聞かなければよかった。 　成徳さんがどうしてそのお仕事に就いたのかなんて。 　見ればわかることだったのに。お仕事に向き合う真摯な姿勢を知っていたのだから。 　――まぁ、ガキだったからさ。この国に住む人を守れるようになろうとした主人公にモロ感化されたっていうか。 　そんなことを聞いてしまったら。 　――でも、今でもそう思ってるよ、エリート思考とかじゃなくさ、クサイ台詞になるけど、この国をよりよくしていくために働いてる。じゃなくちゃ、こんな激務こなせないでしょ。 　そう、電話越しに聞きながら、成徳さんの照れ笑いの表情が目に浮かんだ。 　その表情を思い浮かべて、胸のところが苦しくて、昨日はあまりちゃんと眠れなかった。 　今日は……そうだ、専門家の方々からのお話しを伺うんだった。ちゃんと頭に入れなくちゃいけないのに、頭の中は昨日のことでいっぱいで。 　とても大好きな人の、そんな夢を教えてもらった。 　応援したいと、心から思っている。 　もちろん、邪魔なんでできない。 　僕は成徳さんの邪魔はできない。 　大事な人だもの。 「おはようございます」 　一夜明けて、朝、出勤のためにエントランスに向かう。顔を上げると管理人さんが雨の中、カッパを着た姿でちょうど管理人室から出たところだった。 「……おはようございます」 「今日もあいにく雨ですねぇ。もう梅雨入りかな」 　昨日も雨だった。そして今日も朝から雨。 　午前中は雨の確率が高くて、午後からところどころで晴れ間が見えることもあるかも知れない程度。洗濯物の外干しはやめた方がいいでしょうってお天気予報が教えてくれた。 「そうかもしれないですね」 　エントランスのガラス自動ドアの向こうでは、革靴では出るのを躊躇ってしまいそうになるほどの雨が降っている。 「……ドシャ降り」 　昨日の電話、まだ職場だったのにかけて来てくれた。 　しばらく会えないって言っていた。 　本当にとてもお忙しいんだろう。きっとこの間の休日はたくさんスケジュールを詰めて作ってくれたんだと思う。 　昨日はまだ帰れそうにもないって仰ってた。 　その仕事の合間で、かけてきてくれた。 　僕に気を遣ってくれたのかな。 　なんの電話だったのだろう。特に要件があったわけでもなかったし。 　もう縁談のお話はあったのかな。 　流石にまだ、かな。 　でも、とても良縁だと思う。 　とても。 　成徳さんの夢を叶えるにはとてもいいって。 　それにそもそも成徳さんは女性が恋愛対象なんだ。僕が奇跡的に例外になれただけのこと。 　先生もとても素敵な女性だと、そのご友人の娘さんのことをお話ししてくださったもの。きっと、成徳さんだって、その女性のことを――。 「っ」 　胸、苦しいな。 「これじゃあ、ランニングは難しいですね」 「……ぁ……」 　ランニング、か。 「そう……ですね」 　でも、もうする必要ないと思う。 「雨じゃ、できそうにないですね」 　もう……いらないかもしれない。 　空は朝とは思えないほど溜め息がこぼれてしまいそうなどんよりと灰色の分厚い雲に覆われていた。 　神様が言っているみたいだった。 　もうランニングをする必要はないのだから、やめておきなさい、って言っているみたい。 　雨はどうみても午前のうちに上がるとは思えないドシャ降りだった。 　天気予報は大外れ。 　雨は夜まで降り続けている。真っ暗な町並みをところどころ部屋の明かりや街灯が照らしているのだろうけれど、明るい車内からではその景色は見ることができず、ただ、外をぼんやり眺めている僕の姿が映し出されている。 　帰りの電車の中、窓の外を雨粒が風に流されてつたっていくのを眺めながら、思ったんだ。 　今度こそ、ちゃんと恋ができたな、って。 　好きな人に好きだと伝えられた。 　それだけでも十分だったのに、成徳さんが僕のことを好きになってくれた。 　好きになってもらえた。 　とてもとっても嬉しくて、この数ヶ月、本当に嬉しくて、楽しくて。 　ほら。 「……」 　ね？ 　ちゃんと恋ができた。 　好きって告白もして、触れ合って、キスをして、夜を一緒に過ごして。 　本当にちゃんととっても好きになったから、今。 「……」 　今。 「っ」 　こうしてその大好きな人の将来を思おう。 　あの人の幸せを願おう。 　ちょっとの間でも「ちゃんと」恋ができたから、僕はそれで満足する。 　僕はそれでいい。 　それで、いいでしょう？ 　成徳さんの夢が叶うなら。僕は喜んで応援する。僕のことは気にしないでくださいって。 　大好きな成徳さんの幸せを。 　僕のことを好きになってくれてありがとうございましたって。 「っ、っ」 　僕は心から願っています。 　そう胸の内で言葉を並べてみたら、その途端、ぽとりと雨粒が僕の頬からも零れ落ちた。 　目をぎゅっと閉じると、成徳さんの笑った顔が浮かぶから、僕はそれを大事にしていこう。守ってあげよう。この先、大事な人が表情を曇らせることのないように。これからも歪んだり、戸惑ったり、悩んでしまうようなことにはならないようにって。 　よく、言うでしょう？ 　本当に好きなのならば、その人の幸せを一番に願うものなんだって。ドラマや本にそんな台詞が書いてあるでしょう？　僕も本当に彼のことが好きだから、ちゃんと守らなくちゃ。 　愛しい人の未来を。 「っ……」 　僕は守りたい。