよかったのに…………なぁ。
「ただいま……」
一人暮らしの部屋。返事がないことを寂しいなどと思ったことはなかったけれど。今日はちょっとしょんぼりしてしまう。
「……あ」
リビングの中、ちっとも大きさが無相応な、見事な胡蝶蘭。その花が一つ、萎れてしまっていた。
「……」
ここのところ、帰りが遅くて、お水あげてなかったんだ。
「カラカラだ」
根っこを覆うように被せてある苔は水気が全くなくなっていて、パサパサに乾ききっていた。慌てて、水を霧降器でかけてあげたけれど。でも、花がひとつ萎れて、他の花も少しだけ元気がないように見えた。左右に翼を広げるようにしていた花びらが、はんなりと着物の袖をたたむようにしとやかに項垂れている。
なんだか。
僕の気持ちみたい。
渡せたらそれでよかったはずなのに。
河野さんの恋愛対象に僕はそもそも入っていないのだから、しょんぼりする必要なんてないのに。
「……はぁ」
お水で苔が湿ったことを確かめてから、カバンの中にずっと閉まっていたチョコレートを取り出した。
きっと、もう、渡せることはないだろうから。
渡せそうにはないから。
あの彼女にしてみても、このチョコレートは邪魔だろうし。
「あ……」
でも、これではどちらにしても渡せなかったなぁ。
だって、カバンの中にずっとしまっていたチョコレートは、あの時、買った時に整えてもらったお花のような形になっていたリボンがぺちゃんこに潰れて、花びらみたいに丸みのあった輪っかは今枯れる寸前だった胡蝶蘭の花びらのようにはんなりと閉じて、力無く横たわっていたから。
見栄えが悪すぎてあげられそうにもなかった、から。
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