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第28話 春だ。

 美味しいと言われていたはずのリブステーキはちっとも味がしなかった。  だって、こんなの、信じられないもの――。 「しっかし、まさかあいつと俺が恋人同士って思われるとはなぁ」  河野さんがのんびりとした歩調で独り言のように呟いてから、繁華街で星など見えない空を見上げて笑った。  リブステーキが美味しいと紹介してくれたお店から駅へと向かう五百メートル。美味いんだけど少し駅から遠いんだよなぁと、一歩、二歩、河野さんが先を歩く。 「蒲田の想像力すごいな」 「だ、だって」 「まぁ、そういうところも可愛いって思ってるけどさ」 「!」 「っぷは、そういうとこ。すっごい顔に出るんだよね。それが面白くてさ」 「おっ、おも」  ちょっと前を歩いていた河野さんが歩調を緩やかにして、僕の隣に並んだ。それだけでも舞い上がってしまいそうになる。  もちろん、そんなだから上手にお話ができなくて。僕は、こんなじゃ河野さんは退屈になってしまうんじゃないかなって思った。河野さんばかりお話させてしまったし。  顔になんて出しているのだろうか。いちいち鏡でチェックしないもの。自覚なんてあるわけない。それに、そんなすぐに顔に出るようでは僕の仕事は。 「仕事は優秀で有能、評判もいい。あの先生が太鼓判を押す、自慢の秘書」 「そ、そんなことはっ」 「なのにプライベートになると不器用で、素直で、なぁんも知らないし」 「そ、それは……」 「可愛いなぁってさ」 「……」  河野さんのこの声に心臓が張り裂けてしまいそうなほど、ドキドキする。  普段は張りのある声なのに、今、僕のことを可愛いと言ってくださった時の声は、少し音程が低くなって、静かで、落ち着いていて……優しい。  僕はその声を聞くだけで、耳の辺りにゾクゾクって今まで感じたことのない感覚が湧き起こってしまうんだ。 「でも、河野さんならいくらでも可愛い女性を選べるのに」 「…………あのさ」 「?」 「蒲田の中で俺の評価ってものすごいたっかいけどさ」 「?」 「……まぁ、いっか。俺も蒲田のことすっごい可愛いって思ってるし」 「!」 「それも可愛いよ」  どれ?  どれですか?  今?  僕? 「そういうとこ」  えぇ? 「ちっとも声に出してないのに、今何考えてるのか聞こえてくるくらいにわかるとこ」  そんなにわかりやすいのかな。 「まぁ、大体はね」 「!」  河野さんがぴたりと止まった。  そして僕もそこでぴたりと止まった。  まだ、駅までは二百メートルくらいある。少し雑多でわかりにくい小さな路地の多い繁華街はあっちこっちと道が入り組んでいるせいか、遅い時間帯だからなのか、平日だからなのか、人が歩いていなかった。 「ホント不器用だよね」 「す、すみませんっ」 「彼氏、いたことないの?」 「な、ないです。その……こういう、なんというか、恋愛事は不得手で……」  だって僕は男だから。同性に好いてもらえる確率は女性の何倍も、もう本当に何十倍も難しい。それでなくても緊張してしまうし。 「ないんだ」 「……はい」 「やばいね……」 「! す、すみませんっ」  そっと……手に手が触れた。  やばいと言われて、どうしようと慌てたら、その慌てた手をそっと取られて、指先をこんがらがるように、キュッと握られて。 「キスも、とかさ」 「キ! キキキ」 「やばいでしょ」 「キ!」  僕のおかしな声に河野さんが笑って、でも、指先はこんがらがったままだから解けなくて。 「可愛いすぎでしょ」 「!」  そのこんがらがった指を引っ張られて、一歩前に出ざるを得なくて、でも一歩前に出たら河野さんにぶつかってしまうわけで。ぶつからないようにって――。 「……」  しようとしたけれど、ぶつかった。 「っぷ、目、閉じる」 「へ? は、はい」  ぶつかった、わけではなかった。 「……はぁ、蒲田、やばい」 「はい」  キス、だった。  ぎゅっと目を閉じて、片手は河野さんに取られてしまって、今、硬直状態だけれど、もう片方の手で胸のところをぎゅっと、ネクタイとか皺くちゃになるかも知れないけれど、ぎゅっと握り締めた。  何も見えないけれど、口に柔らかいものが触れた。  驚くほど柔らかくて、生まれてこの方、こんなに柔らかいものなんて僕は知らないほど、柔らかくて。  優しくて。 「……蒲田」 「は、はいっ」  河野さんの声が驚くほど近くで聞こえた。あの、胸が張り裂けてしまいそうなほどしっとりした優しい声が。 「!」  そして、そーっと目を開ければすぐそこ、これも生まれてこの方、こんなに近くで人を見つめたことなんてないほどの至近距離で目が合った。  あまりに近すぎで他のどこにも視線を逃せないようなそんな距離で。 「やばい」 「!」  また言われた。 「これは、けっこうやばい」  あぁ、どうしよう。また言われてしまった。 「まさかなぁ……」  まさか? まさか、こんなだったとは? あまりに話し下手すぎて退屈すぎて、これは「やばい」と思われてしまった? でも、だって、キス……してしまった口が今、ちょっと混乱中で上手に開いてくれなくて。 「こんなに好きになるとはなぁ」  空耳? 「ホント、可愛い……」  そして、あの優しくて、僕の心臓がおかしくなる声がそう告げて、もう一度、キスをした。  僕は大慌てで目をぎゅっと瞑りながら。  三月十四日、ホワイトデー、まだ確か桜の開花宣言はされていないけれど、どこかで少しだけでも咲いたのだろうか。それとも随分遅くに、ようやく咲いた遅咲きの梅だろうか。  どこかからか、花の香りが、春の香りがふわりと鼻先を掠めた気がした。  春だ。  そう思った。

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