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第52話 雨音
小さい頃、お気に入りのぬいぐるみがあった。淡いブラウン色のクマのぬいぐるみ。眠る時はいつもそれをベッドに連れて行って、ぎゅっとしながら、自分の枕を半分、そのクマに明け渡して眠っていたっけ。
海外生活が長くて、海外では「日本人」で。日本では「外国にずっといた人」で。
なんだかどっちにも属してないように思えた。人見知りで、友達を作るのがとても下手だった僕にとっての大事な「お友達」だった。
ずっと一緒で。
ずっと隣に連れて歩いて。
僕だけのって、大事に、大事に。
あの時、ぬいぐるみはこんな気持ちだったのかな、なんて。
「その女たちの会話を聞いて、俺もそんなことを思ったって?」
「はい」
ベッドの中で、毎日の日課を詳しくお話ししていたところだった。
「マンションの周りを走って体力つけて?」
「はい」
「リズム感がよくなるようにってオンラインでダンスレッスンして?」
「はい」
「……っぷ」
「あ! 笑いましたね!」
「だって、かわいーじゃん」
「僕は、一生懸命にっ」
ベッドの中、ぎゅっと抱きしめると落ち着いて眠れた。柔らかいふわふわしたぬいぐるみの毛に鼻先を埋めて、あの柔らかさを胸のところに抱えて。
「それから、女、ではなく、女性と言ってください!」
「はーい」
成徳さんは笑いながら僕の頭に鼻先を埋めて、僕の髪を優しく撫でている。
「そのうち、十周くらいできるようになりますから!」
「まだ続けんの?」
「はい! 管理人の方とも仲良くなれましたし、ただマンションの周りなんですけど、それでも色々見落としていた景色や草花があって楽しいんです」
「へぇ」
「なので、これからも続けて、そしたら、もっと成徳さんの……こと……」
顔を上げて。
「っ」
すぐさま顔を枕に埋め直した。
「俺のこと、満足させてくれるんだ?」
僕のことを見つめる成徳さんが、もう暗闇に慣れてきたおかげで、薄暗い中でもよく見えたから。
とても優しい顔で、とても、その、なんというか、愛しいものを見つめるような眼差しで。それに、今、何気なく僕はお話しをしていたけれど、大前提として、僕はまた成徳さんと、その……次回も、その、つまりは。
「楽しみにしてる。次のデート」
「っ」
また、こうして、セッ………………クスを、する前提で話してしまったから。
そして。成徳さんは僕の真っ赤になっていると思われる耳、その理由を全部わかっていそうだ。ほら、微かに笑ってる。声が。
「朝までコースとかな」
「朝まで!」
「そろそろ、新人も使えるようになってきたし」
「!」
「もう少し、時間作れそうだから。まぁ、そっちは変わらず忙しいんだろうけどさ」
そう、ですね。僕の方は季節柄で変わる忙しさではないから、年中忙しい仕事だから、あまり変わらないかもしれないけれど。
「無理のない範囲で、そっちの職場にもここ遠くないでしょ? 泊まっていけそうな時とかさ」
忙しいけれど、でも。
「はい」
でも、僕は成徳さんに会いたいから。
「明日はゆっくり……すご……して、さ……」
子どもの頃、ぬいぐるみ君をぎゅっとしたらとても気持ちが柔らかくなって、寝付きがよかった。寝る時は欠かせないお友達だった。
僕は「お友達」ではないけれど。
「おや……すみ……」
ぬいぐるみ君はお話しできなかったけれど、こんな気持ちだったかな。
だって抱きしめられるのは心地良い。柔らかい吐息と混ざり合うと安心する体温はとても安心できる。
そして、知らなかった。
「おやすみなさい、成徳さん」
抱きしめてくれる腕の僅かな重みが心地良いって。
こうして抱きしめられていると優しい気持ちになれるって。
ずっとこうして一緒にいたいなって。
そう思った。
「先生、こちらが今度の会合のための資料です」
「うん、ありがとう」
先生は資料を受け取ると、視線を窓へと向けた。
「……雨で足元が悪くなってますから、車での移動も」
今日は雨だった。
明日も、雨が午前中だけ続くらしい。
「そうだ。蒲田君」
「? はい」
「彼は君の友人かな?」
「? ……河野さんのこと、でしょうか」
「そう、河野君」
友人、というものが少ない僕は先生がどなたのことをお話ししているのかすぐに当ててしまった。ここ最近で、先生の前でお話しをしたプライベートな知人なんて、成徳さん以外にいなかったから。
「彼、とても優秀らしいね」
「はい。そのように伺っています」
「僕の友人で」
「……」
「小野町という」
「……」
「彼の娘さんの見合い相手にどうかな」
「……」
急に。
「いや、今どき見合いもどうかと思うんだが、そんな話がほとんどないことに憂いていてね。この前、君がその河野君と話していた晩にね、その小野町と飲みに行って、見合いでもしてみたらどうかなという話になったんだよ」
急に雨音が大きく聞こえた気がした。
「彼がとても優秀だと聞いているし、私も話をしてとても好感を持ったんだ。それに独身らしいね」
明日も、午前中は雨で、その後も、一週間の天気予報には雨マークがポツポツあった。週末も雨だったから、あぁ、アウトドアはしばらく出来なくて、成徳さんは残念に思うかな、なんてぼんやりと思っていた。
「とても良い話だと思うんだ」
次はいつ成徳さんに会えるかなって、雨音がまた一段と大きくなる中、そんなことを思っていた。
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