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第42話 君に触れる

 今日も一日とても頑張ったと思う。  朝、ランニングするようになったからかな。少し身体が軽く感じられる気がする。三周に増やしてまた筋肉痛になってしまうかなって思ったけれど、それも大丈夫だった。  なんだか、少しだけ。  ほんのちょっとだけ。  僕は変われたような気がしている。 「少し……前髪、長くなったかなぁ」  もう少しだけ、ほんのちょっとだけ、前髪をちょっとだけ短くしてみようかななんて思えてみたりもした。  春だし。  顔を上げて歩くようになったら前髪が長い気がしたから。  少し切ってみようかな。 「……うーん」  どうかな。  トイレの鏡の前で自分の前髪を少し整えながらそんなことを考えていた。  だって今日は、河野さんと食事ができるんだもの。  髪の毛ボサボサじゃダメでしょう?  ちゃんとしなくちゃ。そして、やっぱり近いうちに髪を切りに行くことにした。だって、ほら、耳にも髪がかかるから。 「! いけない! 約束の時間!」  ちょうど仕事の都合で近くまで来るらしくて、だから、待ち合わせは僕の職場になったんだ。もうそろそろ来てしまうだろうから、急いで行かなくちゃ。ここまで来ていただくのに、待たせてしまうなんてことしてはならないから。  だからほとんど駆け足で事務室へと向かった。  僕がお手洗いへと離席するタイミングで先生ももう帰るからと仰っていた。お見送りを、って言ったら、そんなものはいいから、早く帰りの支度をなさいと言って。  だからもしかしたら今日、この後何かあると先生は察していらっしゃるのかもしれない。  あんなに周囲への気配りが完璧な方は他にいないと思う。  あんなに理想が高く、誰よりも強い信念をお持ちなのに、その物腰は他のどの先生方よりも柔らかく低姿勢だ。  僕はあんな人に――。 「そうなのか。それはそれは」 「いえ、こちらこそ、いつもお世話になってるんです」  急いで今日のためにって、ちょっと今夜の天気では肌寒いけれど、着てきたコートを取りに事務室へと戻ってきたら、先生と、それから成徳さんの声がした。 「ぜひ、楽しい食事を……お、ちょうど戻ってきたようだよ」  びっくりした。 「あ、あのっ」 「……どーも」 「あ、お疲れ様です」  成徳さん、ここまで来てくださったんだ。  僕を見つけて、にっこりと上品な笑みを浮かべてくれる。僕はその他所向けの綺麗な微笑みにすごくドキドキしながらお辞儀をした。 「ちょうど君が離席した直後に彼が現れてね。立ち話をしていたところだ」 「すみません。足を止めてしまいまして」 「いやいや、こちらこそ、足止めをしてしまった。楽しいひとときだったよ」 「こちらこそです」  成徳さんがお辞儀をすると先生は上機嫌な笑みを浮かべ、僕らへ手を振るとそのまま行ってしまわれた。 「すみませんっ、あの、お待たせしてしまって」 「いーよ。別に」 「あの……」  僕、また真っ赤だった?  成徳さんが僕をじっと見つめて、それからさっき長くなったかなって、少し切ろうかなって思った前髪をじっと見つめた。 「腹、減ってる?」 「あ、はいっ」 「じゃ、行こうか」 「はいっ!」  また元気よく返事をしてしまった僕に成徳さんは笑って、じゃあ、今日は何食おうかって、一瞬だけ。  ちょっとだけ。  僕の前髪にその指先で触れた。 「美味いかどうかわかんないけどね」 「でも! そんなに絶賛されてるならきっと美味しいと思います!」 「かもな。彼女、すっげぇ肉食だから」 「……あは……はは……」  僕の笑いは引き攣っていたんだろう。  成徳さんがその笑いを見つめて数秒後、大きな声で笑った。  だって、今僕らが向かっている焼肉屋さんはあの彼女、ピンヒールがよく似合う、あの方からのお薦めだった。夜の八時なんて入れないけれど、九時すぎなら比較的入れるからちょうどいいかもしれないと。  そして成徳さんの「彼女は肉食」の一言でパッと頭に浮かんだ絵柄にどうしても顔が引き攣ってしまった。  僕が成徳さんの恋人だと勘違いしてしまった人。あの人ってまさに肉食って感じがしてしまうんだもの。  駅を出て、大きな広場には今待ち合わせなのか、別にただ佇んでいるのかはわからないけれど、スマホをじっと見つめて立っている人が数多くいた。  そんな人たちの間を歩いて、駅から数分、少し離れたところにあるのだけれど、僕らは肉食な彼女が教えてくれた焼き肉屋に向かっている。 「あー……すげ、売れてんなぁ」 「? アイドル……ですか?」  信号待ちをしていたら、前方の大画面に写っている二人組の女性アイドルを見上げながらそんなことを成徳さんが呟いた。 「あの片方、俺と大学一緒だったんだよね」 「へぇ……えぇ? エリート?」 「知らないの? なんだ、佳祐こういうのちっとも詳しくないね。日本で何が流行ってるか、色々リサーチしときな? 政治家なんだからさ」 「す、すみません……」 「そんであの片方、右のが同じ大学だったんだよね」 「そうなんですね」  じゃあ、あの人もエリート。 「エリートアイドルって売り込みしてる。最悪のネーミングセンスって思ったけど、これがなかなかシンプルで良いって評判でさ。売れてるんだよね」  そうなんだ。 「世の中わかんないもんだ」 「でも、可愛いですよ?」 「……まぁね」 「?」  僕、何かおかしなこと、言ったかな。  でも、顔、とても可愛いと思ったし。アイドルになれるくらいなんだから可愛いに決まってるのに。何か、ちょっと不服なのか成徳さんが僕をじっと見つめて。  そこで、ぴゅっと強い風が繁華街の大きな道路を駆け抜けた。  僕も成徳さんもその風に髪を乱されて。 「わっ……ぷっ、す、すごい風ですねっ」 「……そうだな」  髪がボサボサだ。その春風で一瞬にして台無しになった前髪を成徳さんの指先が撫でて、そっと優しく直してくれる。  そのやさしい指先に、僕は、まだ切るのは少し後にしようかな、なんて考えていた。  すぐにぐちゃぐちゃになってしまうけれど、これなら成徳さんにたくさん。  たくさん触ってもらえるなんてことを、考えていた。

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