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第30話

 今日はあとこの議事録に目を通して、サインしておけば大丈夫。  書類は全て確認済み。  メールもチェック済み。  あとは認証待ちの種類がいくつかあるだけだから。 「さて」  先生のその声に、もしも僕の頭に耳でもあったならピンと立ち上がったと思う。 「そろそろ」  もしも僕の尾てい骨から尻尾がふわりと生えていたら、綿埃を払えるくらいにブンブン振っていたと思う。 「帰ろうか」 「! はいっ」  そのくらい、今日、できるだけ早く帰れるようにって仕事を頑張っていたから。  河野さんからメッセージが届いたのが昼頃のことだった。  いつも通りに忙しくしていた。ようやく昼食にありつけたのが午後三時近く。レストランのランチタイムが終わってしまうギリギリだった。  ランチが来るまでの間にメッセージを確認しようとして飛び上がってしまいそうだったんだ。 『次はー……次はー』  待ち合わせた駅に電車が滑り込むように入っていく。  早く止まれって、ソワソワしながら、扉の目の前に立っていた。  ――今日、夜、晩飯一緒にどう? 久々に少し早く仕事が終われそうだから。  そんなメッセージをもらって、僕はそこから午後の仕事を驚異的な速さで処理していった。僕も河野さんもプライベートを削ってしまうことの多い仕事をしているから。  ――そっちも仕事忙しいだろうから、時間気にしなくていいよ。晩飯、美味そうな和食屋見つけたから、一緒に食えたらってだけ。  早く、早く。  ――俺も定かじゃないけど、仕事上がれるのが九時くらい。  もう九時近くになってしまってる。だから早く。 「!」  河野さんに早く会いたい。  扉が開いたと同時に走り出した。この駅で階段付近に辿り着ける車両にあえて乗ったから、飛び出してすぐ、目の前にある階段をとにかく駆け上がっていく。  こっちの駅の改札口って言ってたよね。現地集合って言ってたけれど、待たせてしまったかな。河野さんも忙しそうだったから、少しでもお仕事に時間がかかって、あんまり待たせてしまっていないといいのだけれど。 「はぁ、はぁ」  走って階段駆け上がってきたから、息が……切れて……しまった。  運動らしい運動なんてしてないから。体力つけないと。  こういう時、ダメだなぁって。 「は、ぁっ」  息を切らせたまま階段を登り切って、そこから改札のある方へと向かう。もう遅い時間だから、ラッシュではないけれど、それでも人はたくさんいて、慌てすぎると人にぶつかってしまいそうになる。それをかいくぐりながら改札の外へと出た。 「……えっと」  どこだろう。  仕事の後だからスーツだと思うけれど、もう四月になる。冬物ではない、かな。少し春物の薄いトレンチコートじゃ寒いけれど、でも、もうコートは――。 「わ……」  思わず、声が出た。  いつもはダークグレーや濃紺のアウターを着ていることが多かった河野さんが今日は明るいベージュの春物のコートを羽織っていたから、今までと全然違っていて。  彼にだけ何か特別スポットライトが当たってるみたいに、目を引く気がした。しばらく眺めていたくなるようなかっこいい横顔に足がピタッと止まる。 「!」  ドキドキして。  そのドキドキが数メートル先にいる河野さんに伝わってしまったのか。ふと何かに気がついたようにこっちへ視線を向けた。  わわ。  こっちに来る。  僕に気がついてこっちに。 「お疲れ。案外、早かった」 「す、すみませんっ」 「……っぷ」  ひゃ、わ……笑われてしまった。なぜか。  怒ってはいない? 案外早かったと言ってもらったけれど、それでも、たくさん待たせてしまったと思うから、お仕事後で疲れていると思うのに。 「額、丸出し」 「! わっ、すみませんっ、ボサボ……」  彼が笑った理由に頬が赤くなる。今、ものすごい勢いで駆け上がってきたから、前髪が全部あっちこっちにいってしまって、ボサボサ頭になってしまった。なんてことだと、せっかく、デ、デ、デートなのに恥ずかしいと大急ぎでおでこを隠そうとした。けれど僕の手が。 「どんだけ走ってきたの」  僕の手がボサボサ頭を直すよりも早く、河野さんの手が僕の髪に触れて。  優しく撫でられて。 「顔も真っ赤だし」  優しく触られて。 「お、お待たせしてしまってるから、と」 「別にそこまで待ってないよ。きっと遅いだろうって思ったしな。それに俺、キャンパーだよ? こんくらいの寒さなんてことないって」  河野さんに優しくされると胸の辺りが大変な事になる。ぎゅってして、動悸もすごくなって、それでいて、ふわふわになる。 「ほら、行こうぜ」 「!」  そして、先を歩き始めた彼においていかれてしまわないようにと、駆け出しながら、また笑われてしまうことのないように前髪を手で抑えたら、今度はその様子が面白かったのかな。 「腹減った」 「ご、ごめんなさい」  やっぱりたくさん待たせてしまったと慌てて謝ると、僕の前髪を抑えていた手ごと、大きな手でぽんって撫でて、ボサボサで真っ赤なんだろう。  河野さんに結局また笑われてしまった。

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