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第41話 一歩
「うーん……もうそろそろお水あげてもいいかな……」
部屋に飾っている胡蝶蘭はもしかして僕は造花でもいただいてきてしまったのかな? と思ってしまうほど。枝先についた花がそのまま咲き続けている。もちろん触れば本物のお花で、その花びらにはちゃんとみずみずしさもある。こんなに花が長く咲いている植物だなんて思いもしなかった。
あんまりお水をあげてはいけないってどのサイトでも言っていた。構いすぎて、お水をこまめにあげてしまうと根っこが腐ってしまうらしい。上に被せるように根っこを覆っている苔がパサパサに乾いてから二日、三日置いて、朝、一つの株ずつにお水をコップ一杯分。
「枯れてはない……よね」
そっと葉っぱに触ってみるけれど、特に萎れているわけでもないし、触ればしっかりと硬さもある。
根っこは……あんまりわからない。元気なのか元気じゃないのか。でも、淡い緑色をしている。そしてその根っこを覆っている苔はもうパサパサに乾いている。
「明日くらい、かな。お水……って、わっ、早くランニングに行かなくちゃっ」
胡蝶蘭の頭上にある掛け時計に目をやれば、もうそんな時間だった。
朝、出勤前のランニング。
あの日から毎日走ってる。
自宅マンションの周りを二周だけ。
たった二周? と、本格的なマラソンをしている方には笑われてしまうだろうけれど。
「あ、おはようございます」
部屋を出て、エントランスに向かうと管理人さんがいつも通りそこにいた。
毎日走っていたら、毎朝、管理人さんが正面エントランスのお掃除をしてくれていることを知った。
朝の挨拶をすると、マスクをしていてもわかる笑顔で「毎日すごいですね。おはようございます」と挨拶を返してくれた。
毎日走るようになって、背が伸びた気がする。
きっとそれは俯かなくなったから、かな。
それから、もう一つ。毎日走るようになって知ったこと。
朝はその日一日のスケジュールをもう一度確認しながら、帰りはもうヘトヘトだし、翌日のスケジュールは万全かどうか今一度頭の中でシミュレーションしたり。
だから気が付かなかったんだ。
僕の住んでいるこのマンションにこんなにお花が咲いていたなんて。
もうここに住んで何年も経つのに、今ごろになって、それを知ったんだ。
春なんだって思った。
小さな白い花がたくさんついた枝が風に揺れて、黄色の鮮やかな花には蝶々がいたり。よく見ると蟻がいたり。大都会なのに小さな蟻たちがいて、土の中で忙しく行き来していた。
まだ十日。
ただ自宅マンションの周囲をたったの二周だけ。
それなのに、新発見がたくさん。
そして新発見がまだあるかもしれないと、顔を上げて、周囲を見ながら歩くようになったら、なんだか視線が高くなったような。
空はこんな優しい色をしていたっけ?
風はこんなにここを通り過ぎていくのだっけ?
春はこんなに暖かかった?
マンションの周囲にこんな大きな桜の木はあった?
知らなかったんだ。僕はこの辺りはほとんど通らないから。
走るスピードもとても速くなった気がする。
もう二日目はひどいなんてものじゃなかった。
初日のお昼からすでに筋肉痛でブリキのオモチャ化していた僕は二日目ともなると、もうカクカクギシギシガタガタ、そんな音がしそうな動き方をしていたと思う。
でも続けた。
一度決めたことはちゃんと。
だから、そんな状態でも走っていたら、遠すりすぎる人が全員、ものすごく驚いた顔で振り返っていたっけ。大丈夫か? って顔をしている人もいたくらい。
すごいことだ。
そんなだった僕が今はランニング二周、普通に走ることができるようになったんだから。
「よーし」
少しは体力がついたかな。
もう、二周くらいなら筋肉痛にもならなくなったし。
今日も走るぞって思った時だった。
スマホは走っている時に持っていられないから、手首につけることができて着信やメッセージの受信を知らせてくれるものを買った。これならランニングのペース管理もできて、連絡の着信、メッセージの受信もできるから。何か急用がってなった時でも対応できると思って。
「わっ!」
仕事の連絡かなって思った。
――朝からごめん。来週少し時間に余裕ができそう。遅くなるから晩飯くらいしかできないけど。
「!」
それは成徳さんからの連絡だった。
成徳さんとのメッセージのやり取りはそう多くはないと思う。お互いに忙しい身だってことは重々承知しているから、特に気にしたりはしてないけれど。でもやっぱりこうしてメッセージが来ると嬉しくて、つい、すぐに返信してしまうんだ。
「来週……」
本当はアウトドアでお花見もしたかったんだけど、仕事が酷くて。今年は無理そう。
そうメッセージには綴られていた。
お仕事やっぱり忙しいんだ。四月だもの。成徳さんのお仕事に暇な閑散期なんてないのだろうけれど、きっと今はまた新しい職員の方々がいるだろうから。
特に忙しいのかもしれない。
「やった」
僕は足を止めてそのメッセージに自然と顔が綻んでいく。
二周し終わったらすぐにお返事しなくちゃ。
もちろんですって。
「よし!」
二周……。
「よーし」
今日から三周にしてみようかな。
また筋肉痛になるかな。
でも――。
「今日から三周、だ!」
もう一周増やしたら、もっと違う新発見ができるかもしれない。
そう思って踏み出した一歩は、まるで足元に水溜まりでもあったかのように、大きな一歩になって、飛んで、跳ねて、ステップのような一歩になった。
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